2025年1月5日は、高円寺から桃園川の旧流路をたどり、荻窪の国史跡・荻外荘を経て、水道橋・後楽園まで歩くルートでした。一本の散歩道の中に、江戸の寺と農業用水、昭和前期の政治史、軍需工場から野球場へ変わった土地の記憶が重なっています。
当日のルートはGoogleマップでも確認できます。
高円寺から桃園川を歩く
高円寺という地名は、現在の高円寺南4丁目にある曹洞宗の髙圓寺に由来します。杉並区によると、宿鳳山髙圓寺は弘治元年(1555年)の開山です。3代将軍・徳川家光が鷹狩りの際に立ち寄ったという伝承もあり、寺名が村名となり、のちに駅名・町名へ受け継がれました。

駅の南側を東西に延びる桃園川緑道は、かつて流れていた桃園川の跡です。桃園川は天沼弁天池を水源とし、阿佐谷、馬橋、高円寺を通って神田川へ注いでいました。流量が少なかったため、江戸時代中期には千川上水などから水を引き、周辺の田畑を潤す農業用水としても使われました。
市街化が進んだのち川は暗渠化され、地上には細長い緑道が残りました。蛇行する道筋や旧橋名は、地面の下に川が続いていることを伝えています。東京の暗渠の見つけ方や桃園川緑道の特徴は、「暗渠まるわかりガイド|東京の消えた川と緑道の見つけ方」で詳しく紹介しています。

荻窪と荻外荘――住宅街に残る昭和政治史
荻窪で訪れた荻外荘は、昭和前期に3度内閣総理大臣を務めた近衞文麿の旧宅です。建物は昭和2年(1927年)、大正天皇の侍医頭を務めた入澤達吉の別邸として建てられました。設計は築地本願寺などを手がけた建築家・伊東忠太です。

近衞は昭和12年(1937年)に邸宅を譲り受けました。「荻外荘」の名は西園寺公望が付けたとされます。近衞が暮らし始めると、住宅の一室は昭和政治の重要な会談の舞台になりました。
昭和15年(1940年)7月19日の「荻窪会談」では、第二次近衞内閣の基本方針が確認されました。近衞文麿、松岡洋右、吉田善吾、東條英機が集まった写真が残り、私邸が首相官邸に近い役割を果たしていた時期を伝えています。

昭和20年(1945年)12月16日、近衞は荻外荘の書斎で自決しました。建物はその後も残り、平成28年(2016年)に国史跡へ指定されます。杉並区は近衞居住時の姿を復原し、2024年12月から荻外荘公園として公開しています。2025年7月には展示棟も開館しました。
水道橋・後楽園――上水、砲兵工廠、野球場へ
水道橋の地名には、江戸の水道の記憶があります。神田上水は小石川方面を通り、現在の水道橋付近で神田川を木製の掛樋で越えて、神田・日本橋方面へ水を送りました。神田上水の仕組みや江戸から近代までの水道史は、「東京水道の歴史|江戸の上水から浄水場・ダム・巨大水道網まで」で詳しくたどれます。
その北側に残る小石川後楽園は、水戸徳川家の江戸上屋敷に造られた庭園です。寛永6年(1629年)に初代藩主・徳川頼房が造営に着手し、2代光圀へ引き継がれました。明の遺臣・朱舜水を登用し、中国趣味を取り入れた回遊式庭園となりました。「後楽園」の名は『岳陽楼記』の一節に由来します。現在は国の特別史跡・特別名勝です。

明治維新後、水戸藩上屋敷の跡地は陸軍の兵器工場へ転用され、明治4年(1871年)から東京砲兵工廠が置かれました。文京区の資料では、明治から昭和初期にかけて旧陸軍の兵器生産拠点として機能したことが確認できます。現在も東京ドームシティ周辺には工廠の基礎など、土地の用途が大きく変わった痕跡が残ります。
砲兵工廠が移転した跡地では、昭和12年(1937年)に約3万人収容の後楽園スタヂアムが開場しました。戦時中の球場には野菜畑や高射砲陣地も設けられています。軍需工場の土地が野球場へ変わり、戦争の影響を受けながら戦後の大衆娯楽の中心へ移っていった場所です。
後楽園球場は1987年に役目を終え、翌1988年、日本初の全天候型多目的スタジアムとして東京ドームが開場しました。江戸の大名屋敷と庭園、近代の兵器工場、昭和の野球場、現在の東京ドームシティが、同じ一帯に時代を重ねています。

東京ドームシティで散歩を終える
2025年1月5日の散歩は、東京ドームシティまで足を延ばす構成でした。当時は冬季イルミネーション「TOKYO SNOW DOME CITY」が開催されており、高円寺の旧河川、荻窪の政治史、水道橋の都市史をたどったあと、現代の娯楽空間へ着くルートになっていました。
周辺にはプロ野球 鎮魂の碑や陸軍東京砲兵工廠基礎もあります。東京ドームだけを見ると現代的な街ですが、足元には江戸から近代、戦争、戦後のスポーツ文化まで連続する歴史が残っています。

