錦糸町~住吉ナイトウォーク開催レポート|錦糸公園の王貞治・竪川・猿江恩賜公園を歩く

錦糸公園野球場にある王貞治記念碑「僕の野球の原点」

錦糸町駅から住吉駅へ歩くと、にぎやかな駅前のすぐ先に、江戸の貨幣鋳造、運河、材木蔵、鋳物業の痕跡が続きます。亀戸銭座跡、竪川たてかわ、猿江さるえ恩賜公園、小名木川を結ぶと、錦糸町・住吉が「水路と物流の町」から近代の商業・娯楽地区へ変わってきた流れを一度にたどれます。

2025年5月23日(金)19時から、ゆる歴史散歩会では「錦糸町~住吉ナイトウォーク!」を9名で開催しました。錦糸公園に残る王貞治おう さだはるの記憶から、江戸の水運を支えた竪川、猿江恩賜公園さるえおんしこうえんの御材木蔵跡まで、現在の夜景と地域史を重ねて歩いた開催レポートです。

2025年5月23日開催レポート|9名で錦糸町から住吉へ

この日は19時に錦糸町周辺をスタート。駅前の商業地から錦糸公園へ入り、王貞治ゆかりの場所を見たあと、亀戸銭座跡、楽天地周辺、竪川、猿江恩賜公園、釜屋跡、小名木川方面へと歩きました。現代の繁華街、昭和の娯楽史、江戸の貨幣生産や水運、材木流通が短い範囲に重なるのが、このコースの面白さです。

錦糸公園で王貞治の「野球の原点」を見る

錦糸公園きんしこうえんは、関東大震災後の復興事業のなかで整備され、1928年(昭和3年)7月18日に開園した公園です。墨田区の通史年表でも「復興公園として開園」と記されており、現在は野球場や体育館などを備えた地域のスポーツ拠点になっています。

最初に見たのが、錦糸公園野球場のそばにある王貞治記念碑「僕の野球の原点」です。王氏は墨田区に生まれ育ち、少年時代からこの地域で野球に親しみました。日本野球機構(NPB)の記録では、1959年から1980年まで巨人でプレーし、通算868本塁打を記録しています。記念碑は、世界的な記録を残した選手の出発点が、いまも地域の公園のなかに残っていることを伝えています。

錦糸公園野球場にある王貞治記念碑「僕の野球の原点」
錦糸公園野球場の王貞治記念碑「僕の野球の原点」。バットとボールをかたどった造形が目印です。

記念碑のバットとボールをかたどった造形は、夜の公園でも目に留まります。王氏が少年時代を過ごした墨田と、現在の錦糸公園野球場が一本の線でつながる場所でした。

2025年5月23日の錦糸町ナイトウォークで錦糸公園を歩く参加者
2025年5月23日の開催レポート。錦糸町駅周辺から錦糸公園へ進み、夜の街を歩きながら歴史スポットを巡りました。

参加者と錦糸公園を歩きながら、震災復興で整備された都市公園という側面と、戦後の野球文化の記憶が同じ場所に重なっていることを確認しました。現在の広い園路や運動施設だけを見ていると気づきにくい歴史ですが、記念碑を見ることで公園の意味が立体的になります。

「王貞治のふるさと墨田」で少年時代の足跡をたどる

続いて、錦糸公園内のひがしんアリーナ(墨田区総合体育館)にある顕彰けんしょうコーナー「王貞治のふるさと墨田」を見学しました。墨田区の資料によると、館内には王氏が墨田で過ごした幼少期の品や現役時代のユニフォーム・グローブ、写真などが展示され、区内のゆかりの場所を示す地図も紹介されています。

ひがしんアリーナの王貞治顕彰コーナー「王貞治のふるさと墨田」
ひがしんアリーナ(墨田区総合体育館)にある顕彰コーナー「王貞治のふるさと墨田」。

展示は、王氏の記録をプロ野球の数字だけで追うのではなく、「どこで育ち、どこで野球に触れたのか」という地域史の視点から見られるのが特徴です。墨田区公式の過去展示資料では、王氏が業平地域で育ち、小学生のころに野球を始め、本所中学校時代には野球部や地域のチームでもプレーしたことが紹介されています。

王貞治顕彰コーナーに展示された直筆メッセージ「僕のふるさと墨田」
「王貞治のふるさと墨田」で見学した王貞治氏の直筆メッセージ。墨田との結びつきを身近に感じられる展示です。

写真の直筆メッセージには「僕のふるさと 墨田」とあり、2010年3月28日の日付も確認できます。地域側が顕彰するだけでなく、王氏自身の言葉から墨田との結びつきが伝わる展示です。

王貞治ゆかりの地を示す墨田区内の地図展示
「王貞治のゆかりの地」を示した地図展示。学校や球場など、少年時代からの足跡を地域の地理と一緒に確認できます。

「王貞治のゆかりの地」の地図には、岡田公園少年野球場、本所中学校、業平小学校、旧柳島小学校跡地などが示されていました。人物の伝記を読むだけでなく、地図上で学校や球場の位置を追うと、少年時代の生活圏と現在の墨田区の街並みを重ねて考えられます。

亀戸銭座・楽天地を経て、現在の錦糸町へ

錦糸公園を出た後は、亀戸銭座かめいどぜにざ跡や楽天地周辺へ。江戸時代には貨幣の鋳造や水運に関わる生産・物流機能があり、近代以降は鉄道駅を中心に商業と娯楽の街へ変わっていきました。錦糸町の歓楽街形成については、当サイトの錦糸町が歓楽街として発展した歴史でも、鉄道・工場・楽天地・戦後の変化を詳しく整理しています。

街歩きの途中では、江東橋のコシャリ専門店「コシャリ屋コーピー 錦糸町店」の前でも足を止めました。公式サイトでは、コシャリは米やパスタ、ひよこ豆、レンズ豆にトマトソースやフライドオニオンを合わせるエジプトの国民食として紹介されています。江戸の物流史や昭和の娯楽史だけでなく、現在の錦糸町に多様な食文化が集まっていることも、夜に歩くと見えてくる街の一面です。

錦糸町のコシャリ専門店コシャリ屋コーピー前の参加者
錦糸町のコシャリ屋コーピー前。街歩きの終盤には、現在の錦糸町らしい多文化的な食の風景にも触れました。

竪川から猿江恩賜公園へ|江戸の水運と材木流通を追う

後半は竪川たてかわ沿いから猿江恩賜公園さるえおんしこうえんへ。竪川は江戸の東西交通を支えた水路の一つで、小名木川や横十間川と合わせて見ると、現在の道路だけでは分かりにくい物流の骨格が見えてきます。

猿江恩賜公園一帯には、江戸時代に幕府の材木を保管する御材木蔵おざいもくぐらが置かれました。大火からの復興や都市建設に欠かせない材木を、水路を使って運び、保管する場所です。現在は芝生や樹木のある公園ですが、土地利用の履歴を知ってから歩くと、広い空間の見え方が変わります。

さらに釜屋跡、小名木川方面へ進み、江戸の金属加工と水運のつながりを確認しました。横十間川と猿江御材木蔵の関係は、横十間川の歴史と和船乗船体験でも詳しく紹介しています。水路を別の角度から学びたい方におすすめの関連記事です。

ナイトウォークで見えた錦糸町・住吉の重なり

今回の散歩では、王貞治の少年時代を伝える錦糸公園、江戸の貨幣鋳造を示す亀戸銭座、近代の娯楽街を象徴する楽天地、水運と材木流通を伝える竪川・猿江恩賜公園を一つのコースでつなぎました。テーマは野球、貨幣、娯楽、運河、材木と大きく変わりますが、どれも「人や物が集まる錦糸町・住吉」という地域の性格につながっています。

夜の街歩きは、昼とは違って商業地の明かりや公園の静けさがはっきり分かれます。9名で現在の風景を見ながら歴史の層を確かめる、錦糸町らしいナイトウォークになりました。

今回の歴史散歩コース概要

  • スタート:錦糸町駅周辺
  • 主な見どころ:錦糸公園、王貞治記念碑「僕の野球の原点」、「王貞治のふるさと墨田」、亀戸銭座跡、楽天地ビル、コシャリ屋コーピー、竪川、猿江恩賜公園、釜屋跡、小名木川クローバー橋
  • ゴール:住吉駅
  • 歴史の軸:震災復興、野球文化、貨幣鋳造、娯楽街、水運、材木流通、鋳物業

錦糸町と住吉は、現在は鉄道で結ばれた繁華街・住宅地ですが、江戸時代の地域構造を形づくったのは川と運河でした。東西に延びる竪川、南側の小名木川、両者をつなぐ横十間川が物資輸送を支え、その周囲に銭座、材木蔵、鋳物師の仕事場が置かれました。

錦糸公園|震災復興と王貞治の記憶

錦糸町駅北口側の錦糸公園は、関東大震災後の都市復興のなかで整備され、1928年(昭和3年)に開園しました。密集市街地に避難・防災の役割を持つ公園を配置した震災復興事業の流れに位置づけられます。

園内の野球場には、墨田区で生まれ育った王貞治おう さだはるの記念碑「僕の野球の原点」があります。錦糸公園周辺で野球に親しんだ少年時代と、後のプロ野球人生を結ぶ場所です。野球場と記念碑の背景には、震災復興で生まれた公園の歴史が重なっています。

亀戸銭座跡|寛永通宝「文銭」を鋳造した場所

亀戸銭座かめいどぜにざは、寛永通宝かんえいつうほうの鋳造ちゅうぞう・発行に関わった機関です。江東区の史跡解説によると、寛文8年(1668)から天和3年(1683)まで、裏面に「文」の字を鋳込んだ「文銭」がここで造られました。寛文11年(1671)の江戸図にはすでに銭座が記載され、廃止時期は『新編武蔵風土記稿』『葛西志』では安永2年(1773)とされています。

現在は亀戸2丁目の史跡標識が銭座の場所を伝えています。江戸の東郊に貨幣生産の拠点が置かれていた事実から、錦糸町・亀戸一帯に生産・物流機能が集まっていたことが分かります。

楽天地ビル|錦糸町が娯楽の街へ変わった転換点

錦糸町駅南口の楽天地ビルは、近代以降の錦糸町を考えるうえで重要な場所です。東京楽天地は1937年、小林一三こばやし いちぞうを創立者として江東楽天地の名で設立され、同年に江東劇場と本所映画館を開場しました。現在も映画興行と不動産事業を中心に、錦糸町の商業・娯楽機能を担っています。

江戸の水運・生産拠点から、鉄道駅を中心とした商業・娯楽の街へ。錦糸町の変化を詳しくたどる場合は、錦糸町が歓楽街として発展した歴史もあわせて読むと、楽天地が置かれた意味がつながります。

竪川|隅田川と中川を結んだ東西の水路

竪川たてかわは、江戸時代に隅田川側から中川方面へ東西に延びた運河です。江東区では亀戸9丁目から毛利1丁目を経て墨田区へ続く史跡として登録されています。かつては小名木川と並ぶ東西交通の軸となり、物資輸送や行楽・参詣の移動を支えました。

現在は首都高速道路の高架と親水空間が重なり、江戸の運河そのものを想像しにくい場所もあります。その変化自体が見どころです。水上交通の幹線だった空間が、道路交通と公園へ置き換わった都市の変化を目で追えます。

猿江恩賜公園|幕府の御材木蔵から近代公園へ

猿江さるえ恩賜公園一帯には、江戸時代に幕府の材木を保管する猿江御材木蔵が置かれました。火災の多い江戸では復興や建築に大量の材木が必要で、横十間川などの水路を使って木材を運び、貯蔵する仕組みが都市を支えていました。

明治期には宮内省の御料地となり、1924年(大正13年)、皇太子裕仁の結婚を記念して南側の土地が東京市へ下賜されました。造園は1929年に始まり、1932年(昭和7年)に南園が開園します。江東区の由来碑解説では、噴水塔、貸しボート場、野球場、児童遊園などを備えた当時最新の近代公園だったことが紹介されています。

東京都の公園資料には、戦時中に地下防空壕が造られ、戦災後には園内の一部が犠牲者の仮埋葬地となった記録もあります。北側ではその後も貯木場利用が続き、1970年代に移転して公園化されました。現在の芝生や樹林の下には、材木蔵、御料地、公園、戦災、貯木場という異なる時代の土地利用が重なっています。

江東区の猿江恩賜公園に広がる園路と樹木の景観
猿江恩賜公園、2016年。撮影:くろふね/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。

横十間川と猿江御材木蔵の関係は、横十間川の歴史と和船乗船体験でも詳しく紹介しています。

釜屋跡|大島に残る江戸の鋳物業

猿江恩賜公園から横十間川を南へ進むと、大島1丁目に釜屋跡があります。江東区の史跡として登録されており、周辺には釜屋堀の名も残ります。江戸時代、この一帯では鍋や釜などを造る鋳物業が営まれました。

銭を造った亀戸銭座と、日用品や金属製品を手がけた釜屋跡を一つの散歩で結ぶと、この地域に金属加工の仕事が集まっていたことが具体的に見えてきます。水路は原料や製品を運ぶためにも重要でした。

小名木川クローバー橋|江戸の物流網を立体的に見る

小名木川おなぎがわクローバー橋は、小名木川と横十間川が交差する地点に架かる歩行者・自転車用の橋です。江東区によると、現在の橋は1990年代に架けられたものです。

小名木川は江戸初期に開削され、行徳の塩を江戸へ運ぶ「塩の道」として知られました。橋上から東西の小名木川と南北の横十間川を見渡すと、猿江御材木蔵や大島の生産地が水路網の中に置かれていたことを実感できます。史跡単体よりも、川の交差点から位置関係を見ることで、このコースの歴史が一つにつながります。

錦糸町・住吉周辺をさらに歩く

水路の歴史を東へたどるなら、平井から旧中川・亀戸を歩く夜散歩で旧中川、北十間川、亀戸水神社周辺へつなげられます。南へ歩くなら、横十間川の歴史と和船乗船体験が小名木川・横十間川の水運史をより深くたどれるコースです。

現在地から歩ける史跡を地図で探す

TimeWalkは、現在地や指定地点の近くにある歴史スポットを地図で探し、自分で歴史散歩を楽しめるWebアプリです。錦糸町・住吉周辺でも、現在の道路や公園と、かつての水路・土地利用を見比べながら歩けます。

参考資料