御茶ノ水駅の周辺には、性格の異なる二つの「聖堂」があります。南側の神田駿河台に建つのは、緑青色のドームが印象的な東京復活大聖堂、通称ニコライ堂。神田川を挟んだ北側には、江戸幕府の学問と深く関わった湯島聖堂があります。
この二つを結んでいるのが、JR御茶ノ水駅の東側に架かる聖橋(ひじりばし)です。「聖橋」という名前は、ニコライ堂と湯島聖堂という二つの聖堂を結ぶことに由来します。
この記事では、2023年3月にゆる歴史散歩会で歩いたテーマをもとに、御茶ノ水駅からニコライ堂、聖橋、湯島聖堂を巡る歴史散歩コースを紹介します。移動距離は短いものの、江戸の儒学、明治のキリスト教建築、関東大震災後の復興を一度にたどれる、初心者にもおすすめの街歩きです。
御茶ノ水の二つの聖堂を巡る散歩コース
| スタート | JR御茶ノ水駅 聖橋口 |
|---|---|
| 主な順路 | ニコライ堂 → 聖橋 → 湯島聖堂 |
| 所要時間の目安 | 見学を含めて約60~90分 |
| 楽しめるテーマ | 近代建築、江戸の学問、震災復興、神田川の地形 |
| おすすめの人 | 歴史初心者、建築好き、一人散歩、短時間の東京観光 |
駅から各スポットまでの距離は近いですが、「なぜこの場所に二つの聖堂があり、なぜ一本の橋で結ばれたのか」を意識しながら歩くと、御茶ノ水の街の成り立ちが立体的に見えてきます。
御茶ノ水という地名と神田川の谷
散歩を始める前に、御茶ノ水という地名にも注目してみましょう。千代田区の資料では、江戸時代に神田台を開削した後、この付近から将軍へ茶の水を献上したという逸話や、現在の外堀通りが「御茶之水通り」と呼ばれていたことが、地名の由来として紹介されています。
JR御茶ノ水駅のホームから見える深い谷は、自然の渓谷だけでできたものではありません。江戸時代の神田川開削によって形づくられた都市の谷で、現在はその中を神田川、JR中央線・総武線、東京メトロ丸ノ内線が通っています。高台に建つニコライ堂と湯島聖堂、谷をまたぐ聖橋という位置関係を確認すると、この散歩コースの面白さがより分かりやすくなります。
ニコライ堂|御茶ノ水を代表する近代建築
御茶ノ水駅の聖橋口から神田駿河台へ向かうと、大きなドームを持つニコライ堂が見えてきます。文化財としての名称は「日本ハリストス正教会教団 復活大聖堂(ニコライ堂)」で、教会では「東京復活大聖堂」と案内されています。

「ニコライ堂」という呼び名は、日本に正教を伝えた亜使徒聖ニコライに由来します。聖ニコライは1861年6月に函館へ来日し、日本語や日本文化を学びながら伝道を始めました。1872年1月に函館を出て東京へ移り、同年9月、神田駿河台にあった定火消の役宅跡地を購入して伝道の拠点「正教本会」を設置しました。
現在の大聖堂は1884年に着工し、1891年に竣工しました。同年3月8日、イエス・キリストの復活を記憶する「復活大聖堂」として成聖されています。原設計はロシア人建築家ミハイル・シチュールポフ、実施設計は日本の近代建築に大きな影響を与えたジョサイア・コンドルによるものです。ただし、原設計図は確認されておらず、実施設計図も断片しか残っていないため、両者の間でどの程度設計が変更されたかは分かっていません。
文化庁の国指定文化財等データベースでは、建物は煉瓦造および石造で、ロシア・ビザンチン風の様式と説明されています。1962年6月21日に国の重要文化財へ指定されました。現在の東京に残る明治期の宗教建築として、建築史の上でも重要な存在です。

関東大震災から復興したニコライ堂
1923年の関東大震災では、木造の鐘楼部分が倒壊し、上部ドームも崩落しました。建物全体が火災に見舞われ、土台と煉瓦壁を残す大きな被害を受けています。
復興工事は1927年9月に始まり、1929年11月に完了しました。同年12月には復興後の成聖式が行われています。復興設計を担当したのは、歌舞伎座などでも知られる建築家岡田信一郎です。この復興によってドームや鐘楼の姿は創建時から変化しましたが、文化庁は窓枠を除く壁体が当初の姿を残している点に価値を認めています。
さらに1992年から大規模な補修が進められ、1998年に完了しました。ニコライ堂は、明治の創建、震災復興、平成の文化財修復という複数の時代が重なった建築なのです。
ニコライ堂は「ロシア正教会」なのか
聖ニコライがロシア出身であることから、ニコライ堂を単純に「ロシア正教会の聖堂」と考える人も少なくありません。しかし、ここは日本ハリストス正教会の大聖堂です。1970年に日本正教会がロシア正教会・モスクワ総主教庁から自治正教会として承認され、東京復活大聖堂は日本正教会の首座主教座教会となりました。
現在も礼拝が行われる祈りの場です。見学時間、拝観献金、行事による変更、聖堂内でのマナーは、訪問前に東京復活大聖堂の公式サイトで確認してください。
聖橋の名前の由来|二つの聖堂を結ぶ震災復興橋
ニコライ堂から本郷通りを北へ進むと、神田川の上に聖橋が架かっています。読み方は「せいばし」ではなく、ひじりばしです。
聖橋は、1923年の関東大震災後に進められた震災復興事業の一環として、1927年に完成しました。設計者は建築家の山田守と土木技術者の成瀬勝武です。山田守は、のちに日本武道館や京都タワーなども手がけました。
橋の名前は一般からの懸賞募集によって選ばれました。千代田区の資料には、北の湯島聖堂と南のニコライ聖堂という二つの聖堂を結ぶ橋として「聖橋」と命名されたことが明記されています。
ここで興味深いのは、二つの聖堂が同じ宗教施設ではないことです。ニコライ堂はキリスト教・正教会の大聖堂。一方の湯島聖堂は孔子を祀り、儒学と幕府教育の中心になった場所です。宗教も成立した時代も異なる二つの建物が、昭和初期の震災復興橋によって結ばれています。
聖橋は形にも注目
聖橋は大きなアーチが神田川をまたぎ、その脇に外堀通りや中央線の線路を越える小アーチが付く立体的な構成です。全長は約90メートルで、千代田区の資料では神田川に架かる橋梁のうち最も長いとされています。
表現派風の塑形的な意匠と、親柱・高欄を一体化したモダンなデザインも特徴です。千代田区の資料では、水面やJR線、駅などからアーチが景観に映える橋として評価されています。御茶ノ水駅のホームからは、大アーチの形を分かりやすい角度で見ることができます。2016年から長寿命化工事が行われ、2017年に完成しました。
橋の上からは、神田川、JR中央線・総武線、東京メトロ丸ノ内線が重なる御茶ノ水らしい景観を楽しめます。鉄道、地形、橋梁、歴史建築が一つの視界に入ることが、この場所を歩く大きな魅力です。
湯島聖堂|江戸幕府の学問と教育の中心
聖橋を渡ると、黒を基調とした建物と緑に囲まれた湯島聖堂があります。交通量の多い本郷通りのすぐ近くですが、門をくぐると街の音が少し遠のき、落ち着いた雰囲気に変わります。

写真は大成殿前の杏壇門です。私たちが訪れた2023年3月には、第24回筑波大学彫塑展が開催されていました。筑波大学の芸術専門学群と大学院で彫塑を学ぶ学生の作品が並び、歴史的な建築空間と現代彫刻を一緒に鑑賞できる、開催当時ならではの風景でした。この展示は常設ではありません。

湯島聖堂の起源は、儒学者林羅山が上野忍岡の邸内に設けた孔子廟と家塾にあります。五代将軍徳川綱吉は1690年、孔子の聖像と四賢像を湯島へ移し、孔子廟を「大成殿」と改称して規模を拡大しました。

境内の孔子像は、ここが儒学と教育の歴史を伝える場所であることを実感できる見どころです。実際に像を前にして解説を聞くことで、湯島聖堂が単なる古建築ではなく、孔子を祀る廟として始まったことが理解しやすくなります。
1797年には、林家の塾から切り離す形で幕府直轄の昌平坂学問所(昌平黌)が開設されます。幕臣の教育を中心に、諸藩の藩士も学び、幕府における文教の中心的な役割を担いました。「昌平」という名称は、孔子の生地とされる中国・曲阜の昌平郷にちなむものです。
近代教育へつながった湯島聖堂
明治維新後、昌平坂学問所跡には大学校や文部省が置かれました。1872年には湯島聖堂内に師範学校が開校し、その流れは現在の筑波大学へ受け継がれています。
女子教育については、1874年3月に女子師範学校設立の布達が出され、1875年11月29日に東京女子師範学校の開校式が行われました。これがお茶の水女子大学の前身です。江戸幕府の官学の中心だった場所が、明治国家の教員養成と女子教育の拠点へ引き継がれたのです。
このため湯島聖堂一帯は「近代教育発祥の地」として紹介されています。現在の御茶ノ水周辺に大学や学校、医療機関が集まる背景を考えるうえでも、昌平坂学問所から近代教育機関へ続く歴史は欠かせません。

境内には由来や顕彰を伝える記念碑もあります。建物や像だけでなく碑文にも目を向けると、後世の人々が湯島聖堂をどのように守り、意味づけてきたのかを知る手がかりになります。
東京国立博物館の歴史もここから始まった
1872年3月10日、湯島聖堂大成殿では文部省博物局による博覧会が開かれました。東京国立博物館は、この博覧会を創立・開館の出発点としています。
東京国立博物館の資料によると、会場には美術品や古器旧物、動物の剥製や骨格標本など600件を超える品が並びました。名古屋城の金鯱も展示され、大きな話題になったといいます。観覧者が多かったため会期は延長され、総入場者数は約15万人に達しました。湯島聖堂は儒学と学校教育だけでなく、日本の博物館史にとっても重要な場所です。
震災後に再建された現在の大成殿

湯島聖堂は1922年に国の史跡へ指定されましたが、翌1923年の関東大震災で大きな被害を受けました。現在の大成殿は、公益財団法人斯文会を中心とする復興事業により、1935年に再建されたものです。
設計は建築家・建築史家の伊東忠太、施工は大林組が担当しました。寛政期の旧制を模しながら、耐震・耐火性を考慮した鉄筋コンクリート造で造られています。黒い外観は古建築のように見えますが、実際には昭和初期の震災復興建築です。
境内では、宝永元年(1704)に再建された入徳門にも注目してください。斯文会の略年表では、このとき復旧された入徳門が現在も残るとされています。文京区の散歩資料でも、湯島聖堂で最も古く、現存する唯一の木造建造物として紹介されています。江戸時代の門と昭和の再建建築を一度に比較できるのも、現地を歩く面白さです。
公開時間や大成殿内部の公開日は変更される場合があります。訪問前に史跡湯島聖堂の公式サイトをご確認ください。
ニコライ堂と湯島聖堂の違い
| ニコライ堂 | 湯島聖堂 | |
|---|---|---|
| 主な役割 | 日本正教会の大聖堂 | 孔子廟、幕府教育の中心 |
| 成立した時代 | 明治時代 | 江戸時代 |
| 建築の印象 | ドームを持つロシア・ビザンチン風建築 | 黒を基調とした中国風の意匠 |
| 関連するテーマ | 正教、近代建築、明治の国際交流 | 儒学、昌平坂学問所、近代教育、博物館史 |
| 共通点 | 関東大震災で被災し、その後に復興された | |
二つの聖堂を別々に見るだけでも楽しめますが、聖橋を間に置いて比較すると、江戸から明治、そして震災復興へと続く東京の歴史が一本の散歩コースとしてつながります。
散歩中に注目したい三つの視点
1.建物だけでなく地形を見る
ニコライ堂と湯島聖堂はどちらも高台にあり、その間を神田川の谷が分けています。聖橋の上から川や線路を見下ろし、坂道を歩くと、都市の高低差を体感できます。
2.創建時と復興後を見分ける
ニコライ堂、聖橋、湯島聖堂はいずれも関東大震災後の復興と深く関わっています。「古そうに見えるから、すべて江戸・明治のまま」と考えず、どの部分が創建時から残り、どの部分が昭和に再建されたのかを意識すると、建築の見方が深まります。
3.神田明神まで足を延ばす
湯島聖堂から神田明神までは近く、散歩を延長するのに向いています。正教会、儒学、江戸の神社を続けて巡ることで、この地域に異なる信仰と学問の場が集まっていることを実感できます。
まとめ|二つの聖堂を結ぶ御茶ノ水の歴史散歩
御茶ノ水のニコライ堂と湯島聖堂は、宗教も時代も建築様式も異なります。その二つを結ぶ聖橋は、関東大震災後の復興の中で誕生し、「二つの聖堂を結ぶ橋」という分かりやすく印象的な名前を与えられました。
駅の近くを短時間歩くだけでも、江戸幕府の学問、明治の国際交流、近代建築、博物館の始まり、震災復興、鉄道と神田川の景観をまとめて楽しめます。現地で建物の大きさや高低差を体感すると、地図や写真だけでは分からない東京の歴史が見えてきます。
ゆる歴史散歩会では、東京周辺の歴史スポットや文化施設を、初心者にも分かりやすく巡る街歩きイベントを開催しています。一人参加の方も多く、歴史に詳しくない方でも気軽に参加しやすい雰囲気です。
参考資料
- 東京復活大聖堂(ニコライ堂)「沿革」
- 日本ハリストス正教会「函館ハリストス正教会」
- 文化庁・国指定文化財等データベース「復活大聖堂(ニコライ堂)」
- 千代田区「千代田区景観まちづくり重要物件 聖橋」
- 千代田区「千代田区景観まちづくり重要物件 お茶の水橋」
- 公益財団法人斯文会「湯島聖堂略年表」
- 公益財団法人斯文会「史跡湯島聖堂」
- 文京区「学問の聖地湯島コース」
- 東京国立博物館「湯島聖堂博覧会」
- お茶の水女子大学「大学沿革」
- 筑波大学考古学研究室「研究室の沿革」
- 筑波大学芸術系「第24回筑波大学彫塑展」
歴史情報は上記の公式資料を中心に照合しました。人物名のリンクは、経歴を補足できるWikipedia日本語版へ接続しています。
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御茶ノ水周辺には、今回紹介した場所のほかにも歴史スポットがたくさんあります。街歩きWebアプリTimeWalkを使うと、現在地の近くにある史跡や神社仏閣、記念碑などを簡単に見つけることができます。散歩の途中や、イベント前後の寄り道にもご活用ください。

