古代から中世の東北史|多賀城・蝦夷・平泉・奥州藤原氏をつなげて解説

古代東北の政治・軍事拠点だった多賀城に復元された外郭南門

多賀城の復元南門をくぐると、正面には古代の政庁へ続く道が伸びています。多賀城が最初に築かれたのは、奈良時代の724年です。

それから465年後の1189年、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、平泉からの帰路に多賀国府へ立ち寄りました。

東北を動かす拠点は、多賀城、胆沢城、平泉へと役割と担い手を変えました。その変化の間には、蝦夷と朝廷の戦い、城柵を介した交流、安倍氏と清原氏の成長、奥州藤原氏による都市建設がありました。

30秒で分かる結論

  • 古代の東北では、律令国家が多賀城や胆沢城などの城柵を築き、行政と軍事の支配を北へ広げました。
  • 蝦夷と呼ばれた人々と朝廷の関係は、戦いだけでなく、交易、移住、官職への登用、婚姻を通じても変化しました。
  • 9世紀以降は地域の有力者が統治を担う場面が増え、安倍氏・清原氏を経て、奥州藤原氏が平泉を政治と文化の中心へ発展させました。
  • 1189年に奥州藤原氏が滅ぶと鎌倉幕府の支配が及びましたが、古代以来の道路、国府、寺院、地域勢力の基盤は中世にも受け継がれました。

古代の東北と蝦夷

7世紀後半から8世紀初めにかけて、中央では律令りつりょうに基づく国づくりが進みました。国は地方を国と郡に分け、役所を置き、戸籍を作り、税と兵役を課す仕組みを広げました。

律令国家の支配は、太平洋側と日本海側から段階的に北へ伸びました。中央の歴史書は、国家の支配に属さない東北の人々を蝦夷えみしと呼びました。

蝦夷の人々は農耕を営み、馬を育て、狩猟や漁を行い、地域ごとの社会を築いていました。発掘調査では、律令国家側の人々と共通する生活道具が見つかる一方、墓の造り方などには地域独自の文化も確認されています。蝦夷と呼ばれた人々の暮らし方や中央との関係は、地域や時代によって異なっていました。

中央の記録には戦争が大きく描かれていますが、城柵周辺の遺跡からは、人や物資が行き交っていたこともうかがえます。

『もののけ姫』のアシタカに重ねられた蝦夷の歴史は、アシタカは何者なのか|『もののけ姫』と蝦夷・古代東北の歴史で詳しく扱っています。

律令国家は城柵を北へ築いた

律令国家は支配地域を北へ広げるため、東北各地に城柵じょうさくを築きました。城柵は、戦国時代の城よりも地方官庁に近い施設です。土塁や柵で囲んだ内部に、儀式を行う政庁、行政を担う役所、倉庫、工房、兵士の施設などが置かれました。

地方行政の中心は国府こくふ、東北の軍事を統括する機関は鎮守府ちんじゅふと呼ばれました。城柵は施設全体の名称であり、国府と鎮守府は、その中で行政や軍事を担う組織を指します。

用語 主な役割
城柵 政治・軍事の施設をまとめた拠点
国府 一国の行政、徴税、裁判、文書管理を担う役所
鎮守府 東北各地の城柵と兵士を統括する軍事機関
政庁 儀式や重要な政務を行う中心区画

城柵の建設には、関東などから移住した人々も関わりました。兵士や役人だけでなく、農民や職人も移り住み、道路、田畑、工房、集落が形成されました。

多賀城は東北を動かす国府だった

多賀城は724年、大野東人おおののあずまひとによって設置されました。陸奥国の行政を担う陸奥国府むつこくふと鎮守府が置かれ、奈良・平安時代の東北における政治・軍事・行政の中心となりました。

城域は丘陵上に広がり、中央に政庁が置かれました。政庁から南門へ大路が伸び、城外南側にも道路で区画された街並みが形成されました。政庁の周囲には、役人や兵士、職人、商人が暮らし、行き交う市街地が広がっていました。

宮城県多賀城市に残る多賀城政庁跡の東脇殿
多賀城政庁跡の東脇殿。撮影:Saigen Jiro/Wikimedia Commons/CC0 1.0

多賀城跡から出土した木簡もっかんには、戸籍に関わる実務、兵士の管理、各地から届いた物資の荷札、書籍や文書の練習などが残されています。多賀城では、役人が文書を作り、食料や武器を管理し、関東や東北各地から届く物資を振り分けていました。

南門近くに立つ多賀城碑たがじょうひには、中央上部の「西」と、その下の140字を合わせた141字が刻まれています。平城京、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国まつかつのくにから多賀城までの距離、724年の設置、762年の改修が記されました。多賀城の創建年を伝える第一級の史料であり、2024年8月27日に国宝へ指定されています。

奈良時代の多賀城創建と改修を記した国宝・多賀城碑
国宝・多賀城碑。撮影:Saigen Jiro/Wikimedia Commons/CC0 1.0

780年、伊治公呰麻呂の反乱が多賀城を焼いた

780年、現在の宮城県栗原市周辺を治めていた伊治公呰麻呂これはりのきみあざまろが反乱を起こしました。呰麻呂は伊治城で按察使あぜち紀広純きのひろずみを殺害し、その後、多賀城を襲撃して火を放ちました。

呰麻呂は、律令国家の支配に組み込まれていた地域の有力者でした。彼の反乱で、行政と軍事の中心だった多賀城も大きな打撃を受けました。

多賀城は反乱後に再建され、南側では道路に沿った街づくりも進みました。869年の貞観地震じょうがんじしんでは、建物や城壁が崩れ、津波が城下まで達したと『日本三代実録』に記されています。多賀城は焼失や災害に見舞われながらも、そのたびに修復されました。

阿弖流為と坂上田村麻呂

8世紀末、朝廷は現在の岩手県南部にあたる胆沢いさわへ軍を進めました。789年、朝廷軍は胆沢へ進みましたが、阿弖流為あてるいらが率いる蝦夷の連合軍に敗れました。

その後の遠征を指揮したのが、征夷大将軍の坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろです。802年、阿弖流為と母礼もれは田村麻呂に降伏しました。二人は京都へ送られ、田村麻呂が助命を求めたものの、河内国で処刑されました。

阿弖流為らの降伏と同じ802年、田村麻呂は胆沢城いさわじょうを築きました。808年までに鎮守府が多賀城から胆沢城へ移り、胆沢城は約150年にわたって東北北部の軍事・行政拠点となりました。

坂上田村麻呂が築いた胆沢城跡の政庁地区
胆沢城跡。回廊付近から正殿方向を望む。撮影:Saigen Jiro/Wikimedia Commons/CC0 1.0

鎮守府が移転した後も、多賀城には陸奥国府が置かれ続けました。こうして、多賀城は政治、胆沢城は北方の軍事という役割を担う体制へ移りました。

城柵の周辺で進んだ交流と再編

城柵の周辺では、戦いと並行して交易や移住、官職への登用、婚姻が進み、朝廷と蝦夷の人々の関わり方も変わっていきました。

多賀城や周辺の遺跡からは、北方の海獣皮、鷲の羽、昆布、琥珀、馬などの流通を示す資料が見つかっています。中央からは銭貨、装身具、鉄製品、土器などが運ばれました。城柵は、中央の制度と東北の産物が交わる場所でもありました。

朝廷に従った地域の有力者は、位や姓を与えられ、各地で軍事や行政を任されるようになりました。伊治公呰麻呂のように国家の役職に就いた人物も、阿弖流為のように武力で抵抗した人物も、地域社会と律令国家の双方に関わる立場にありました。

9世紀以降、律令国家による大規模な遠征は減り、現地の有力者が地域の軍事と統治を担う場面が増えました。東北では、城柵を中心とした国家の直接統治から、地域に根づいた有力者を通じた統治へと移っていきました。

多賀城から地域の有力者へ

鎮守府が胆沢城へ移った後も、多賀国府たがこくふは陸奥国の行政中心として存続しました。10世紀以降の記録では「多賀国府」という呼び名が使われ、1189年には源頼朝もここへ立ち寄っています。

一方、北上川流域では、地域の軍事力と生産力を支える有力者が成長しました。11世紀には安倍氏あべし奥六郡おくろくぐんを中心に勢力を広げ、陸奥国府との緊張を深めていきました。

国府の制度が残る一方で、土地と人を動かす地域勢力の力も増していきました。こうした二つの力が並び立つ状況が、前九年合戦と後三年合戦へとつながりました。

前九年合戦と後三年合戦

前九年合戦ぜんくねんかっせんは、1051年に始まりました。陸奥国の有力者である安倍頼時あべのよりときと、その子の安倍貞任あべのさだとうらに対し、陸奥守となった源頼義みなもとのよりよしが兵を進めました。

戦いは長期化し、頼義は出羽の清原武則きよはらのたけのりに援軍を求めました。清原氏の参戦によって安倍氏は敗れ、1062年に前九年合戦は終結します。清原氏はその後、安倍氏の旧勢力圏へ進出し、東北北部で大きな勢力を築きました。

それから約20年後、清原氏の内部で後継者をめぐる争いが起こります。これが、1083年から1087年にかけて続いた後三年合戦ごさんねんかっせんです。清原真衡、清衡、家衡らの対立に、陸奥守の源義家みなもとのよしいえが介入しました。

最後に勝ち残った清原清衡きよはらのきよひらは、父方の藤原姓を名乗り、藤原清衡ふじわらのきよひらとなりました。安倍氏と清原氏の勢力圏を受け継いだ清衡は、11世紀末に本拠を平泉へ移します。

後三年合戦は、源氏と東国武士の結びつきを強め、中世の武家社会が形づくられていく一因となりました。一方、東北では清衡が広い地域をまとめ、平泉を中心とする新たな政治勢力を築く出発点となりました。

奥州藤原氏が平泉に築いた北の政権

奥州藤原氏おうしゅうふじわらしの初代藤原清衡ふじわらのきよひらは、前九年合戦と後三年合戦で多くの親族を失いました。清衡は敵味方の区別なく戦没者を弔うため、1105年ごろから中尊寺ちゅうそんじの造営を進めました。

平泉の中尊寺金色堂を保護する覆堂と参道
中尊寺金色堂の覆堂、2018年6月13日。撮影:Tak1701d/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0

二代藤原基衡ふじわらのもとひらは、金や交易による財力を背景に毛越寺もうつうじを整備しました。大泉が池を中心とする浄土庭園は、仏教の極楽浄土を地上に表そうとした空間です。

平泉の毛越寺に残る大泉が池を中心とした浄土庭園
毛越寺の浄土庭園、2023年5月26日。撮影:Renate Hano/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0

三代藤原秀衡ふじわらのひでひらの時代、平泉の都市整備は最盛期を迎えました。秀衡は無量光院を建立し、柳之御所周辺を政治の中心として整えました。11世紀から12世紀にかけて、平泉は東北の行政、交易、仏教文化が集まる都市へ発展し、世界遺産の説明でも京都に匹敵する政治・商業の中心と位置づけられています。

奥州藤原氏の経済は、東北で産出する金や馬、漆などと、北方へ続く交易に支えられていました。中央の朝廷から官職を受け、貢納関係を保ちながら、東北に強固な支配基盤を築いていきました。

多賀城が中央政府の制度を東北へ広げる拠点だったのに対し、平泉は東北に根づいた勢力が築いた政治と文化の中心でした。

義経の逃亡と1189年の奥州合戦

源平合戦で活躍した源義経みなもとのよしつねは、兄の源頼朝みなもとのよりともと対立し、奥州藤原氏三代の秀衡を頼って平泉へ入りました。秀衡は義経を保護しましたが、1187年に亡くなります。

四代藤原泰衡ふじわらのやすひらは頼朝から圧力を受け、1189年閏4月、衣川館にいた義経を攻めました。義経は自害しますが、頼朝は同年7月、大軍を率いて奥州へ向かいました。

8月の阿津賀志山の戦いあつかしやまのたたかいで奥州藤原氏軍は敗れ、頼朝は平泉へ入ります。泰衡は北へ逃れましたが、9月に家臣の手で殺されました。こうして、約100年にわたって続いた奥州藤原氏は、1189年の奥州合戦おうしゅうかっせんによって滅亡しました。

義経が平泉へ向かうまでの源平合戦は、忙しい人のための『平家物語』|読んだ気になれる源平合戦要約で流れをたどれます。

鎌倉幕府の支配と中世東北

奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、平泉から鎌倉へ戻る途中、多賀国府たがこくふに立ち寄り、戦後処理を命じました。724年に律令国家の東北拠点として築かれた多賀城は、1189年になると、鎌倉政権が東北支配を進めるための拠点として再び用いられます。

鎌倉幕府は東北各地に御家人ごけにんを配置し、土地の管理や軍事を担わせました。『吾妻鏡』には、葛西清重かさいきよしげ伊沢家景いざわいえかげ奥州惣奉行おうしゅうそうぶぎょうとして記されています。1195年には、二人が頼朝から平泉の寺院修理を命じられました。

鎌倉幕府の支配は、古代以来の道路や寺院、役所、地域勢力を活用しながら築かれていきました。朝廷の国府、地域の有力者、奥州藤原氏が整えた都市や交通の基盤は、中世の統治にも引き継がれています。

『吾妻鏡』が描く頼朝の政権形成と奥州合戦は、忙しい人のための『吾妻鏡』|読んだ気になれる鎌倉幕府要約で詳しくたどれます。

多賀城から平泉へ続く東北史

古代から中世へ移る東北の主な転換点は、次のように整理できます。

出来事 東北史上の変化
724年 多賀城を設置 陸奥国府・鎮守府を置く政治軍事拠点が成立
780年 伊治公呰麻呂の反乱 多賀城が焼失し、城柵支配の緊張が表面化
802年 阿弖流為と母礼が降伏、胆沢城を造営 律令国家の支配が胆沢へ拡大
808年まで 鎮守府が胆沢城へ移転 多賀城と胆沢城が行政・軍事を分担
869年 貞観地震 多賀城と城下が地震・津波で被災
1051~1062年 前九年合戦 安倍氏が滅び、清原氏が勢力を拡大
1083~1087年 後三年合戦 藤原清衡が東北北部の勢力を継承
1105年ごろ 中尊寺の造営開始 平泉の都市と仏教文化が発展
1189年 奥州合戦 奥州藤原氏が滅び、鎌倉政権の支配が及ぶ

多賀城跡には、政庁、南門、大路、多賀城碑が残っています。東北歴史博物館では、城柵や木簡、蝦夷との交流を実物資料からたどれます。平泉では、中尊寺、毛越寺、柳之御所遺跡が、奥州藤原氏の政治と文化を今に伝えています。

参考文献

  1. 文化庁 日本遺産ポータルサイト「多賀城跡附寺跡」
  2. 国指定文化財等データベース「多賀城碑」
  3. 多賀城市「国宝『多賀城碑』」
  4. 多賀城市「日本史のなかの多賀城」
  5. 多賀城市埋蔵文化財調査センター「常設展」
  6. 多賀城市「歴史の風」
  7. 国指定文化財等データベース「多賀城跡出土木簡」
  8. 東北歴史博物館「蝦夷―古代エミシと律令国家―」
  9. 東北歴史博物館「多賀城・大宰府と古代の都」
  10. 奥州市「古代I(奈良時代~平安初期)」
  11. 奥州市「古代II(平安時代)」
  12. 奥州市「胆沢城跡」
  13. 岩手県「アテルイの時代」
  14. 横手市「清原氏と横手」
  15. 横手市「後三年合戦とは?」
  16. 平泉町「奥州藤原氏前史」
  17. 平泉町「奥州藤原氏」
  18. 平泉町「平泉関係年表」
  19. UNESCO World Heritage Centre “Hiraizumi”
  20. 多賀城市「多賀城南門」
  21. JR東日本東北本部「多賀城創建1300年を記念し、日本三大史跡である多賀城跡への誘客を推進します」
  22. 多賀城市観光協会