東京都府中市の住宅街に、三つの頂を持つ緑の丘が残っています。都立浅間山公園です。標高約80メートルの小さな山には、中世の古戦場、農村の信仰、太平洋戦争中の軍事利用という異なる時代の歴史が刻まれています。丘の東には明治大学府中グラウンドが広がり、近隣には旧陸軍調布飛行場と陸軍燃料廠の歴史も残っています。
浅間山公園の地形と三つの頂
浅間山は、古い多摩川などの侵食によって周囲の台地が削られ、独立した丘として残った地形です。浅間山自然保護会によると、最高地点は海抜79.6メートル、周囲の平地との高低差はおよそ30メートルあります。火山の浅間山とは成り立ちが異なります。
江戸時代の『新編武蔵風土記稿』は、三つの頂を堂山・中山・前山と記しています。最も高い堂山に浅間神社、中山周辺に湧水、前山には人見四郎の墓跡を伝える碑があります。尾根と谷を行き来する園路からは、平地に突き出した丘の起伏がよくわかります。
1352年の人見原合戦と南北朝の戦乱
1352年(観応3・正平7)、浅間山周辺の人見原では、足利尊氏と、新田義興・義宗兄弟が争いました。南北朝時代の武蔵野合戦の一部で、人見原から現在の小金井市にかけて戦闘が続きました。新田兄弟は鎌倉幕府滅亡に功のあった新田義貞の子です。
府中市史編さんだよりは、埼玉県日高市の町田家文書に人見原合戦の記述があることを紹介しています。浅間山の周辺一帯は「人見原古戦場」として東京都指定旧跡に登録されています。現在は住宅地の一角に古戦場の標識が設置されています。
府中には1333年の分倍河原合戦もあります。新田義貞が鎌倉幕府軍と戦ったこの合戦と、19年後に息子たちが戦った人見原合戦は別の出来事です。
人見四郎の墓跡と旧人見村の暮らし
前山には「人見四郎の墓跡」と刻まれた碑があります。人見氏が当地に住んだとする伝承に基づくもので、府中市史編さん担当は人見氏とこの土地を直接結び付ける史料が乏しいことを記録しています。
江戸時代の浅間山は、人見村の人々が薪や落葉を集める里山でした。旧人見村は人見街道沿いの台地にあり、現在の若松町・浅間町・多磨町・紅葉丘の一部に重なります。天正年間の帳面を後世に写した史料には、1580年ごろ百姓19人、16軒の記録があります。1872年の明細書には53軒が記され、麦、豆、蕎麦、芋、桑や繭などの生産がわかります。
浅間神社と「おみたらし」の湧水
堂山の山頂には浅間神社が鎮座します。浅間信仰は富士山を神聖な山とする信仰に関わり、祭神は木花咲耶姫命です。

北側の中腹には「おみたらし」と呼ばれる湧水があり、水手洗神社の伝承が残ります。台地上に開かれた人見村では、水を得られる場所が生活上の重要な条件でした。

太平洋戦争中の浅間山――火薬庫・高射砲・防空壕
太平洋戦争中、浅間山は陸軍に接収され、火薬庫の代用として使われました。浅間山自然保護会は、さらに電波塔、高射砲、燃料の隠し場所、防空壕の設置を伝え、戦時中に木々が皆伐されたと記しています。
戦後の丘を知る冨田悦哉氏の回想「浅間山の思い出」には、中山と前山の間に、高射砲陣地とされたすり鉢状の窪地や砲座のコンクリート片が残っていた様子が記されています。堂山周辺の斜面には防空壕の入口や配電施設の残骸もあったといいます。
戦争中に掘られた横穴の形跡は、地形を調べる研究でも取り上げられています。青谷知己「赤色立体地図で見る府中浅間山」(『多摩のあゆみ』182号、2021年)は、詳細な標高データによる立体地図を用い、堂山中腹などに残る人工的な窪地と戦時中の利用を検討しました。横穴にドラム缶を貯蔵したという住民の証言も紹介されています。
陸軍燃料廠と調布飛行場――周辺に広がった軍事施設
浅間山の西側には、1940年7月31日に正式発足した陸軍燃料廠がありました。航空燃料や潤滑油の確保に関わる施設で、1944年には陸軍燃料本部に改編されています。浅間山の斜面に燃料貯蔵タンク関連施設があったとする現地調査もあります。
東側には旧陸軍調布飛行場が広がっていました。1941年開設のこの飛行場は首都防空の拠点となり、戦争末期には戦闘機を空襲から守る掩体壕や分散配置の施設が整えられました。戦隊史研究サイトには、浅間山を戦闘機の分散秘匿地区の一つとして扱う記録があります。府中市の白糸台掩体壕は、当時のコンクリート製航空機格納施設が現存する市指定史跡です。

旧調布飛行場の掩体壕は、武蔵野の森公園にも残っています。付近の史跡や大沢の里を歩いた記録は、武蔵野の森公園・調布飛行場周辺の歴史散歩で紹介しています。地下壕の用途の違いについては、日本の地下壕・地下軍事施設の解説も参考になります。
東側の明治大学府中グラウンドは旧軍用地なのか
浅間山公園の東に隣接する明治大学府中グラウンドは、正式には「明治大学内海・島岡ボールパーク」と呼ばれます。明治大学は、長年使っていた調布市の島岡球場の老朽化に伴い、2006年にこの地へ移転しました。大学の2006年度事業概要には、調布用地を処分し、府中用地を取得した経緯が記されています。
建設を担当した大成建設の設計資料によると、敷地は以前、三井物産の社有地で、総合グラウンドとして使われていました。明治大学は造成や伐採を抑え、既存体育館を屋内練習場に転用しました。旧三井物産総合運動場は1960年代の現地回想にも登場します。
明治大学には、旧陸軍と深い関係を持つ校地があります。生田キャンパスは秘密戦兵器を研究した陸軍登戸研究所跡、和泉キャンパスは江戸幕府の焔硝蔵から続く陸軍火薬庫跡、中野キャンパスは陸軍中野学校の跡地の一部です。これらは明治大学の大学史資料で確認できます。
府中グラウンドが旧陸軍用地だったかどうかは、確認されていません。
戦後の払い下げから1970年の公園開園へ
戦後、浅間山は地元に払い下げられました。その後、住宅会社による宅地化計画が持ち上がると、自然環境の保全を求める声が広がりました。東京都は1965年度に土地を買収し、1970年6月1日に都立浅間山公園を開園しました。東京都建設局の公園事業資料には、この経過が記録されています。
現在の園内にはコナラやクヌギなどの雑木林が広がります。浅間山は、国内で唯一の自生地として知られるムサシノキスゲの生育地でもあります。黄色い花の見頃は例年5月ごろ。かつて薪炭林として利用され、戦時中に伐採された丘が、戦後の保全活動によって市民の緑地となりました。

現地で訪ねたい史跡と見どころ
- 堂山の浅間神社:公園内で最も高い頂に残る山岳信仰の場所。
- 中山と「おみたらし」:湧水と祠の伝承、富士山を望む展望地点。
- 前山の人見四郎墓跡碑:人見氏の伝承を伝える石碑。
- 人見原古戦場の標識:1352年の武蔵野合戦を伝える東京都指定旧跡。
- 中山・前山間の地形:戦後の回想に高射砲陣地跡として登場する場所。遺構の位置や現存状況は公的に確定された展示施設とは異なります。
浅間山公園は東京都府中市浅間町4丁目・若松町5丁目にあります。最寄り駅の一つは西武多摩川線・多磨駅で、公園まで徒歩約15分です。園路には坂道や階段があり、雑木林の中に小さな起伏が続きます。園内の施設や通行状況は公園管理者の案内で確認できます。
主要参考資料
- 府中市『府中市史編さんだより』第5号(2018年)「人見」
- 府中市「市内の指定等文化財一覧」
- 東京都建設局『事業概要』浅間山公園の沿革
- 浅間山自然保護会「浅間山の歴史」
- 青谷知己「赤色立体地図で見る府中浅間山」『多摩のあゆみ』第182号(2021年)。デジタルアーカイブ
- 冨田悦哉「浅間山の思い出」(戦後の現地回想)
- 航空自衛隊府中基地「基地の沿革」
- 大成建設「明治大学府中グラウンド」
- 明治大学「2006年度事業概要」
- 明治大学「和泉キャンパス前史」、登戸研究所資料館「登戸研究所とは」、「明治大学に残る戦争遺跡(3)」
