日本で1社だけ。荒川区で作り続ける「エボナイト」とは何か

荒川区荒川1丁目、都電荒川線の近くに、天然ゴムから「エボナイト」を作る工場があります。株式会社日興エボナイト製造所です。荒川区は2026年の地域経済資料で同社を「国内唯一のエボナイトメーカー」と紹介しています。世界でも製造メーカーは2、3社程度とされています。

エボナイトはかつて電気部品、万年筆、ボウリングの球など身近な製品に使われました。石油系プラスチックの普及で需要が縮小し、日本のメーカーは次々に撤退しました。荒川区の一社は素材製造を続けながら、高級万年筆という新しい市場も開拓しています。

エボナイトは天然ゴムから作る硬い素材

エボナイトは、天然ゴムに多量の硫黄を加え、長時間加硫して硬くした硬質ゴムです。通常のゴムのような大きな弾性はなく、切削や研磨ができます。黒檀のような黒い光沢を持つことから「ebonite」と呼ばれるようになりました。

硬質ゴムの成立には、19世紀のゴム技術を切り開いた複数の発明家が関わります。チャールズ・グッドイヤーが1839年に硫黄による加硫法を発見し、1843年にはイギリスのトーマス・ハンコックがゴムを溶融硫黄中で長時間加熱して硬い黒色物を得たことを報告しました。グッドイヤー家では弟ネルソンが硬質ゴムの研究を進め、1851年に製造法の特許を取得しました。同年のロンドン万国博覧会にも硬質ゴム製品が出品されています。

普通の軟質ゴムでは、ゴム100重量部に対して使う硫黄は0.5~5重量部ほどですが、エボナイトでは25~70重量部ほどを加えます。硫黄を大量に加えて長時間加硫することで、弾むゴムから硬い材料へ性質が変わります。

日興エボナイト製造所では、天然ゴムに硫黄とエボナイト粉を配合し、ロールで練り、押出機で棒や管などの形にした後、蒸気で加硫します。遠藤智久社長が東京都の有識者会議で説明した製法では、加硫だけでも最低2日を要します。短時間で大量に成形できる石油系プラスチックとは、生産時間が大きく異なります。

同社の物性表では、棒材の体積固有抵抗は10の13乗Ωcm以上、板材は10の15乗Ωcm以上です。吸水量が少なく、電気絶縁性、耐酸・耐アルカリ性、低い熱伝導率、音響特性などを持ちます。生産に時間がかかる一方、用途によって代替しにくい性質が残りました。

プラスチック以前は身近な材料だった

石油系プラスチックが広く普及する前、エボナイトは電気絶縁部品、万年筆の軸、喫煙具、木管楽器のマウスピース、ボウリングの球などに使われました。硬さ、電気絶縁性、耐薬品性、加工性をあわせ持つ素材として、多くの用途がありました。

万年筆との関係は特に古く、日本筆記具工業会は1851年のエボナイト登場を万年筆史の年表に載せています。インクの酸に侵されにくく、磨くと艶が出るため、初期の万年筆の軸材として適していました。

なぜエボナイト工場は減ったのか

転機は石油系プラスチックの普及でした。日本ゴム協会誌のエボナイト史は、戦後に合成樹脂が急速に広がり、それまでエボナイトが使われていた耐薬品・電気絶縁分野へ進出したことを記しています。エボナイトは加硫に長い時間がかかり、生産効率の面でも新しい材料に押されました。

同資料によると、戦後間もない時期にはゴム製品の生産額に占めるエボナイト製品の割合が4~5%程度ありましたが、1981年の資料では0.13%まで低下していました。

遠藤智久社長も、昭和40年ごろから石油系プラスチックが台頭し、周囲のエボナイト工場が廃業していったと説明しています。荒川区が2008年度の企業支援事例で紹介した時点では、かつて同業者が20社ほど存在したとされています。大量生産しやすい合成樹脂への転換で市場そのものが縮み、最後まで素材製造を続けた日興エボナイト製造所が国内唯一になりました。

創業者は南千住のエボナイト工場から独立した

日興エボナイト製造所を1952年に創業したのは、遠藤智久さんの祖父・遠藤勝造さんです。勝造さんは1924年、関東大震災後の復興が進む東京へ北海道から単身で出てきました。南千住のエボナイト工場で技術を身につけ、のちに独立しました。

勝造さんは1995年まで、88歳で社長を退くまで会社を率いました。需要が減る中でも「客が一人でもいる限りやめない」という姿勢を持つ一方、新しい事業や販売方法にも関心を持っていました。孫の智久さんが1998年に家業へ入った際、90歳前後だった勝造さんが最初の仕事としてホームページ作りを命じたという逸話が残っています。

後の万年筆事業につながる人物が、万年筆職人の酒井栄助さんです。笑暮屋の公式サイトによると、酒井さんは勝造さんと吟剣詩舞道を通じて親交があり、自作のインキ止式万年筆を勝造さんへ贈りました。その一本は智久さんの父へ渡り、さらに智久さんが手にします。智久さんは家業へ入った後、ボイラー技士の資格試験を勉強する際にその万年筆を使い、長時間書いても疲れにくい書き味に魅力を感じました。

遠藤智久さんは大学卒業時、家業を継がずに段ボール会社へ就職しました。家族からエボナイト産業の縮小を聞かされ、1994年から営業を経験します。4年後、会社を担っていた叔父が病気で退き、父が経営を引き継ぐ時期に家族から呼び戻され、1998年11月に日興エボナイト製造所へ入りました。2010年、38歳で代表取締役に就任します。

現在の本社・工場は荒川区荒川1丁目38番6号にあります。荒川区の資料では、2026年時点で従業員16人のゴム製品製造会社として紹介されています。

売上半減から「素材屋」を変えた

1995年ごろから約10年間で同社の売上は50%減少しました。さらに2008年のリーマン・ショック後、不況が追い打ちをかけます。東京都中小企業振興公社の取材では、年間5,000万円前後だった売上が3,600万円まで落ち込んだとされています。

智久さんはセミナーや展示会へ足を運び、荒川区の産業支援「MACCプロジェクト」に参加しました。経営塾で「脱・素材屋」を掲げ、企業向けに材料を供給する仕事から、自社で完成品を持つ仕事へ移る方向を探ります。カラーエボナイトやマーブル模様を開発し、ギターピック、印鑑、杖など複数の商品を試作しました。

転機になったのが万年筆です。2009年、6万円の万年筆を展示販売したところ、2日間で5本が売れました。素材を企業へ卸す仕事とは異なり、最終製品の価値を自社で決められる市場が存在することを確かめます。同年、自社ブランド「笑暮屋(えぼや)」を立ち上げました。2011年には日本橋三越の「世界の万年筆祭り」へ出展し、その後、国内外のペンショーへ販路を広げました。

万年筆の商品化は、素材を持っているだけでは進みませんでした。同社は以前から万年筆メーカーへ軸やキャップ用のエボナイト丸棒を納めていたため、エボナイトが筆記具に向くことは知っていました。軸加工は付き合いのあった万年筆職人へ依頼できましたが、ペン先の調達先が見つかりませんでした。遠藤さんは取引先や展示会を回って情報を集め、知人の紹介からドイツの仕入れ先へたどり着き、製品化の目途を立てました。

2008年には社内で「エボナイト元年」を掲げ、従来の黒を中心とした素材から、カラー化とマーブル模様の開発へ進みました。2013年には「マーブルエボナイト」が荒川区新商品・新技術大賞の優秀賞を受賞し、2014年には笑暮屋の店舗を開きました。素材メーカーが色柄を設計し、自社ブランドで完成品を販売する体制が整っていきました。

高級万年筆が主力事業になった

荒川区の2026年資料によると、笑暮屋の万年筆は年間約1200本を製造し、売上高の3~4割を占める主力事業に成長しています。供給が追い付かない状態が続いているとされています。

エボナイトは長く使うと表面の風合いが変わり、磨くと艶が出ます。大量生産品の材料としてはプラスチックに市場を奪われましたが、素材そのものの質感を楽しむ高級筆記具では、その特徴が商品価値になりました。

遠藤智久さんはその後、文具メーカーや個人工房が集まる「東京インターナショナルペンショー」の運営にも携わりました。東洋大学のインタビューでは、約70社の文具メーカーなどとともに「書く」楽しみを広げる場として紹介されています。素材を作る町工場が、筆記具市場を育てる側にも関わるようになりました。

万年筆が売れ始めた直後、作れる職人がいなくなった

万年筆事業が軌道に乗る過程で、製造を揺るがす出来事も起きました。当時、万年筆の加工工程を一人で担っていた旋盤職人が独立のため退職しました。受注残は約8か月分あり、新しいNC旋盤も発注済みでしたが、社内には代わりに万年筆を作れる人がいませんでした。

会社はハローワークや荒川区の就労支援を通じて未経験者3人を採用しました。3人を機械メーカー、万年筆職人、職業訓練校などへ送り、旋盤加工から製品づくりまで学ばせました。7月に採用し、11月に新しい機械が入り、翌年2月には万年筆を作れる体制を整え、3月の丸善・三越の催事へ出品しました。一人の熟練者に集中していた技術を、複数人で再構築した転機です。

海外から買っていた原料まで自社で作るようになった

エボナイトの製造工程で使う「エボナイト粉」も危機に直面しました。以前は中国とタイから調達していましたが、中国では環境規制で従来品が入手しにくくなり、タイでは粉砕設備の故障で供給が止まりました。二つの調達先が相次いで機能しなくなりました。

日興エボナイト製造所は補助制度を利用して粉砕機を導入し、エボナイト粉の製造を内製化しました。国内最後の素材メーカーが残るため、製品の加工技術に加えて、原料工程まで自社の管理下へ戻しました。

工業材料としての需要も残っている

現在もエボナイトには複数の工業用途が残っています。電気絶縁材料、木管楽器のマウスピースや内管、喫煙具などに使われています。音響特性を理由に楽器分野からの需要もあり、海外からの注文もあります。

荒川区の2026年資料では、海外向けBtoB取引が売上の約2割を占めるとされています。国内で需要が縮小した素材が、専門用途と高級品の市場を通じて海外にも販売されています。

同社はエボナイト以外に、耐油性を持つ硬質発泡体「NBRフロート」も製造しています。自動車や航空機などの燃料タンク、液面センサーなどに使われる部材です。

同じ荒川区には、東京都内でも数施設しかない胞衣取扱業の事業者も残っています。荒川区に残る別の希少産業については「胎盤は出産後どこへ行く? 東京に5施設だけ残る「胞衣取扱業」と荒川区」で紹介しています。

参考資料