1958年台湾海峡危機とは?ハルペリン文書が明かした核戦争の危機と日本

1958年9月15日に台湾の桃園空軍基地へ展開した米空軍F-104A戦闘機

1958年8月23日夕刻、中華人民共和国の人民解放軍が、中国大陸沿岸の金門きんもん島へ大規模な砲撃を始めました。金門は台湾本島ではなく、福建省の厦門(アモイ)の目の前にある島です。当時ここを守っていたのは、1949年に台湾へ拠点を移した中華民国の軍隊でした。

局地的な砲撃戦は、米国の軍事介入、さらに中国沿岸への核攻撃へ発展する可能性を帯びます。9月2日の米政府会議では、統合参謀本部議長ネーサン・トワイニングが、沿岸5飛行場を7~10キロトン級の核兵器で攻撃する具体案を説明しました。しかし、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は核兵器の自動的な使用を認めず、通常兵器を先に使い、核使用には自らの承認を必要としました。軍事計画に核使用が組み込まれていたこと、軍上層部が具体案を政府内で提案したこと、大統領が核攻撃を命令したことは、それぞれ別の段階です。

この危機の意思決定を機密文書と関係者への聞き取りから再構成したのが、政治学者モートン・H・ハルペリンの報告書です。2026年8月9日のNHKスペシャル「知られざる核危機 ハルペリン文書の警告」でも注目されました。現在は米国の外交文書集FRUS、米空軍秘密戦史、CIA資料に加え、台湾、中国、旧ソ連側の史料も公開され、同じ危機を複数の当事者の視点から検討できます。

そもそも1958年の台湾海峡危機とは

台湾本島ではなく、中国大陸沿岸の金門が主戦場だった

第二次世界大戦後、中国では国民党と中国共産党の内戦が再燃しました。1949年10月に中国共産党が中華人民共和国を成立させると、蔣介石しょうかいせき率いる中華民国政府は12月に台北を臨時首都とし、台湾・澎湖諸島と大陸沿岸の一部島嶼を保持しました。中華人民共和国は中国大陸を統治し、中華民国は台湾を中心に統治するという分断が生まれます。

金門島と馬祖ばそ列島(Googleマップ)は、その分断の最前線でした。金門は台湾本島から100海里以上離れている一方、対岸の福建省・厦門とは最短部で数キロしか離れていません。1949年10月の古寧頭戦役では、金門へ上陸した人民解放軍を中華民国軍が撃退しました。敗退を続けていた中華民国側にとって、金門防衛の成功は軍事的・象徴的な意味を持ち、その後も大規模な守備隊が置かれました。

1958年の金門島と中国大陸・厦門周辺を示す地図
1958年の金門・厦門周辺地図。Army Map Service, U.S. Army Corps of Engineers/University of Texas Libraries/Wikimedia Commons/Public Domain。

現在の位置: 金門島をGoogleマップで見る厦門をGoogleマップで見る

1950年に朝鮮戦争が始まると、米国は第7艦隊を台湾海峡へ送り、東アジアの米中対立はさらに深まりました。朝鮮半島で米軍と中国人民志願軍が直接戦った経緯は、「写真でたどる朝鮮戦争|分断・侵攻・中国参戦・休戦まで」で時系列に整理しています。

第一次危機から第二次危機へ

1954~55年の第一次台湾海峡危機では、人民解放軍が金門・馬祖などを砲撃し、一江山島を占領しました。米国は1954年12月に中華民国と米華相互防衛条約を結びますが、条約の明示的な防衛対象は台湾と澎湖でした。金門・馬祖をどこまで守るかは意図的に曖昧さが残されました。第一次危機でもアイゼンハワー政権は中国に対する核兵器使用を選択肢として検討しており、1958年だけを「戦後最初の核危機」と位置づけることはできません。

1958年夏、中国側は福建沿岸へ航空戦力や砲兵を増強しました。8月23日、人民解放軍が金門への大規模砲撃を開始します。台湾側では「八二三砲戦」と呼ばれる戦闘です。「台湾海峡危機」という名称から台湾本島への上陸侵攻を想像しやすいものの、激戦の中心は中国大陸沿岸の金門でした。

「ハルペリン文書」とは何なのか

モートン・H・ハルペリンは、ハーバード大学で教え、RANDのコンサルタントも務めた米国の政治学者です。米国防総省の国際安全保障担当部門から依頼を受け、危機管理研究の一環として1958年台湾海峡危機を調査しました。国務省・国防総省の機密文書、太平洋軍や台湾防衛司令部関係資料を読み、当時の主要な政策決定者にも聞き取りを行っています。

この研究の特徴は、出来事を後から要約するだけでなく、危機の途中で誰が何を知り、どの選択肢を示し、どの段階で大統領判断が入ったかを追っている点です。RANDは現在の646ページ版を原版の短縮版と明記し、国務省・国防総省の機密文書、太平洋軍、台湾防衛司令部の資料、主要政策決定者への聞き取りを用いた研究だと説明しています。軍の作戦計画と政府の政策決定を同じ時系列上で読めるため、核使用が「選択肢」から「具体案」へ進む過程と、その先に大統領承認という政治的な関門があったことを区別できます。

646ページ、691ページ、63ページは別の版

「ハルペリン文書」は一つのページ数で説明すると混乱します。RANDが現在公開する『The 1958 Taiwan Straits Crisis: A Documented History』RM-4900-ISAは646ページで、公開ページには原版の「abridged version(短縮版)」と明記されています。一方、National Security Archiveによると、1966年12月に691ページのTop Secret版がまとめられ、その詳細版に先立って1966年1月には63ページのSecret要約版『The Taiwan Straits Crisis: An Analysis』が作られました。63ページ版は2001年に機密解除されています。

大部の報告書が再び注目された背景には、ペンタゴン・ペーパーズで知られるダニエル・エルズバーグが1971年に複写を保存し、後に公開した経緯があります。したがって「600ページのハルペリン文書」という表現は概要としては通じても、646ページのRAND公開版、691ページのTop Secret版、63ページのSecret要約版を区別する必要があります。

ハルペリンの研究は米国側の意思決定を詳しく追える一方、1960年代に利用できた中国・台湾・ソ連側の史料には限界がありました。現在はFRUS、米空軍の『Air Operations in the Taiwan Crisis of 1958』、CIAの同時代評価、台湾の國史館・国家発展委員会檔案管理局、中国国家档案局、旧ソ連文書を扱う研究などを組み合わせられます。ハルペリン文書は核危機を知る中心史料ですが、唯一の証拠ではありません。

1958年8月23日から何が起きたのか

8月23日の砲撃で、金門の港湾・飛行場・補給施設は強い圧力を受けました。人民解放軍は砲撃だけでなく海空戦力を使って補給線を脅かし、中華民国側は守備隊への弾薬・食料・燃料の輸送を続けます。米国は第7艦隊を増強し、中華民国の補給船を国際水域から護衛する態勢を整えました。

1958年台湾海峡危機中に洋上補給を受ける米空母USS Lexington
台湾海峡危機中、洋上補給を受ける米空母USS Lexington、1958年9月ごろ。U.S. Navy/Wikimedia Commons/Public Domain。

米空軍・海軍・海兵隊も西太平洋で急速に戦力を増やしました。米空軍戦史によれば、第7艦隊は危機のピーク時に空母6隻を含む大規模戦力を展開し、空母搭載機のうち約96機が核兵器を運搬できました。海兵隊MAG-11の56機は厚木海軍航空施設から台湾へ移動し、米本土からも戦闘機・偵察機・輸送機が台湾、沖縄、フィリピン、日本へ展開しました。

1958年9月15日に台湾の桃園空軍基地へ展開した米空軍F-104A戦闘機
台湾・桃園空軍基地の米空軍F-104A、1958年9月15日。U.S. Air Force/National Museum of the U.S. Air Force/Wikimedia Commons/Public Domain。

台湾側には8インチ榴弾砲などの装備が供与され、空戦では中華民国空軍が米国供与のサイドワインダー空対空ミサイルを使用しました。ただし危機の焦点は個々の兵器の性能より、金門への補給を維持できるか、米軍がどこまで戦闘に入るか、中国側が米艦を攻撃するかという政治・軍事の境界にありました。

日付中国側の動き台湾・米国側の動き/危機の意味
8月23日金門への大規模砲撃を開始補給線が脅かされ、第二次台湾海峡危機が本格化
8月下旬砲撃・海空活動で封鎖圧力米第7艦隊・空軍・海兵隊が増強、補給護衛を準備
9月初旬金門への圧力を継続米政府内で通常戦と核使用案を具体的に検討
9月中旬軍事圧力を続けつつ外交戦も展開米中ワルシャワ大使級会談が再開
10月6日7日間の砲撃停止を表明補給が容易になり、危機は収束方向へ
10月21~23日限定的な砲撃へ移行ダレス訪台、米華共同コミュニケで武力による大陸反攻を抑制

外交経路も動きました。9月には米中ワルシャワ大使級会談が再開され、軍事的な威嚇と並行して意思疎通が続きます。危機の進行を日付で追うと、8月29日にアイゼンハワーが核措置の自動的な発動を抑え、9月2日には統合参謀本部議長が沿岸5飛行場への7~10キロトン級核攻撃案を説明し、9月4日には大統領が軍事・政治両面のリスクを改めて検討しています。軍事計画が具体化する一方で、外交交渉と大統領による統制も並行していました。

10月6日、中国側は砲撃を7日間停止すると発表しました。その後は砲撃日を調整し、奇数日を中心に砲撃する慣行へ移ります。10月21日にダレス国務長官が台湾を訪れ、23日の米華共同コミュニケでは、中華民国側が大陸の人々への「自由の回復」という目標を主として武力ではなく政治的手段で追求する趣旨を表明しました。激しい危機は10月に収束しましたが、金門への砲撃自体は儀礼化しながら1979年まで続きました。

アメリカ軍はなぜ核兵器を使おうとしたのか

「ニュールック」が作った核依存の軍事計画

1950年代のアイゼンハワー政権は、通常戦力を際限なく拡大するより、核戦力と報復能力を重視する「ニュールック」戦略を採用しました。1945年に実用化された核兵器は、1950年代には戦略爆撃だけでなく地域紛争の軍事計画にも深く組み込まれていました。核兵器開発の出発点となったマンハッタン計画については、「写真でたどるマンハッタン計画|3つの秘密都市で原爆はどう作られたのか」で扱っています。

台湾海峡でもこの構造が表れます。米空軍の太平洋空軍作戦計画は段階的な作戦を想定し、攻撃部隊の撃破から中国側の戦争遂行能力を破壊する作戦へ進む構成でした。第2段階には核目標が含まれ、8月18日にはグアムのB-47爆撃機5機がMark 6核爆弾を使う即応態勢に置かれました。危機が本格化すると、太平洋空軍には核運搬能力を持つ航空機がさらに増強されました。

9月2日、沿岸5飛行場へ7~10キロトン級という案

核使用の具体性がよく分かるのが、1958年9月2日の米政府会議記録です。ダレス国務長官が核兵器を使う場合の種類を尋ねると、統合参謀本部議長トワイニングは7~10キロトン級の空中爆発を挙げました。最初の攻撃対象は中国沿岸の5飛行場で、各飛行場に1発を使用し、その後に中国側の反応を見るという案でした。地上爆発の方が効果は大きいものの、放射性降下物を増やすため避けるという説明もされています。

米軍側には、通常兵器だけでは中国沿岸の飛行場や砲台を短期間で無力化しにくく、戦闘が長期化すれば「朝鮮戦争型」の消耗戦に陥るという懸念がありました。限定核攻撃で沿岸航空戦力を抑え、それでも戦争が続けばより広い中国本土の目標へ攻撃を拡大する可能性も議論されました。そこではソ連の介入、核報復、一般戦争への拡大までがリスクとして計算されていました。

アイゼンハワーは核攻撃を承認していなかった

軍の計画が具体的だった一方、アイゼンハワーは8月29日の会議で、危機が次の段階へ進んでも当初は核措置を控える方針を確認しました。軍事指令案にあった「命令された場合の核攻撃」という記述も削除されています。9月に入っても、最初は通常爆弾を使い、核使用は大統領自身の承認を必要とするという政治統制が維持されました。

ダレスも核兵器の軍事効果だけを見ていたわけではありません。9月2日の会議では、駐日米大使ダグラス・マッカーサー2世から、米国が外島防衛のため核兵器を先に使えば、日本政府が在日米軍撤退を要求する可能性があり、少なくとも日本国内施設から台湾海峡作戦への兵站支援停止を求める可能性があるとの警告が共有されました。9月4日にアイゼンハワーが検討した文書も、核使用がアジア、とりわけ日本で強い反発を生み、限定戦争を一般戦争へ広げる危険を認めています。

1958年は「核攻撃命令が出た危機」ではなく、核使用を前提とした軍事計画、軍上層部による具体的な核攻撃案、核使用を止めたり許可したりできる大統領の政治判断が同時に存在した危機でした。ハルペリンが危険視したのも、核兵器が例外的な最終手段ではなく、軍事計画の初期段階から自然に入り込んでいた意思決定の構造でした。

中国・台湾・ソ連は何を考えていたのか

毛沢東はなぜ金門を砲撃したのか

中国国家档案局が公開する1958年8月18日付の毛沢東もうたくとうから彭徳懐ほうとくかいへの書簡は、金門砲撃の準備が中国指導部の判断で進められていたことを示します。ただし目的は一つではありません。同時代の米情報評価は、米国と中華民国の外島防衛意思を試すこと、「二つの中国」が固定化する流れを妨げること、中華民国側の士気を揺さぶることなどを挙げました。後世の研究では、1958年の中東危機との連動や、対米圧力、国内外への政治的シグナルも論じられています。

中国側は強い軍事圧力をかけながら米軍との直接衝突を管理しようとしました。米艦への攻撃を避ける判断や、台湾本島への全面侵攻に進まない行動が確認できます。10月6日の「台湾同胞に告ぐ」に相当する声明では一時停火を宣言し、その後は砲撃日を調整しました。金門・馬祖を中華民国側に残すことが「二つの中国」の固定化を防ぐという政治論理も前面に出ていきます。

蔣介石はなぜ金門を手放さなかったのか

中華民国側にとって金門・馬祖は単なる小島ではありませんでした。大陸反攻の前線であり、中華民国が中国全体を代表するという政治的正統性とも結びついていました。蔣介石は、戦わずに外島を放棄すれば自らの政治的立場そのものが崩れると考えていました。

1958年8月19日に馬祖を視察する中華民国総統の蔣介石
馬祖を視察する蔣介石、1958年8月19日。中央社/國家文化記憶庫/Wikimedia Commons/Public Domain Mark 1.0。

國史館に残る9月1日の会談記録では、蔣介石が米軍関係者と金門砲戦の戦術や米軍護衛について協議しています。9月3日にも戦略・計画をめぐる会談があり、米国の同意なしに中国大陸の海空軍基地へ単独攻撃しないことが問題となりました。米国は金門防衛を支えながら、中華民国側の反撃が中国本土への大規模戦争へ広がることも抑えようとしていたのです。

10月21日の蔣介石・ダレス会談と23日の米華共同コミュニケは、その緊張関係を映します。米国は外島と台湾防衛の関連を認めつつ、蔣介石政権に大陸反攻の主要手段を武力に置かない表現を受け入れさせました。蔣介石は外島の放棄や大幅な減兵には消極的でしたが、米国も中華民国を無条件に軍事行動へ進ませるつもりはありませんでした。

ソ連は中国のためにどこまで戦うつもりだったのか

中国とソ連は同盟国でしたが、1958年夏にはすでに摩擦が表面化していました。7月31日から8月3日にかけてニキータ・フルシチョフが秘密裏に訪中し、毛沢東と会談しています。Wilson Centerが公開したソ連側記録の研究からは、共同艦隊や長波無線施設、原子力潜水艦を含む軍事協力をめぐって、主権意識や協力条件への不信が強まっていたことが分かります。

危機が始まるとソ連は中国支持を表明しました。米政府内では、中国への核攻撃が中ソ陣営の報復を招く可能性が深刻に議論されました。しかし「米国が恐れたソ連の核報復」と「ソ連指導部が実際にどの条件で核戦争へ入るつもりだったか」は同じではありません。後に公開された中ソ関係史料は、北京が砲撃決定の詳細をモスクワに十分知らせず、ソ連側が危機の制御不能化を警戒していたことも示しています。同盟の結束と亀裂が同時に存在していました。

実は日本も核危機の当事者だった

厚木・横浜から台湾へ動いた部隊と物資

1958年の危機は、台湾海峡だけで完結した軍事行動ではありませんでした。米軍は日本、沖縄、フィリピン、グアムを結ぶ西太平洋の基地・兵站網を使いました。米空軍秘密戦史によると、海兵隊MAG-11の56機が厚木航空基地(Googleマップ)から台湾へ展開し、8月29日から9月11日までの航空輸送で約500人と205トンの貨物が運ばれました。さらに横浜からの海上輸送で約1,150人と3,900トンの貨物が台湾方面へ送られています。

厚木から戦力を移した穴は、ハワイからMAG-13を厚木へ移して埋めました。日本に置かれた基地は単なる後方施設ではなく、台湾海峡での作戦を支える戦力移動と補給の結節点でした。米空軍戦史は、危機中に日本政府へ日本国内基地の利用状況を知らせ続けたことで、個別に「許可」を求める事態を避けたとも記しています。

核先行使用なら日本の基地を失う――米政府内の警告

9月2日のFRUS文書には、日本が核危機の計算に組み込まれていたことがはっきり記録されています。駐日米大使マッカーサー2世は、米国が外島防衛のため核兵器を先に使用すれば、日本政府が在日米軍の撤退を求める可能性があり、少なくとも日本国内の施設から台湾海峡作戦への兵站支援を止めるよう要求する可能性があると警告しました。米軍側は、日本の基地から作戦出撃できなくても対処可能だが、日本に蓄積された補給物資へのアクセスを失えば深刻だと認識していました。

これは日本の反核世論が外交上の「評判」だけでなく、米軍の作戦継続能力に関わる要素だったことを意味します。広島・長崎の経験を持つ日本で米国が核兵器を先に使えば、岸政権が国内政治上どこまで米軍基地の利用を認められるかが問題になりました。日本の戦時中の原爆研究については、「日本も原爆の研究をしていた?陸軍『ニ号研究』と海軍『F研究』」で一次資料をもとに整理しています。

米国施政下の沖縄は核・航空作戦の前線基地だった

1958年の沖縄は1972年の日本復帰前で、米国の施政下にありました。嘉手納・那覇などの基地は台湾方面への航空作戦を支える重要拠点で、危機時には沖縄からF-86D部隊が台湾へ移動し、米本土から到着したF-101部隊なども沖縄へ展開しました。金門へ送られた8インチ榴弾砲も沖縄からの移送が検討・実施されています。

沖縄には当時、米軍の核戦力が置かれ、西太平洋の核作戦体系に組み込まれていました。中国沿岸への米核攻撃が中ソ側の報復を招けば、沖縄を含む米軍基地が攻撃対象となる可能性も米側の戦争計画では考慮されました。本土と沖縄は同じ危機に結びついていましたが、法的・行政的な位置は異なっていました。

この違いは危機を日本史として見る際に重要です。本土の在日米軍基地では、日本政府と世論の反発が作戦継続の政治的制約として米政府内で意識されました。一方、米国施政下の沖縄は台湾海峡に近い航空・兵站拠点として直接的に運用されました。台湾海峡で核使用が検討された時期、日本本土では基地使用をめぐる同盟政治が、沖縄では米軍の前方展開と核作戦体系が、それぞれ異なる形で危機と結びついていました。

台湾海峡危機と日米安保改定の意外な接点

日本の国会でも金門・馬祖の戦闘、在日米軍基地の使用、日本への報復の可能性が議論されました。岸信介政権は旧日米安全保障条約の改定を求めており、1958年9月8日の米外交文書には、岸信介きしのぶすけ首相と藤山愛一郎ふじやまあいいちろう外相が求める新たな安全保障枠組みの論点として、核兵器の日本への持込みと、日本の基地からの米軍作戦について事前に協議する問題が記録されています。のちの「事前協議」につながる争点です。

西村真彦の研究は、ここに逆説を見いだしています。米政府は台湾海峡で核兵器を使えば日本世論と基地利用に重大な打撃が出ると警戒しました。その一方、第二次危機の最中に岸政権が米国を強く批判せず、基地運用にも協力的だったことは、米国務省が抱いていた「日本は西側陣営の一員として危機時に協力するのか」という懸念を弱め、安保改定交渉へ踏み出す一因になったと論じています。危機は日本の「巻き込まれ」への不安を強めると同時に、日米間で基地使用のルールを作り直す動きも促しました。

なぜ核戦争にならなかったのか――キューバ危機の4年前に何を学んだのか

危機が核戦争へ進まなかった理由は複数あります。米国ではアイゼンハワーが軍の核使用を自動承認せず、通常兵器を先行させる政治判断を維持しました。中国側も米軍との直接衝突や台湾本島への全面侵攻へ進まず、10月には砲撃方法を調整しました。米中ワルシャワ大使級会談という外交経路が再開され、中華民国側に対しても米国が反撃の範囲を抑える統制と説得を続けました。

通常兵器の選択肢があったことも重要でした。米側の後年の評価は、もし米国が核兵器だけに依存していれば、金門を失うか核戦争へ進むかという極端な選択を迫られた可能性を指摘しています。8インチ榴弾砲、上陸・輸送能力、サイドワインダー、艦砲など通常戦力が、外交交渉と政治的圧力を働かせる時間を作りました。

危機主な対立核使用の検討と大統領判断収束
1954~55年 第一次台湾海峡危機中国側と中華民国側、米国。大陸沿岸島嶼が焦点アイゼンハワー政権は核使用を選択肢として検討大陳島撤退、砲撃沈静化、米中対話へ
1958年 第二次台湾海峡危機金門砲戦と補給封鎖をめぐる中国・中華民国・米国沿岸5飛行場への7~10キロトン級案まで議論。大統領は通常兵器先行と核使用の個別承認を維持中国側の砲撃調整、米中会談、米国による中華民国側の抑制
1962年 キューバ危機ソ連のキューバ核ミサイル配備をめぐる米ソ対立米ソ双方の戦略核戦力が直接対峙し、核使用・全面戦争の危険が極度に上昇ソ連ミサイル撤去、米国のキューバ不侵攻表明などで妥結

1962年のキューバ危機は、米ソの戦略核戦力が直接向き合った点で1958年とは性格が異なります。1958年危機の特徴は、金門という小さな前線の補給問題から、米軍の限定核攻撃、中国本土への拡大、ソ連の介入、同盟国日本の基地利用までが一続きのエスカレーションとして政府内で検討されたことにあります。

ハルペリン文書が残した意味もそこにあります。核戦争は、最初から全面核戦争を望む指導者だけが引き起こすものではありません。1958年には、既存の軍事計画、通常戦力の不足感、同盟国防衛の信頼性、局地戦を早く終わらせたい軍事合理性が重なり、核使用案が政策決定の机上へ上がりました。同時に、大統領による承認権、通常戦力、外交経路、同盟国への政治的配慮がエスカレーションを抑える働きをしました。1958年台湾海峡危機は、その両方が同じ意思決定過程に存在した事例として記録されています。

1958年台湾海峡危機・ハルペリン文書のよくある質問

ハルペリン文書とは何ですか?

米国の政治学者モートン・H・ハルペリンが国防総省の依頼で1958年台湾海峡危機の意思決定を調査した研究です。現在RANDが公開する646ページ版のほか、691ページのTop Secret版、63ページのSecret要約版があり、版によってページ数が異なります。

1958年にアメリカは中国への核攻撃を決定したのですか?

決定していません。米軍の作戦計画には核使用が組み込まれ、9月2日には中国沿岸5飛行場へ7~10キロトン級の核兵器を使う具体案まで政府内で説明されました。一方、アイゼンハワー大統領は通常兵器を先に使い、核使用には自らの承認を必要としました。

金門島は台湾本島にあるのですか?

台湾本島にはありません。金門は中国大陸の福建省・厦門の沖にあり、対岸とは最短部で数キロです。1958年の第二次台湾海峡危機では、この金門への大規模砲撃と補給をめぐる攻防が戦闘の中心になりました。

日本の米軍基地は1958年台湾海峡危機に関係しましたか?

関係しました。米空軍戦史では海兵隊MAG-11が厚木から台湾へ展開し、人員・物資も日本から台湾方面へ輸送されています。米政府内では、米国が核兵器を先に使えば日本の反発によって在日米軍基地や兵站支援の利用が難しくなる可能性も議論されました。

第一次台湾海峡危機と1958年の危機は何が違いますか?

第一次危機は1954~55年で、一江山島など大陸沿岸島嶼をめぐる戦闘と米華相互防衛条約の成立が重要でした。第二次危機は1958年で、金門への大規模砲撃と補給封鎖が中心です。どちらでも米国は核使用を検討しましたが、1958年には沿岸飛行場への具体的な核攻撃案まで政府会議で説明されました。

参考資料

米国政府・軍の一次資料

ハルペリン/RAND・National Security Archive

台湾側資料

中国側資料

ソ連・中ソ関係資料

日本の国会・外交資料

学術研究・補助資料