日本で唯一のセルロイド玩具職人は足立区にいる 葛飾から世界へ広がった玩具産業の歴史

足立区辰沼の住宅街に、セルロイド玩具を作る平井玩具製作所があります。葛飾区郷土と天文の博物館は2025年のイベント案内で、平井英一さんを「現役では唯一のセルロイド玩具職人」と紹介しています。

セルロイド玩具は、大正から昭和にかけて東京東部を代表する輸出産業でした。1933年には葛飾区だけでセルロイド玩具の製造業者が59軒あり、東京市内で最も多い地域でした。現在、その製造技術を使って人形などを作り続ける職人は平井さん一人です。

セルロイドは初期の工業プラスチック

セルロイドは硝化綿と樟脳を主原料とする素材です。熱を加えると加工しやすく、着色でき、水や油にも強いため、玩具、眼鏡、櫛、筆箱、写真フィルム、ピンポン球など幅広い製品に使われました。

日本では1908年に堺セルロイドと日本セルロイド人造絹糸が設立され、国産化が進みました。日本のセルロイド生産は1937年に世界の約40%を占める規模に達しました。国内でセルロイド生地を生産する工場は1996年に生産を終えています。

玩具への加工には複数の方法がありました。2枚のセルロイド生地を金型にはさみ、熱湯などで温めながら内部へ空気を送り込んで膨らませる「吹き込み」や、加熱した生地を型へ押し付けて成形する「湯絞り」などです。葛飾区郷土と天文の博物館は、平井英一さんの協力を得て製造工程を記録しています。

セルロイドはおよそ90度で柔らかくなり加工しやすい一方、170度を超える付近では発火の危険が高まります。摩擦でも発火することがあり、加工には温度管理が欠かせませんでした。

「湯絞り」は大がかりな設備を必要とせず、夫婦など少人数でも作業できました。大工場の周囲に家庭規模の加工所や下請けが増え、成形、彩色、組み立てなどを地域内で分担する生産網ができました。セルロイド玩具は、一つの巨大工場だけで作る産業ではなく、町全体の分業によって支えられていました。

なぜ日本はセルロイド大国になれたのか

日本のセルロイド産業が急成長した背景には、原料と国際情勢の両方がありました。主要原料の一つである樟脳はクスノキから採れる天然物で、当時の台湾を含む日本は世界有数の供給地でした。セルロイド生地は当初海外から輸入していましたが、需要拡大を受けて国内一貫生産を目指す動きが進み、1908年に堺セルロイドと日本セルロイド人造絹糸が設立されました。

第一次世界大戦が始まると、欧州の玩具生産が停滞し、日本へ注文が集中しました。セルロイドと加工製品の輸出は急増し、国内には製造会社が次々に生まれます。その一方で、過当競争、品質低下、樟脳原料となるクスノキの乱伐も問題になりました。1919年、堺セルロイド、日本セルロイド人造絹糸、東京セルロイドなど8社が合併し、大日本セルロイド株式会社、現在のダイセルが発足します。

この再編を主導したキーパーソンが、初代社長の森田茂吉です。ダイセルの社史資料によると、森田はクスノキの計画的伐採による資源保護と、粗製乱造を抑えて品質を安定させる必要性を説き、財閥系列を越えた8社合併をまとめました。素材メーカーだけを守るのではなく、セルロイドを加工する中小業者の育成にも力を入れ、原料から加工まで産業全体を維持する考えを持っていました。

大日本セルロイドはセルロイドの次の用途として写真フィルムにも進みました。社内にフィルム試験所を設け、国産映画フィルムの研究を進め、1934年には富士写真フイルムが誕生します。玩具、櫛、眼鏡枠を生んだセルロイド産業は、その技術を写真材料や新しい樹脂へ移しながら姿を変えていきました。

素材を作る大企業が業界再編を進める一方、東京東部では生地を玩具へ加工する中小工場が増えました。1927~1928年には日本のセルロイド玩具の年間生産高が世界第1位となり、世界総生産額の7~8割を占めます。1937年にはセルロイド素材の生産量でも日本が世界の約40%を占めました。葛飾の町工場は、世界市場へつながる巨大な輸出産業の末端を担っていました。

セルロイドの可燃性は素材メーカー自身にとっても大きな課題でした。大日本セルロイドは不燃化研究を進め、酢酸セルロースなど別の素材へ事業を広げました。戦後は合成樹脂が急速に普及し、セルロイド生地の国内生産は1996年に終了します。原料メーカー、加工会社、玩具工場のそれぞれが、新素材へ移るか、セルロイドから撤退する選択を迫られました。

葛飾のセルロイド産業は1914年に始まった

葛飾区のセルロイド玩具産業の起点は1914年(大正3年)です。千種稔が本田村、現在の東立石3丁目に千種セルロイド工場を開きました。工場は約250人を雇う規模に成長しましたが、第一次世界大戦後の不況で1920年に廃業しました。

千種セルロイド工場はわずか6年で姿を消しましたが、地域産業の起点としては大きな役割を残しました。工場で技術を身につけた人々が周辺で独立し、四つ木、立石一帯にセルロイド加工業が広がったためです。大工場の廃業が、逆に小さな工場を地域へ拡散させる結果になりました。

1918年には関口友吉が現在の西新小岩で、野菜栽培やふのり製造のかたわらセルロイド玩具の加工を始めました。アメリカ向けのキューピー人形などで業績を伸ばし、1930年には合名会社セキグチセルロイド加工所へ発展します。農業と副業的な加工から始まった工房が、海外市場へ人形を送り出す会社へ成長しました。

関口の会社は、素材転換を早く経験した企業でもあります。セルロイド市場が揺らぐ中で1932年にはベークライト製品へ進出し、戦時中には玩具事業を中断しました。戦後に人形生産を再開し、1954年にはソフトビニール製品を実用化しました。

素材を変えた先で、1974年には「モンチッチ」が誕生しました。顔と手足にソフトビニールを使い、体をぬいぐるみにした人形で、翌1975年から海外輸出も始まりました。セキグチによると、モンチッチは世界30か国以上で販売され、累計販売数は7,000万体を超えています。セキグチは、セルロイドからベークライト、ソフトビニールへ素材を切り替えながら玩具事業を継続しました。1918年のセルロイド製キューピーから、1974年のモンチッチまで、同じ地域で玩具づくりの系譜が続いています。

当時の葛飾は農村地帯でした。東京中心部の市街化が進むにつれて工場が東部へ移り、比較的小さな設備で始められるセルロイド加工が地域に定着しました。加工所の周囲には下請けの小工場も集まりました。

1933年、葛飾区には59軒のセルロイド玩具業者があった

葛飾区史によると、1933年(昭和8年)の葛飾区にはセルロイド玩具の製造業者が59軒あり、東京市全体で最も多い地域でした。

日本のセルロイド玩具は1927~1928年に年間生産高で世界第1位となり、世界総生産額の7~8割を占めました。キューピー人形などが海外へ大量に輸出され、葛飾はその主要な生産地の一つでした。

東立石の渋江公園には、1952年に建てられた「葛飾区セルロイド工業発祥記念碑」が残っています。かつて千種セルロイド工場があった場所です。現在の公園からは、大規模な玩具工場が存在した当時の姿を直接見ることは難しいものの、記念碑が地域産業の起点を伝えています。

戦争で東京の玩具産業の地図が変わった

1937年に日中戦争が始まると、日本の玩具産業は輸出と原材料の両面から打撃を受けました。葛飾区史によると、主要な輸出先だったアメリカやイギリスで日本製品のボイコット運動が起こり、軍需向けの資材を確保するためゴムや金属を使う玩具にも製造制限がかかりました。玩具メーカーは木材など別の材料へ切り替えながら事業を続けました。

1945年3月から5月の空襲では、玩具工場や問屋が集中していた現在の台東区、墨田区などが大きな被害を受けました。葛飾区史は、葛飾区や足立区の工場は比較的被害が少なく、戦後の玩具産業を支える側になったと記しています。1947年に平井才一さんが葛飾区四つ木で平井玩具製作所を創業したのは、こうした戦後の東京東部で玩具生産が再び動き始めた時期でした。

戦前に世界市場へ大量輸出した産業は、戦争で販路と材料を失い、空襲後には生産拠点の分布まで変わりました。葛飾と足立に残った加工技術は、戦後の復興期に再び人形や玩具へ使われ、その後のソフトビニール、プラスチック玩具へつながっていきました。

燃えやすさと新素材への転換で工場が消えた

セルロイドには大きな弱点がありました。非常に燃えやすいことです。葛飾区郷土と天文の博物館は、セルロイドは高温で加工できる一方、さらに温度が上がると発火する性質があり、可燃性の高さが火災事故の原因になったと説明しています。

1954年(昭和29年)、可燃性を理由にアメリカがセルロイド製玩具の輸入を制限したと、平井英一さんへの取材で伝えられています。同じ年、セキグチはソフトビニール製品を実用化しました。海外市場の縮小と新素材の登場が重なり、玩具材料は急速に置き換わりました。葛飾区のセルロイド玩具工場は相次いで廃業や転業に向かいます。

葛飾区の産業史では、昭和30年代半ばからセルロイド製品の生産が減り、ソフトビニールやプラスチックへ移った経過が記録されています。セルロイドから新しい樹脂へ移った企業の技術と分業は、その後の葛飾の玩具産業にも受け継がれました。

平井玩具製作所も葛飾区四つ木から始まった

平井玩具製作所は1947年(昭和22年)、平井英一さんの父・才一さんが葛飾区四つ木で創業しました。当時の四つ木はセルロイド工場の集積地でした。

工房は1955年に足立区大谷田町へ移り、1965年に現在の足立区辰沼へ移転しました。平井英一さんは1946年生まれで、子どものころから父の工場で玩具製造に触れ、成形、彩色、調整、仕上げまでの工程を受け継ぎました。

セルロイド市場の縮小後、平井玩具製作所も塩化ビニール製の玩具を主力にしました。父の才一さんは採算が小さくなった後もセルロイドの金型と技術を残しました。

1959年(昭和34年)、皇太子明仁親王と正田美智子さんのご成婚を機に、平井家ではセルロイド製の「ミーコ人形」を作りました。その後、セルロイド玩具が市場から消えていく一方、塩化ビニール製品の商売は順調でした。英一さんは父に、採算の合わないセルロイドをやめてもよいのではないかと話したことがあります。

才一さんは応じませんでした。出荷数が減ってもセルロイド製品を作り、金型を捨てず、製法を手放しませんでした。当時は合理的な経営判断に見えなかった行動が、数十年後に日本で製法を復活させる条件になりました。英一さんは後年、父が頑固に続けたことへの感謝を語っています。

2002年、残していた金型からセルロイド人形が復活した

転機は2002年です。ニッポン放送の取材によると、おもちゃコレクターの北原照久さんから、昔のキャラクター人形をセルロイドで再現できないかという依頼が平井家へ入りました。英一さんは縁起物などのセルロイド加工は経験していましたが、人形製作を本格的には教わっていませんでした。

そこで父の才一さんが、捨てずに保管していた「ミーコ」の金型を再び取り出しました。人形用の肌色セルロイド生地を用意し、約40年ぶりに成形を試みます。復刻した人形を見た才一さんは、残していた金型と製法を英一さんへ伝えました。2002年に才一さんが亡くなった後、英一さんがその仕事を引き継ぎます。市場から消えた製品が復活できたのは、需要がなくなった時代にも父が金型を処分しなかったためでした。

北原さんの店での販売は当初伸びませんでしたが、インターネット販売を勧められた英一さんは独学でホームページを立ち上げました。セルロイド人形の写真を掲載すると口コミで注文が広がり、購入者が自作の衣装を着せたミーコを工房へ送り返す交流も生まれました。工場で途絶えかけた製法が、コレクターとインターネットを介して新しい顧客へつながった経緯です。

復刻した人形は愛好家の間に広がり、平井英一さんが製造を引き継ぎました。足立区は平井さんを「日本最後のセルロイド玩具職人」として記録しています。葛飾区郷土と天文の博物館も2025年8月の体験教室で「現役では唯一のセルロイド玩具職人」と紹介しました。

かつて59軒の製造業者が集まった葛飾の技術は、四つ木から足立区へ移った一つの工房で現在も使われています。

消えた素材が、少量生産の玩具として残った

セルロイドは大量生産の玩具材料としてソフトビニールや石油系プラスチックに置き換えられました。現在の平井玩具製作所は、大量生産ではなく、古い金型と手作業を生かした少量の人形や縁起物を作っています。

産業として縮小した素材でも、光沢、軽さ、質感、古い製法そのものを求める人がいます。平井さんは博物館の体験教室でも製作技術を伝えており、2025年にも現役の職人として活動が確認されています。

荒川区の日興エボナイト製造所にも、石油系プラスチックの普及で需要が縮小した素材を作り続けた歴史があります。エボナイトについては「日本で1社だけ。荒川区で作り続ける「エボナイト」とは何か」で紹介しています。

セキグチと平井家は、別の方法で玩具づくりを残した

葛飾から始まった二つの事業は、セルロイド衰退後に異なる道を選びました。関口友吉が始めたセキグチは、セルロイドからベークライト、ソフトビニールへ材料を切り替え、1974年にモンチッチを生み出しました。古い素材から離れることで、玩具メーカーとして事業を続けました。

平井家も主力を塩化ビニール製品へ移しましたが、才一さんはセルロイドの金型を捨てませんでした。2002年、その金型と本人の手仕事があったため、英一さんへ人形製法を伝えることができました。一方は素材を替えて製品づくりを残し、もう一方は新素材へ移りながら旧素材の金型と製法も残しました。

葛飾の玩具産業は、セルロイドという材料そのものが消えた後も、金型、成形、彩色、分業、商品開発といった技術を別の素材へ移しながら続きました。平井玩具製作所には、その流れの中で失われかけたセルロイド加工だけが現在まで残っています。

葛飾と足立を歩くと産業の移動を追える

セルロイド玩具の歴史を現地でたどる場合、起点になるのは葛飾区東立石の渋江公園です。千種セルロイド工場跡に発祥記念碑が立っています。四つ木、立石、西新小岩へ広がった玩具産業の痕跡を追い、その先に足立区辰沼の平井玩具製作所の歴史があります。

渋江公園の発祥記念碑、四つ木・立石・西新小岩の旧工業地帯、足立区辰沼の平井玩具製作所を結ぶと、セルロイド玩具産業の発祥、拡大、素材転換、技術継承を地理的に追えます。

参考資料