「理研」という名前は聞いたことがあっても、何をしている場所なのかは意外と知られていません。理化学研究所は1917年に創立され、日本の科学研究を100年以上支えてきた総合研究機関です。
その歴史には、研究所から63社・121工場規模の企業群が生まれた時代があり、現在のリコーなどへつながる系譜があります。1937年に始まったサイクロトロン研究は、戦時下の「ニ号研究」と敗戦後の破壊を経ながら、のちの加速器研究、113番元素ニホニウムの発見へ続きました。一つの研究所から、企業群、原爆研究、そして新元素までがどうつながったのでしょうか。
理研は何がすごい?まず全体像
現在の理研は、国立研究開発法人理化学研究所という国の研究機関です。物理、化学、工学、数理・情報、計算科学、生命科学、脳科学、医科学などを横断する、日本を代表する自然科学の総合研究所です。本部は埼玉県和光市にありますが、研究拠点は和光だけではありません。筑波、横浜、神戸、播磨などにも広がっています。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1913 | 高峰譲吉が国民科学研究所の必要性を提唱 |
| 1917 | 財団法人理化学研究所創立 |
| 1921 | 大河内正敏が第3代所長に就任 |
| 1922 | 研究室制度発足 |
| 1927 | 理化学興業設立 |
| 1937 | 仁科芳雄が日本初のサイクロトロンを完成 |
| 1945 | 敗戦後、サイクロトロンが破壊・東京湾へ投棄 |
| 1948 | 財団理研解散、株式会社科学研究所へ |
| 1958 | 特殊法人理化学研究所設立 |
| 1966 | 駒込から和光への移転開始 |
| 2004 | 113番元素の合成成功を発表 |
| 2014 | STAP論文問題と研究不正再発防止改革 |
| 2016 | 113番元素が「ニホニウム(Nh)」と正式決定 |
| 2021 | スーパーコンピュータ「富岳」共用開始 |
1913年、高峰譲吉が「国民科学研究所」を提唱
理研の出発点は1913年です。化学者の高峰譲吉は、欧米で大規模な研究機関が科学と産業を支えている姿を見て、日本にも純粋な理化学研究を継続的に支える研究所が必要だと考えました。同年6月23日、東京・築地精養軒に政官財の関係者が集まり、高峰は「国民科学研究所」設立の必要性を訴えました。
この動きを支えた中心人物の一人が渋沢栄一です。渋沢は企業や銀行の設立だけでなく、教育・福祉・学術振興にも関わり、理研設立運動でも政財界を結びました。渋沢栄一が東京で関わった企業・公共事業をたどると、こうした活動の広がりも分かります。化学者の桜井錠二、池田菊苗、鈴木梅太郎らも構想に加わりました。
1914年に第一次世界大戦が始まると、欧州から輸入していた医薬品や化学工業原料の調達が難しくなりました。日本の産業を海外製品だけに頼らず支えるには、基礎研究から技術を育てる力が必要でした。科学者の理想に、産業の自立という切迫した課題が重なり、研究所設立への動きが加速します。
1917年、駒込に理化学研究所が誕生
1917年3月20日、財団法人理化学研究所が創立されました。皇室からの御下賜金、政府補助金、民間寄付を基に、東京・文京区駒込に研究所が置かれました。渋沢栄一は設立者総代として申請を行い、伏見宮貞愛親王が総裁に就きました。

初代所長は菊池大麓、第2代所長は古市公威でした。創立直後は所長交代が続き、安定した研究体制が整うまでには時間を要しました。「理化学」という名称には、物理と化学を一つの研究所で扱うという発想がそのまま表れています。
大河内正敏がつくった「科学者の自由な楽園」
転機は1921年です。大河内正敏が第3代所長に就任し、翌1922年に研究室制度を発足させました。主任研究員に研究テーマ、予算、人事など大きな裁量を与え、研究室を駒込だけでなく帝国大学にも置ける仕組みでした。

研究者が自ら課題を選び、必要な人材を集め、研究を進める。この仕組みは後に朝永振一郎が理研を「科学者の自由な楽園」と表現する背景になりました。自由放任というより、優れた研究者に裁量を集中させる制度設計でした。ただし、自由な基礎研究には継続的な資金が要ります。その問題を大河内は研究成果の事業化と結び付けました。
研究所が巨大企業群をつくった「理研コンツェルン」
創立後の理研は財政難にも直面しました。大河内が育てたのは、研究成果を製品として社会に出し、その収益を研究へ戻す循環です。1922年には高橋克己がタラの肝油からビタミンAを分離抽出し、1923年に理研は日本で初めてビタミンAを販売しました。事業化された研究成果が研究所の財政を支える代表例となります。
1927年には理化学興業株式会社を設立しました。理研の発明を自ら製品化する事業体で、アルマイト、陽画感光紙、ピストンリングなどを工業化し、各地に生産会社を広げます。株式会社の仕組みそのものを押さえると、研究成果を企業活動へ移す方法も理解しやすくなります。
こうした企業群は理研産業団、一般には「理研コンツェルン」と呼ばれ、1939年頃には最大で63社・121工場に達しました。現在のリコー、リケン、理研ビタミン、理研計器などには、この企業群から続く歴史的な系譜があります。現在の各社は現在の理化学研究所の一部や子会社という意味ではなく、それぞれ独立した企業です。
リコーはその流れを具体的に追える会社です。理化学興業の感光紙事業を継承し、1936年に理研感光紙株式会社として創業しました。基礎研究の成果が製品になり、企業となり、研究資金を生む。戦前の理研では、自由な研究と産業化が一つの仕組みの中で結び付いていました。
仁科芳雄とサイクロトロン、日本の原子核物理が始まる
仁科芳雄は欧州で量子力学や原子物理学を学び、帰国後に理研で原子核研究を進めました。1937年、理研に日本初のサイクロトロンが完成します。
サイクロトロンは、電気を帯びた粒子を磁場の中で繰り返し加速し、高いエネルギーで原子核へ衝突させる装置です。原子核の構造や反応を調べるための研究装置で、当時の日本では最先端の設備でした。1943年には、さらに大型の第2号サイクロトロンが完成しました。

敗戦後、加速器研究は設備を失ったところから再建されました。1952年に小型サイクロトロンが再建され、和光への移転期には160cmサイクロトロンが建設されて1966年に初ビームを取り出しました。1980年には重イオン線形加速器RILAC、1986年には理研リングサイクロトロン(RRC)が稼働し、より多様で重い原子核を扱えるようになります。
1995年に始まったRIビームファクトリー(RIBF)計画では、複数の加速器を組み合わせて不安定な原子核を大量に作り、その性質を調べる研究基盤が築かれました。2006年には超伝導リングサイクロトロン(SRC)が初ビームを出し、翌2007年から本格的な実験が進みます。1937年の第1号サイクロトロンから、戦後の再建、重イオン加速器、RIBFへと装置と技術が積み重なり、その系譜の中で113番元素ニホニウムの探索も進みました。
戦時下の「ニ号研究」と敗戦
第二次世界大戦中、理研では仁科芳雄を中心に、陸軍から委託されたウランに関する「ニ号研究」が進められました。名称の「ニ」は仁科の頭文字に由来します。研究では原子爆弾の可能性が検討され、ウラン235を分離するための濃縮研究などが行われました。
日本側の原爆研究には陸軍のニ号研究と海軍側のF研究があり、組織や規模、進展の度合いも異なります。詳しい経緯は日本の原爆研究「ニ号研究」「F研究」で整理しています。同時期の米国では、国家規模のマンハッタン計画が巨大な秘密都市と工場を動員して進みました。マンハッタン計画の3つの秘密都市と比べると、開発体制の規模の差も見えてきます。
敗戦後の1945年、理研のサイクロトロンはGHQによって破壊され、東京湾へ投棄されました。理研の公式沿革は、米国科学界からこの破壊に強い批判が出たことも記録しています。サイクロトロンは原子核研究のための装置で、原爆そのものを製造する機械ではありませんでした。
財団理研の解体と戦後の再出発
戦後は研究設備だけでなく、組織そのものが大きく変わりました。1947年、過度経済力集中排除によって理研産業団は解体へ向かい、1948年には財団法人理化学研究所が解散しました。同年、研究部門を担う株式会社科学研究所が設立され、仁科芳雄が初代社長となりました。
その後、研究部門と生産部門の分離など複数の再編を経て、1958年に特殊法人理化学研究所が設立されます。現在へ続く公的研究機関としての理研は、この特殊法人化によって制度上の新しい出発点を迎えました。戦前の財団、企業群、戦後の株式会社、特殊法人という断絶と再編を通じて、研究者と研究資産の系譜が引き継がれていきます。
駒込から和光へ、全国型の総合研究所へ
1966年、理研は駒込から埼玉県和光市の大和研究所への移転を始め、1967年に大和研究所が開所しました。1980年代以降は研究分野と拠点がさらに広がり、筑波、横浜、神戸、播磨などへ全国型の研究体制を形成します。
1997年には播磨で大型放射光施設SPring-8の供用が始まり、2000年に横浜研究所、2002年に神戸研究所が発足しました。計算科学ではスーパーコンピュータ「京」に続き、「富岳」が2021年に共用を開始しました。富岳がある計算科学研究センターは神戸地区です。
2014年のSTAP論文問題と改革
2014年にはSTAP細胞をめぐる論文に疑義が生じ、理研の調査委員会が研究不正を認定しました。科学的な検証でもSTAP現象の確認には至らず、論文は取り下げられました。理研は研究不正再発防止の改革委員会を設け、組織と研究倫理の改革を進めました。現代理研の歴史を考えるうえで、研究の信頼性を組織として見直した重要な転換点です。
制度面では2015年に国立研究開発法人へ移行し、2016年には特定国立研究開発法人となりました。研究分野と拠点を拡大しながら、組織の統治や研究倫理も時代に合わせて再設計されてきました。
113番元素「ニホニウム」を発見
理研の原子核研究史を象徴する成果が113番元素「ニホニウム」です。仁科加速器研究センターの森田浩介らは2003年から新元素合成に挑み、2004年7月に113番元素を初めて合成しました。2005年、2012年にも合成に成功し、崩壊の過程を追うデータを積み重ねました。
新元素の合成では、加速器で原子核を高速まで加速し、別の原子核へ衝突させます。ごくまれに二つが融合して未知の重い原子核が生まれ、その崩壊の仕方から元素を特定します。理研の研究は、わずかな原子を確実に捉える長期戦でした。
2015年12月31日、国際純正・応用化学連合(IUPAC)は理研グループによる113番元素の発見を認定し、命名権を与えました。2016年11月30日、名称は「nihonium(ニホニウム)」、元素記号は「Nh」と正式決定しました。理研は、日本発の元素名が周期表に加わり、欧米諸国以外の研究グループに新元素の命名権が与えられた初の例と説明しています。

和光駅から理研和光地区へ向かう「ニホニウム通り」には、113番元素を記念するモニュメントがあります。1937年の仁科芳雄による日本初のサイクロトロンから約80年。戦争と設備破壊を挟みながら続いた加速器・原子核研究が、ニホニウムという新元素へ結実しました。
現在の理研は何を研究している?
現在の理研は、物理・化学から生命科学、脳科学、量子、AI・計算科学、光科学、加速器科学まで幅広い研究を進めています。和光地区の仁科加速器科学研究センターでは加速器を使って原子核や新元素を研究し、脳神経科学研究センターでは脳の働きと神経回路を調べています。量子コンピュータ研究センターでは、量子力学の性質を計算に利用する新しいコンピュータの研究開発が進められています。

神戸地区には計算科学研究センターとスーパーコンピュータ「富岳」があり、播磨地区には放射光科学研究センターとSPring-8があります。筑波ではバイオリソース、横浜では生命医科学や環境資源科学などの研究が進みます。1917年に物理と化学を横断する総合研究所として始まった構想は、扱う分野を大きく広げながら現在まで続いています。
理研の歴史でよくある疑問
理研は何をするところ?
理研は、物理、化学、生命科学、脳科学、計算科学、量子科学などを研究する国立研究開発法人です。特定の一分野に限らず、基礎科学から大型研究施設を使う研究まで幅広く扱う総合研究機関で、本部は埼玉県和光市にあります。
理研はなぜ作られた?
1913年に高峰譲吉が大規模な科学研究所の必要性を訴え、渋沢栄一や桜井錠二らが設立運動を進めました。第一次世界大戦による輸入制約で、日本自身が科学研究と化学工業の基盤を持つ必要性も高まり、1917年に財団法人理化学研究所が創立されました。
理研コンツェルンとは?
理研の研究成果を工業化するために生まれた企業群です。1927年設立の理化学興業を軸に事業が広がり、1939年頃には63社・121工場規模に達しました。研究成果を製品化し、その収益を研究へ戻す仕組みが発展したもので、戦後は解体されました。
理研とリコーはどんな関係?
リコーは戦前の理研産業団に歴史的な源流を持つ企業です。理化学興業の感光紙事業を継承し、1936年に理研感光紙株式会社として創業しました。現在のリコーと現在の理化学研究所は、それぞれ独立した組織です。
ニホニウムは理研が発見した?
理研の森田浩介らの研究グループが113番元素を2004年、2005年、2012年に合成し、2015年に国際機関から発見者として認定されました。2016年に「ニホニウム」、元素記号「Nh」が正式決定しました。理研の加速器研究は、1937年の日本初のサイクロトロンから戦後の再建と大型化を経て、この新元素研究へつながっています。
一般公開なら、現在の理研を実際に見られる
和光地区では一般公開が行われています。2026年は11月3日(火・祝)の10:00~16:00(最終受付15:30)に開催予定で、定員は4,500名の先着順、参加費は無料です。来場には事前申し込みが必要で、中学生・高校生の先行受付は9月18日(金)10:00から、一般受付は9月30日(水)10:00から始まります。
会場は埼玉県和光市広沢2-1の理化学研究所和光地区です。研究室・施設の一部公開、研究展示、講演などが予定され、無料シャトルバスの運行はありません。詳細プログラムは公式発表に合わせて順次公開されます。
1913年の研究所構想から、駒込、理研コンツェルン、サイクロトロン、戦後再編、和光、ニホニウムへ続いた歴史。その現在地を、一般公開では実際の研究施設の中で見ることができます。

