古代から中世の東北史|多賀城・蝦夷・平泉・奥州藤原氏をつなげて解説

古代東北の政治・軍事拠点だった多賀城に復元された外郭南門 日本史・社会制度
復元された多賀城外郭南門、2025年12月21日。撮影:掬茶/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0

多賀城の復元南門をくぐると、正面には古代の政庁へ続く道が伸びています。多賀城が最初に築かれたのは、奈良時代の724年です。

それから465年後の1189年、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、平泉からの帰路に多賀国府へ立ち寄りました。多賀城は、律令国家が東北を治めた時代と、武士が各地を支配する中世をつなぐ場所でもあります。

東北を動かす拠点は、多賀城、胆沢城、平泉へと役割と担い手を変えました。その変化の間には、蝦夷と朝廷の戦い、城柵を介した交流、安倍氏と清原氏の成長、奥州藤原氏による都市建設がありました。

多賀城から平泉までをたどると、古代国家の東北支配が地域社会と結びつき、中世の武士による支配へ変わっていく過程が一本につながります。

古代の東北と蝦夷

7世紀後半から8世紀初めにかけて、中央では律令りつりょうに基づく国づくりが進みました。国は地方を国と郡に分け、役所を置き、戸籍を作り、税と兵役を課す仕組みを広げました。

律令国家の支配は、太平洋側と日本海側から段階的に北へ伸びました。中央の歴史書は、国家の支配に属さない東北の人々を蝦夷えみしと呼びました。

蝦夷の人々は農耕を営み、馬を育て、狩猟や漁を行い、地域ごとの社会を築いていました。発掘調査では、律令国家側の人々と共通する生活道具が見つかる一方、墓の造り方などには地域独自の文化も確認されています。蝦夷と呼ばれた人々の暮らし方や中央との関係は、地域や時代によって異なっていました。

中央の記録には戦争が大きく書かれていますが、城柵周辺の遺跡からは、物資の交換や人の移動も見つかっています。東北の古代史は、戦いと交流が同時に進んだ歴史です。

『もののけ姫』のアシタカに重ねられた蝦夷の歴史は、アシタカは何者なのか|『もののけ姫』と蝦夷・古代東北の歴史で詳しく扱っています。

律令国家は城柵を北へ築いた

律令国家は支配地域を北へ広げるため、東北各地に城柵じょうさくを築きました。城柵は、戦国時代の城よりも地方官庁に近い施設です。土塁や柵で囲んだ内部に、儀式を行う政庁、行政を担う役所、倉庫、工房、兵士の施設などが置かれました。

地方行政の中心は国府こくふ、東北の軍事を統括する機関は鎮守府ちんじゅふと呼ばれました。城柵は建物の名前、国府と鎮守府はそこで働く行政・軍事組織を表します。

用語 主な役割
城柵 政治・軍事の施設をまとめた拠点
国府 一国の行政、徴税、裁判、文書管理を担う役所
鎮守府 東北各地の城柵と兵士を統括する軍事機関
政庁 儀式や重要な政務を行う中心区画

城柵の建設には、関東などから移住した人々も関わりました。兵士や役人だけでなく、農民や職人も移り住み、道路、田畑、工房、集落が形成されました。城柵は軍事拠点であると同時に、人と物資が集まる地域の中心でした。

多賀城は東北を動かす国府だった

多賀城は724年、大野東人おおののあずまひとによって設置されました。陸奥国の行政を担う陸奥国府むつこくふと鎮守府が置かれ、奈良・平安時代の東北における政治・軍事・文化の中心になりました。

城域は丘陵上に広がり、中央に政庁が置かれました。政庁から南門へ大路が伸び、城外南側にも道路で区画された街並みが形成されました。役人、兵士、職人、商人などが行き交う古代都市が、政庁の外まで広がっていました。

宮城県多賀城市に残る多賀城政庁跡の東脇殿
多賀城政庁跡の東脇殿。撮影:Saigen Jiro/Wikimedia Commons/CC0 1.0

多賀城跡から出土した木簡もっかんには、戸籍に関わる実務、兵士の管理、各地から届いた物資の荷札、書籍や文書の練習などが残されています。多賀城では、役人が文書を作り、食料や武器を管理し、関東や東北各地から届く物資を振り分けていました。

南門近くに立つ多賀城碑たがじょうひには、中央上部の「西」と、その下の140字を合わせた141字が刻まれています。平城京、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国まつかつのくにから多賀城までの距離、724年の設置、762年の改修が記されました。多賀城の創建年を伝える第一級の史料であり、2024年8月27日に国宝へ指定されています。

奈良時代の多賀城創建と改修を記した国宝・多賀城碑
国宝・多賀城碑。撮影:Saigen Jiro/Wikimedia Commons/CC0 1.0

政庁、道路、木簡、多賀城碑は、多賀城が東北各地を結ぶ行政都市として機能した姿を伝えています。

780年、伊治公呰麻呂の反乱が多賀城を焼いた

780年、現在の宮城県栗原市周辺を治めていた伊治公呰麻呂これはりのきみあざまろが反乱を起こしました。呰麻呂は伊治城で按察使あぜち紀広純きのひろずみを殺害し、その後、多賀城を襲撃して火を放ちました。

呰麻呂は、律令国家の地方支配に組み込まれていた地域の有力者でした。多賀城の焼失は、朝廷の東北支配が現地の有力者との協力によって支えられ、その関係が崩れると行政と軍事の中心まで揺らぐことを示しました。

多賀城は反乱後に再建され、南側では道路に沿った街づくりも進みました。869年の貞観地震じょうがんじしんでは、建物や城壁が崩れ、津波が城下まで達したと『日本三代実録』に記されています。多賀城は火災と災害を受けながら、そのたびに修復されました。

阿弖流為と坂上田村麻呂

8世紀末、朝廷の軍事行動は現在の岩手県南部にあたる胆沢いさわへ向かいました。789年、朝廷軍は胆沢へ進みましたが、阿弖流為あてるいらが率いる蝦夷の連合軍に敗れました。

その後の遠征を指揮したのが、征夷大将軍の坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろです。802年、阿弖流為と母礼もれは田村麻呂に降伏しました。二人は京都へ送られ、田村麻呂が助命を求めたものの、河内国で処刑されました。

同じ802年、田村麻呂は胆沢城いさわじょうを築きました。808年までに鎮守府が多賀城から胆沢城へ移り、胆沢城は約150年にわたって東北北部の軍事・行政拠点となりました。

坂上田村麻呂が築いた胆沢城跡の政庁地区
胆沢城跡。回廊付近から正殿方向を望む。撮影:Saigen Jiro/Wikimedia Commons/CC0 1.0

鎮守府の移転後も、多賀城には陸奥国府が残りました。政治の中心である多賀城と、北方の軍事を担う胆沢城が役割を分ける体制に変わりました。

城柵の周辺で進んだ交流と再編

城柵の周辺では、戦争と並行して交易、移住、官職への登用、婚姻が進み、朝廷と蝦夷の関係が組み替えられました。

多賀城や周辺の遺跡からは、北方の海獣皮、鷲の羽、昆布、琥珀、馬などの流通を示す資料が見つかっています。中央からは銭貨、装身具、鉄製品、土器などが運ばれました。城柵は、中央の制度と東北の産物が交わる場所でもありました。

朝廷に従った地域の有力者は、位や姓を与えられ、軍事や行政を担いました。伊治公呰麻呂のように国家の役職に就いた人物も、阿弖流為のように武力で抵抗した人物も、地域社会と律令国家の境界に生きていました。

9世紀以降、律令国家による大規模な遠征は減り、現地の有力者が地域の軍事と統治を担う場面が増えました。東北の政治は、城柵を中心とする国家の直接支配から、地域に根を持つ有力者を通じた支配へ移っていきました。

多賀城から地域の有力者へ

鎮守府が胆沢城へ移った後も、多賀国府たがこくふは陸奥国の行政中心として存続しました。10世紀以降の記録では「多賀国府」という呼び名が使われ、1189年には源頼朝もここへ立ち寄っています。

一方、北上川流域では、地域の軍事力と生産力を握る有力者が成長しました。11世紀には安倍氏あべし奥六郡おくろくぐんを中心に勢力を広げ、陸奥国府と強い緊張関係を持つようになりました。

国府の制度が残る一方、土地と人を直接動かせる地域勢力が力を増しました。この二重構造が、前九年合戦と後三年合戦へつながりました。

前九年合戦と後三年合戦

前九年合戦ぜんくねんかっせんは1051年に始まりました。陸奥国の有力者安倍頼時あべのよりときと、その子安倍貞任あべのさだとうらに対し、陸奥守となった源頼義みなもとのよりよしが戦いました。

戦いは長期化し、頼義は出羽の清原武則きよはらのたけのりに援軍を求めました。清原氏の参戦によって安倍氏は敗れ、1062年に前九年合戦が終わりました。清原氏は安倍氏の旧勢力圏へ進出し、東北北部で大きな力を持ちました。

約20年後、清原氏の内部で後継者をめぐる争いが起こります。これが1083年から1087年の後三年合戦ごさんねんかっせんです。清原真衡、清衡、家衡らの争いに、陸奥守の源義家みなもとのよしいえが介入しました。

最後に勝ち残った清原清衡きよはらのきよひらは、父方の藤原姓へ戻り、藤原清衡ふじわらのきよひらと名乗りました。安倍氏と清原氏の領域を受け継いだ清衡は、11世紀末に本拠を平泉へ移しました。

後三年合戦は、源氏と東国武士の結びつきを強め、中世武家社会形成の一因にもなりました。同時に、東北では清衡が広い地域をまとめ、平泉を築く出発点となりました。

奥州藤原氏が平泉に築いた北の政権

奥州藤原氏おうしゅうふじわらしの初代藤原清衡ふじわらのきよひらは、前九年・後三年合戦で親族を失いました。清衡は敵味方を分けず戦没者を弔うため、1105年ごろから中尊寺ちゅうそんじの造営を進めました。

平泉の中尊寺金色堂を保護する覆堂と参道
中尊寺金色堂の覆堂、2018年6月13日。撮影:Tak1701d/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0

二代藤原基衡ふじわらのもとひらは、金や交易による財力を背景に毛越寺もうつうじを整備しました。大泉が池を中心とする浄土庭園は、仏教の極楽浄土を地上に表した空間です。

平泉の毛越寺に残る大泉が池を中心とした浄土庭園
毛越寺の浄土庭園、2023年5月26日。撮影:Renate Hano/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0

三代藤原秀衡ふじわらのひでひらの時代、平泉の都市整備は最盛期を迎えました。秀衡は無量光院を建立し、柳之御所周辺を政治の中心として整えました。平泉は11世紀から12世紀にかけて、東北の行政、交易、仏教文化が集まる都市となり、世界遺産の説明でも京都に匹敵する政治・商業の中心と位置づけられています。

奥州藤原氏の経済は、東北で産出する金、馬、漆などと、北方から続く交易に支えられていました。中央の朝廷から官職を受け、貢納関係を保ちながら、東北に強い支配基盤を築きました。

多賀城が中央政府の制度を東北へ広げる拠点だったのに対し、平泉は東北に根を持つ勢力が築いた政治と文化の中心でした。この二つの都市は、古代から中世へ移る東北の変化を対照的に伝えています。

義経の逃亡と1189年の奥州合戦

源平合戦で活躍した源義経みなもとのよしつねは、兄の源頼朝みなもとのよりともと対立し、奥州藤原氏三代秀衡を頼って平泉へ入りました。秀衡は義経を保護しましたが、1187年に死去しました。

四代藤原泰衡ふじわらのやすひらは頼朝の圧力を受け、1189年閏4月、衣川館の義経を攻めました。義経は自害しましたが、頼朝は同年7月に大軍を率いて奥州へ進みました。

8月の阿津賀志山の戦いあつかしやまのたたかいで奥州藤原氏軍は敗れ、頼朝は平泉へ入りました。泰衡は北へ逃れ、9月に家臣に殺されました。約100年続いた奥州藤原氏は、1189年の奥州合戦おうしゅうかっせんで滅亡しました。

義経が平泉へ向かうまでの源平合戦は、忙しい人のための『平家物語』|読んだ気になれる源平合戦要約で流れを確認できます。

鎌倉幕府の支配と中世東北

奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、平泉から鎌倉へ戻る途中、多賀国府たがこくふへ立ち寄り、戦後処理を命じました。724年に律令国家の東北拠点として築かれた多賀城が、1189年には鎌倉政権による東北支配の出発点として使われました。

鎌倉幕府は東北へ御家人ごけにんを配置し、土地の管理と軍事を担わせました。『吾妻鏡』は、葛西清重かさいきよしげ伊沢家景いざわいえかげ奥州惣奉行おうしゅうそうぶぎょうと記しています。1195年、二人は頼朝から平泉の寺院修理を命じられました。

鎌倉幕府の支配は、古代以来の道路、寺院、役所、地域勢力を利用しながら組み立てられました。朝廷の国府、地域の有力者、奥州藤原氏の都市が残した基盤は、中世の統治にも引き継がれました。

『吾妻鏡』が描く頼朝の政権形成と奥州合戦は、忙しい人のための『吾妻鏡』|読んだ気になれる鎌倉幕府要約で詳しく扱っています。

多賀城から平泉へ続く東北史

古代から中世へ移る東北の主な転換点は、次のように整理できます。

出来事 東北史上の変化
724年 多賀城を設置 陸奥国府・鎮守府を置く政治軍事拠点が成立
780年 伊治公呰麻呂の反乱 多賀城が焼失し、城柵支配の緊張が表面化
802年 阿弖流為と母礼が降伏、胆沢城を造営 律令国家の支配が胆沢へ拡大
808年まで 鎮守府が胆沢城へ移転 多賀城と胆沢城が行政・軍事を分担
869年 貞観地震 多賀城と城下が地震・津波で被災
1051~1062年 前九年合戦 安倍氏が滅び、清原氏が勢力を拡大
1083~1087年 後三年合戦 藤原清衡が東北北部の勢力を継承
1105年ごろ 中尊寺の造営開始 平泉の都市と仏教文化が発展
1189年 奥州合戦 奥州藤原氏が滅び、鎌倉政権の支配が及ぶ

多賀城跡には、政庁、南門、大路、多賀城碑が残ります。東北歴史博物館では、城柵、木簡、蝦夷との交流を実物資料からたどれます。平泉では、中尊寺、毛越寺、柳之御所遺跡が奥州藤原氏の政治と文化を伝えています。

多賀城、胆沢城、平泉には、中央の制度を受け入れ、抵抗し、組み替えながら新しい社会を築いた東北の歴史が重なっています。

参考文献

  1. 文化庁 日本遺産ポータルサイト「多賀城跡附寺跡」
  2. 国指定文化財等データベース「多賀城碑」
  3. 多賀城市「国宝『多賀城碑』」
  4. 多賀城市「日本史のなかの多賀城」
  5. 多賀城市埋蔵文化財調査センター「常設展」
  6. 多賀城市「歴史の風」
  7. 国指定文化財等データベース「多賀城跡出土木簡」
  8. 東北歴史博物館「蝦夷―古代エミシと律令国家―」
  9. 東北歴史博物館「多賀城・大宰府と古代の都」
  10. 奥州市「古代I(奈良時代~平安初期)」
  11. 奥州市「古代II(平安時代)」
  12. 奥州市「胆沢城跡」
  13. 岩手県「アテルイの時代」
  14. 横手市「清原氏と横手」
  15. 横手市「後三年合戦とは?」
  16. 平泉町「奥州藤原氏前史」
  17. 平泉町「奥州藤原氏」
  18. 平泉町「平泉関係年表」
  19. UNESCO World Heritage Centre “Hiraizumi”
  20. 多賀城市「多賀城南門」
  21. JR東日本東北本部「多賀城創建1300年を記念し、日本三大史跡である多賀城跡への誘客を推進します」
  22. 多賀城市観光協会