東京に1軒だけ残る味噌蔵。練馬「糀屋三郎右衛門」八代の物語

練馬区中村2丁目の住宅街に、木桶と麹室を備えた味噌蔵があります。糀屋三郎右衛門です。練馬区は同店を「都内唯一の味噌蔵」と紹介しています。東京都地質調査業協会の2023年資料では、味噌を製造する会社自体は都内に複数ある一方、麹づくりから味噌までを東京都内で一貫製造する会社は糀屋三郎右衛門だけと整理されています。

創業は1839年(天保10年)。現在の場所で味噌を造り始めたのは1939年です。茨城の名主の家に由来する屋号が、上野を経て練馬へ移り、戦時中の統制、戦後の原料不足、大量生産の時代を越えて残りました。

現在は七代目・辻田雅寛さんと八代目・辻田宥樹さんの二世代が蔵に立ちます。雅寛さんは昔ながらの手仕事と食育を続け、宥樹さんは商品開発や発信、海外も見据えた新しい販路を担っています。東京から味噌蔵が消えていく中で一軒だけ残った背景には、製法の保存と同時に、売り方や伝え方を変えてきた家族の判断があります。

1839年、茨城の名主の家から始まった

糀屋三郎右衛門の公式サイトは、創業を1839年(天保10年)としています。現在の茨城県稲敷郡江戸崎町上君山にあたる地域で、名主を務めていた家の屋号「三郎右衛門」を受け継いだと、東京都地質調査業協会の聞き取り資料に記録されています。

家業は茨城で始まり、大正12年(1923年)には上野へ移りました。関東大震災の年です。その後、1939年(昭和14年)に現在の練馬区中村へ蔵を移します。

移転先に練馬を選んだ理由として、七代目の辻田雅寛さんは、当時この地域に漬物屋が多く、麹の需要があったことを挙げています。味噌だけを売る蔵ではなく、麹そのものを地域の食品加工業へ供給できる土地でした。

現在の中村周辺は住宅地ですが、1939年当時の練馬には農地と食品加工業が広がっていました。味噌蔵が住宅街へ進出したのではなく、後の都市化で住宅が蔵の周囲を埋めていきました。

江戸・東京には「東京の味噌」があった

東京の味噌文化を考えるうえで欠かせないのが江戸甘味噌です。特許庁の地域団体商標資料によると、江戸甘味噌は一般的な辛味噌より米麹を多く使い、塩を少なくした甘い米味噌です。熟成は10日ほどと短く、保存性が低いため、消費地に近い江戸市中で造ることに向いた味噌でした。

江戸から大正期の最盛期には、江戸甘味噌が東京の味噌需要の約60%を占めたとされています。どじょう鍋や田楽など、江戸の料理にも使われました。東京には味噌を造る蔵が多数存在し、地域ごとの需要を支えていました。

現在も東京都内に本社を置く味噌会社や、東京の味として江戸甘味噌を扱う会社はあります。糀屋三郎右衛門の「都内唯一」という特徴は、会社数ではなく、東京都内の蔵で麹から仕込み、熟成までを一貫して続けている点にあります。

戦争が東京の味噌を大きく変えた

昭和に入ると、東京の味噌産業は戦争によって大きな転換を迎えます。味噌は生活必需品として統制され、原料の米や大豆も自由に調達しにくくなりました。江戸甘味噌のように麹を多く使う味噌は、戦時中に贅沢品として製造が禁止されました。

東京の下町に多かった味噌の消費者と工場は、強制疎開と空襲でも打撃を受けました。戦後は原料不足が続き、地方から東京へ移住した人々が故郷の味噌を持ち込んだことで、東京の食卓には信州味噌、仙台味噌など各地の味噌が広く入るようになります。

糀屋三郎右衛門でも、先代の時代に戦後の原料不足へ苦労したことが七代目への聞き取りで語られています。1939年に練馬へ移って間もなく戦時体制に入り、その後の食糧難を越えて蔵を存続させました。

大量生産と広域流通が東京の味噌工場を減らした

戦後、日本の味噌産業は大量生産と広域流通へ進みました。冷蔵、包装、トラック輸送が発達し、消費地の近くに小さな味噌蔵を置く必要性が下がります。地方の大規模工場で造った味噌を東京へ運べるようになり、都市部の地価上昇や住宅化も小規模な醸造所には不利に働きました。

2005年の東京都立食品技術センター資料では、東京都味噌工業協同組合に18企業が加盟していました。加盟企業の中には、東京に会社や販売拠点を置き、工場を都外へ移した例もあります。

糀屋三郎右衛門は、大規模工場へ移転して生産効率を上げる道を選ばず、中村の木造の蔵で麹づくりから続けました。その選択が、結果として「東京で一貫製造する最後の味噌蔵」という位置につながりました。

味噌造りの中心は、大豆より先に「麹」を作る仕事

味噌の原料は、大豆、米、塩という単純な組み合わせです。味の方向を大きく左右するのが米麹です。糀屋三郎右衛門では、国産米を蒸し、種麹を付け、蔵の麹室で米麹から手作りします。

取材記録では、一度に約280キログラムの米を蒸す工程も紹介されています。蒸した米を人肌程度まで冷まし、麹菌を散布し、木製の「麹ぶた」へ小分けします。麹室では約3日かけて菌を育てます。

温度と湿度は日ごとに変わります。八代目の辻田宥樹さんは、テレビ東京の取材で、その日の天候や気温に合わせて仕込み方を変えると説明しています。機械で一定条件へ固定するより、人が米と麹の状態を見て調整する方法を続けています。

出来上がった米麹を、蒸した大豆、塩と混ぜ、潰して木桶などへ仕込みます。長期熟成する味噌は季節の温度変化を受けながら発酵します。蔵の空調で一年中同じ温度へ固定する方法より、時間と気候の影響を大きく受ける天然醸造です。

味が毎回少し違うことを、欠点として消さなかった

大量生産の食品では、いつ買っても同じ味に整えることが重要です。糀屋三郎右衛門では、仕込みごとに生じる色や風味の違いを残しています。

七代目の辻田雅寛さんは、同じ麹菌を使っても気温、湿度、菌の状態によって味が変わると説明しています。複数の味噌を混ぜて均一な味へ調整する方法を採らず、その年、その仕込みの差を商品の個性として販売しています。

公式サイトも、生産効率化が進む時代に機械化へ全面的に移らず、手作りを続ける方針を明記しています。小規模な蔵が大手と同じ効率を競うより、手仕事による違いを商品価値にする経営です。

七代目・辻田雅寛は、味噌を「教える仕事」も始めた

七代目の辻田雅寛さんは1962年生まれです。大学卒業後、食品総合研究所で研修し、家業へ入りました。蔵の製造を担うだけでなく、学校や地域で味噌づくりを教える活動を続けています。

2026年にも練馬区立中村中学校で2年生の味噌作りを指導しています。生徒は仕込んだ味噌を約1年間熟成させ、後の調理実習で使います。味噌を商品として売るだけでなく、発酵の時間そのものを地域の教育へ持ち込みました。

味噌蔵が地域から消えると、身近な場所で大豆が味噌へ変わる工程を見る機会も失われます。雅寛さんの食育活動は、蔵が東京に残っていることを地域の学習資源へ変える取り組みでもあります。

八代目・辻田宥樹は、銀座で「今の東京」を見る

八代目の辻田宥樹さんは、現在、糀屋三郎右衛門株式会社の代表取締役として蔵を担っています。公式通販サイトでも運営統括責任者として名前が記載されています。

テレビ東京の2024年の取材では、宥樹さんが商品開発の参考に銀座を歩く姿が紹介されました。百年以上前の製法を守る一方、現代の売場、パッケージ、食の流行を東京の中心部で観察しています。

2023年には商品のハラール認証を取得し、海外客や異なる食文化にも味噌を届ける取り組みを進めました。2025年には主力商品「昔みそ」のパッケージを刷新しています。八代目が担うのは製法を変える仕事より、味噌を受け取る人を広げる仕事です。

七代目と八代目が同じ時期に蔵へ立っていることも現在の特徴です。雅寛さんが製造と食育を続け、宥樹さんが販売や発信を広げることで、技術継承を一代交代の瞬間に集中させず、二世代が重なる時間を作っています。

木桶が残ることも、東京で味噌を造る意味になる

蔵では木桶を手入れしながら使い続けています。木桶はステンレス容器より管理に手間がかかりますが、長年使う蔵の道具として現在も残されています。

同じシリーズで紹介した深川の結桶工房「桶栄」も、東京最後の結桶師として木桶を作り続けています。東京で木桶を使う醸造業と、木桶を作る職人の双方が一軒級まで減っている状況は、生活道具と食品産業が同時に変化してきたことを物語ります。

桶栄については「東京最後の結桶師。深川「桶栄」が138年つなぐ木桶の技」で詳しく紹介しています。

東京に味噌蔵が一軒残る意味

糀屋三郎右衛門が練馬へ移った1939年、周囲には漬物屋があり、麹を必要とする食品加工の仕事がありました。現在、その一帯は住宅地です。東京の味噌産業も、戦争、工場の集約、地方産味噌の流入、広域物流、地価上昇によって姿を変えました。

その中で糀屋三郎右衛門は、麹づくりを外注せず、練馬の蔵で仕込み続けました。大量生産と同じ条件で競う代わりに、仕込みごとの違いを残し、学校で教え、商品を更新し、八代目へ技術と商売を渡しています。

東京に最後の味噌蔵が残った背景には、「昔と同じ」を守るだけの選択より、何を変え、何を変えないかを代ごとに決めてきた積み重ねがあります。

参考資料