東麻布・麻布狸穴町・麻布永坂町の歴史散歩|狸穴坂・赤羽接遇所・永坂更科を歩く

東麻布の商店街と住宅街の街並み

東京タワーの西側から麻布十番へ向かう一帯には、東麻布、麻布狸穴町、麻布永坂町という、短い距離のなかに異なる成り立ちをもつ町が並んでいます。古川沿いの低地から坂を上ると、江戸以来の町名、幕末外交の跡、文学者の旧居、昭和初期の住宅建築、江戸そばの系譜までが次々に現れます。

なかでも麻布狸穴町あざぶまみあなちょうと麻布永坂町あざぶながさかちょうは、港区で現在も住居表示が実施されていない二つの町です。周辺の町名や町域が大きく組み替えられたなかで、古い町名を今に伝えています。

東麻布・麻布狸穴町・麻布永坂町はどんな場所か

現在の東麻布は、江戸時代の武家地と芝森元町、飯倉町、麻布新網町などを母体にしています。昭和37年(1962)に住居表示に関する法律が施行された後、麻布北新門前町、麻布森元町、麻布飯倉町、麻布新網町、麻布狸穴町、麻布永坂町などの一部をまとめ、現在の東麻布へと再編されました。昭和56年(1981)の区画調整を経て、現在の町域になっています。

その西側に残った麻布狸穴町あざぶまみあなちょうと麻布永坂町あざぶながさかちょうは、現在も街区符号・住居番号による住居表示を実施していません。港区全体では99%を超える区域で住居表示が実施されているため、この二町は際立った存在です。

麻布狸穴町の旧家と周辺の街並み
麻布狸穴町の街並み。撮影:Syced/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0

東麻布と麻布台の教会、神社仏閣、日本経緯度原点などを歩く別ルートは、「東麻布、麻布台、虎ノ門の教会・神社仏閣や天文台跡など史跡巡り」で紹介しています。

古川の低地から麻布台地へ上る

この散歩で分かりやすいのが高低差です。古川沿いの東麻布や麻布十番は低地にあり、そこから北西へ進むと狸穴坂や鼠坂などを通って麻布台地へ上がります。町名だけを追うより、川と坂の位置関係を意識すると、なぜこの一帯に坂が集中しているのかが分かります。

江戸の町は平坦な面だけに広がったのではなく、台地には大名屋敷や寺社、谷や川沿いには町屋が入り交じりました。現在の道路にもこの起伏が残り、東麻布から狸穴町・永坂町へ歩くと、都市の骨格そのものを足で確かめられます。

赤羽接遇所跡―東麻布にあった幕末外交の宿泊施設

最初の歴史的な見どころは赤羽接遇所跡です。安政6年(1859)、芝赤羽の講武所付属調練所跡に、外国人使節の宿泊・応接施設として赤羽接遇所が建てられました。現在の東麻布一丁目にあたり、幕末の江戸で外交交渉を支えた施設でした。

万延元年(1860)にはプロイセン使節オイレンブルクがここに滞在し、幕府と修好通商条約の交渉を進めました。文久元年(1861)には、再来日した医師シーボルトと子のアレクサンダーも宿泊しています。ロシア領事ゴシケビッチも利用しており、赤羽接遇所は複数の外国使節が出入りする外交拠点でした。

幕末の外国公館は寺院に置かれることが多いなか、赤羽接遇所は外国使節のために整備された施設でした。周辺では、アメリカ公使館の書記官ヒュースケンが赤羽接遇所からの帰途、中之橋付近で襲撃される事件も起きています。東麻布の静かな住宅街は、開国直後の緊張した外交史と重なります。

狸穴坂と麻布狸穴町―地名を生んだ坂

狸穴坂は、麻布台二丁目と麻布狸穴町あざぶまみあなちょうの間を上る坂です。「まみ」はアナグマなどを指し、昔、坂下にその穴があったことから名が付いたと伝わります。一方で、採鉱の坑道を意味する「まぶ穴」に由来する説もあります。

麻布狸穴町の狸穴坂
狸穴坂。撮影:Doricono/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0

坂を南から北へ上ると、古川沿いの低地から麻布台地へ移る勾配がよく分かります。坂名は現在の町名と結びつき、周辺の景観が変わっても「狸穴」という古い地名を残しています。

坂を上った先には狸穴公園があります。現在は小さな公園ですが、坂と町の位置関係を確認する休憩地点として歩きやすい場所です。

島崎藤村旧居跡―『夜明け前』を書いた麻布の18年

島崎藤村旧居跡は、現在の麻布台三丁目にあります。作家の島崎藤村しまざきとうそんは大正7年(1918)から昭和11年(1936)まで、当時の飯倉片町に暮らしました。

この時期、藤村は代表作『夜明け前』を執筆しました。木曽路を舞台に幕末から明治維新を描く長編が、東京・麻布の住まいで書き進められたことになります。旧居そのものは残っていませんが、坂の多い住宅地に旧居跡が示されています。

旧石橋正二郎邸―1936年のモダニズム住宅

駐日米国公使公邸として使われている建物は、ブリヂストン創業者の石橋正二郎いしばししょうじろうの邸宅として昭和11年(1936)に竣工しました。設計は松田建築事務所で、同事務所の最初期の作品です。

鉄筋コンクリート造、地下1階・地上2階。連続窓、屋上利用、スロープ、外部階段など、当時のインターナショナルスタイルの特徴が外観に現れ、室内にはアールデコの意匠も取り入れられました。戦後は米軍に接収され、現在はアメリカ公使公邸として使われています。

江戸以来の坂道と町名が残る一方、昭和初期には近代的な邸宅が建てられました。麻布永坂町周辺が近代以降も住宅地として選ばれてきたことを伝える建築です。

麻布永坂町と永坂―江戸初期の地図にも残る坂名

麻布永坂町あざぶながさかちょうの名は、麻布台上から麻布十番へ下る長い坂「永坂」に由来するとされます。長坂氏が近くに住んでいたことに由来する説もあります。

永坂の名は古く、明暦3年(1657)の『新添江戸之図』に「なか坂」と記されています。正徳3年(1713)には永坂町の町名が成立したと伝わります。現在の六本木五丁目から麻布永坂町へ下る坂と、その周辺の町名が江戸初期からつながっている点が特徴です。

旧麻布永坂町の一部は現在の六本木五丁目に編入されています。鳥居坂や毛利庭園など周辺の変遷は、「六本木5〜6丁目の歴史|鳥居坂・毛利庭園・六本木ヒルズを解説」で詳しく紹介しています。

永坂更科発祥之地―麻布と江戸そばの歴史

永坂更科発祥之地は、麻布の地名が食文化へ受け継がれた場所です。寛政元年(1789)、初代布屋太兵衛が麻布永坂で「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板を掲げたことが、更科そばの系譜の出発点とされています。

布屋太兵衛の家はもともと信州の布を扱う商いに関わり、領主・保科家との縁を持っていました。「更科」の名は信州更級と保科家の名にちなむと伝わります。江戸後期に始まったそば屋の名が、現在も麻布十番周辺の老舗へ続いています。

新堀橋から一之橋へ―古川沿いに戻る

麻布永坂町から東へ下ると、再び古川の低地へ戻ります。新堀橋を経て一の橋公園へ進むと、散歩の出発地点で感じた台地との高低差がもう一度はっきりします。

麻布十番の一の橋公園付近を流れる古川
一の橋公園付近の古川。撮影:Syced/Wikimedia Commons/CC0 1.0

一之橋は、白金御殿の造営に伴う古川改修の際に架けられたとされ、元禄12年(1699)に初めて架橋・命名されたと伝わります。現在の橋は昭和58年(1983)の架け替えです。古川は麻布の坂と低地を理解するうえで欠かせない川で、一之橋周辺は麻布十番へつながる交通の要所でもあります。

1933年の麻布十番の街並み
1933年の麻布十番。撮影者不詳/博文館『大東京写真案内』/Wikimedia Commons/Public Domain

1933年の麻布十番を見ると、現在の店舗や高層建築が並ぶ街とは異なる低層の町並みが広がっています。川、橋、坂、町名を順にたどると、東麻布から麻布十番までの都市景観がどのように積み重なってきたかを立体的に見ることができます。

散歩ルート

  1. 赤羽接遇所跡
  2. 東麻布児童遊園
  3. 狸穴坂(南から北へ)
  4. 狸穴公園
  5. 島崎藤村旧居跡
  6. 駐日米国公使公邸(旧石橋正二郎邸)
  7. 永坂更科発祥之地
  8. 新堀橋
  9. 一の橋公園・麻布十番駅

参考資料