皇居の西、半蔵門から四ツ谷駅へ向かう一帯に、一番町から六番町までの「番町」が広がります。静かな住宅街の足元には、江戸城を守った旗本屋敷、明治の華族・官吏の邸宅、女子教育の学校、近代文学を担った作家たちの暮らしが重なっています。
2023年9月2日のゆる歴史散歩会で歩いたルートを土台に、番町の成り立ちから現在の街並みまでをたどります。

番町とは|江戸城西側を守った大番組の旗本屋敷
番町の名は、徳川家康が江戸城西側の守りを固めるため、将軍の警護を担う大番組の旗本をこの一帯に住まわせたことに由来します。千代田区の町名由来板にも、一番町・二番町周辺に武家屋敷が並んだことが記されています。
江戸城の西側は、半蔵門や四谷門など城への出入口につながる重要な地域でした。番町の武家地と城門を一緒に見ると、この町が江戸城の防衛と深く結びついていたことが分かります。江戸城の城門については、「江戸城三十六見附とは?全36か所の一覧・見どころ・巡り方」で詳しく紹介しています。

現在の一番町から六番町は、江戸の番町を基盤としながら近代の町名整理を経て成立しました。明治以降には上二番町・下二番町・中六番町などの町名が使われ、昭和13年(1938年)の町名整理などを経て現在の番町へつながりました。古地図では、当時の町割と現在の道路・町名の違いから、街の変化を読み取れます。

武家地から高級住宅地へ|明治の番町
明治維新で武家社会が終わると、番町の土地利用も変わりました。皇居や中央官庁に近い一番町には政府役人の官舎や華族の屋敷が並び、山県有朋の邸宅も置かれました。二番町では伯爵・子爵や官吏の邸宅が増え、千代田区は明治期の二番町を「高級住宅地」と説明しています。
番町の住宅地としての格は、江戸の大きな武家屋敷地が近代の邸宅地へ引き継がれたこと、皇居・官庁街への近さ、学校や外交施設が集まったことと重なって形成されました。
一番町には明治5年(1872年)に英国公使館が移転し、のちの英国大使館へつながりました。番町には現在も外交施設があり、四番町の駐日ローマ教皇庁大使館については、「駐日ローマ教皇庁大使館はどこへ移った?三番町の旧鈴木忠治邸と100年の外交史」で詳しく紹介しています。
女子教育の町としての番町
明治の番町には、近代日本の女子教育を担う学校も集まりました。1900年、津田梅子は麹町区一番町に女子英学塾を開校しました。現在の津田塾大学の前身で、開校時の塾生は10人でした。1903年には五番町へ移り、番町の中で教育の場を広げています。

女子学院も番町の教育史を語るうえで欠かせません。学校の源流は1870年に築地居留地で始まったA六番女学校にあり、1890年に桜井女学校と新栄女学校が合併して「女子学院」となり、現在地に校舎を新築して発足しました。前身の桜井女学校は明治初期に六番町の旧旗本屋敷を校舎として使った時期もあります。
武家屋敷の町が、明治には女性が学ぶ場へ変わっていきました。日本の女子教育とミッションスクールの広がりは、「日本のミッションスクールの歴史|明治の英学塾から大学・女子教育へ」でもたどれます。
番町に暮らした文人・音楽家
明治から昭和初期の番町には、音楽家や文学者が数多く暮らしました。現在も「まちの記憶保存プレート」や史跡碑が点在し、住宅街を歩きながら近代文化史を追えます。
滝廉太郎居住地跡|一番町に残る近代音楽の記憶
滝廉太郎は「荒城の月」「花」などで知られる作曲家です。一番町には居住地跡を示す碑があり、番町が文学だけでなく近代音楽とも結びついた土地だったことを伝えています。

与謝野晶子・鉄幹旧居跡|『明星』の時代を歩く
与謝野晶子と与謝野鉄幹は、1911年から1915年にかけて四番町に暮らしました。晶子は歌集『みだれ髪』、鉄幹は雑誌『明星』の主宰で知られます。近くの現在の東京家政学院本館付近は『明星』創刊の地にもあたり、四番町一帯には近代詩歌の記憶が重なっています。

有島三兄弟と菊池寛|六番町が文学の拠点になった時代
六番町では、1896年に有島家が旧旗本屋敷を購入し、有島武郎、有島生馬、里見弴の三兄弟が育ちました。武郎と生馬は武者小路実篤や志賀直哉らと『白樺』に参加し、近代文学・美術に大きな足跡を残します。
有島武郎の死後には菊池寛がこの地の一部を借り、自宅兼文藝春秋社として使いました。一つの旧武家屋敷が、有島家から白樺派、さらに菊池寛と文藝春秋へつながる場所になったのです。
泉鏡花|六番町で29年を過ごした作家
泉鏡花は1910年に六番町へ移り、1939年に亡くなるまで約29年間暮らしました。住まいは有島家の向かい側にあり、この時期に「夜叉ヶ池」「天守物語」などを執筆しました。与謝野夫妻、有島三兄弟、泉鏡花を結ぶと、番町が大正期の文学者たちの生活圏だったことが実感できます。
学校建築と町の記憶|九段小学校・番町小学校
番町周辺では学校の敷地や校舎そのものにも都市史が残っています。千代田区立九段小学校の校舎は関東大震災後の復興事業の中で建てられた震災復興小学校の系譜にあり、1926年に竣工しました。震災後の東京が学校と公園を一体で整備した背景は、「関東大震災後、東京はなぜ学校の隣に52の公園をつくったのか|復興小学校と復興小公園」で詳しく紹介しています。
六番町の番町小学校周辺も、江戸から明治への変化を読み取れる場所です。現在の学校付近には江戸時代、定火消役屋敷や上野小幡藩の上屋敷がありました。武家地だった土地が近代の学校へ変わったことは、番町全体の変化を象徴しています。
一番町~六番町を歩く歴史散歩ルート
2023年9月2日の散歩では、一番町から六番町を抜け、四谷門跡へ向かう流れで史跡や学校を巡りました。現在も歩いて位置関係を確かめやすい地点を、歴史のつながりが分かる順に並べます。
- 滝廉太郎居住地跡の碑:一番町に残る近代音楽史の史跡です。
- 駐日ローマ教皇庁大使館:番町に続く外交施設の歴史をたどれます。詳しくは大使館の100年史へ。
- 千代田区立九段小学校:関東大震災後の復興学校建築を伝えます。
- 与謝野鉄幹・晶子旧居跡:『明星』と近代詩歌の記憶が残る四番町です。
- 女子学院中学校・高等学校:明治の女子教育と番町を結ぶ学校です。
- 有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡:白樺派から菊池寛、文藝春秋へつながる文学史の舞台です。
- 千代田区立番町小学校:江戸の武家地から近代教育の場への変化をたどれます。
- 内田百閒「三畳御殿」跡地:番町に暮らした作家の旧居跡を訪ねる地点です。
- 雙葉中学校・高等学校:四ツ谷側へ抜ける散歩の終盤に位置する女子教育の名門です。
- 四谷門跡:番町の武家地から江戸城外郭の城門へ歴史をつなげる終点です。
住宅街の中では、町名由来板、保存プレート、道路の位置が過去の町割を伝えます。これらを拾いながら歩くと、武家地・邸宅地・教育の町・文人の町という時代の層がつながります。
番町の歴史を時代ごとに見る
| 時代 | 番町の主な姿 | 歩いて見える手がかり |
|---|---|---|
| 江戸 | 大番組の旗本を中心とする武家地 | 四谷門跡、旧屋敷地、町名の由来 |
| 明治 | 華族・官吏の邸宅、高級住宅地、外交施設 | 英国大使館周辺、邸宅地の区画 |
| 明治~大正 | 女子教育と近代文化の町 | 女子学院、津田梅子ゆかりの地、滝廉太郎旧居跡 |
| 大正~昭和初期 | 文人・芸術家が暮らす住宅地 | 与謝野夫妻、有島三兄弟、泉鏡花の旧居跡 |
| 現在 | 皇居西側の住宅地・文教地区・外交施設 | 一番町~六番町の街並み、学校、大使館 |
よくある質問
番町の名前の由来は?
徳川家康が江戸城西側の守りのため、大番組に属する旗本をこの一帯に住まわせたことが「番町」の地名につながりました。
番町はいつ高級住宅地になった?
明治期です。千代田区は二番町について、伯爵・子爵や官吏の邸宅が並ぶ高級住宅地になったと説明しています。一番町にも政府役人の官舎や華族の屋敷が置かれました。
一番町~六番町は江戸時代から同じ区画?
江戸時代の番町と現在の町名・区域は異なります。明治以降にも上二番町、下二番町、中六番町などの町名があり、1938年の町名整理などを経て現在の一番町~六番町へつながりました。
番町で文学史を感じられる場所は?
与謝野晶子・鉄幹旧居跡、有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡、泉鏡花旧居跡などが近い範囲に集まっています。千代田区観光協会はこの一帯を「番町文人通り」として案内しています。

