六本木通りから脇道へ入ると、六本木2〜4丁目には急な坂と高低差が続きます。六本木グランドタワーのような超高層ビルが立つ一方、坂の名や公園には住居表示以前の町名が残り、谷の底と台地の縁には江戸以来の土地利用の痕跡が重なっています。
六本木1〜7丁目の歴史を4つの地域に分けてたどるシリーズの第1回です。今回は2〜4丁目に絞り、武家屋敷、坂、崖崩れ、三井家の邸宅、戦後の区画整理、21世紀の再開発まで、同じ土地がどう使い直されてきたのかを追います。
六本木2〜4丁目は「台地と谷」の街
現在の「六本木」が成立したのは、1967年7月1日の住居表示です。それ以前の2〜4丁目周辺には、麻布市兵衛町、麻布箪笥町、麻布谷町、麻布今井町、麻布仲ノ町、麻布三河台町などがありました。
旧町名の配置は地形と深く関わっていました。市兵衛町は台地上にあり、谷町は市兵衛町と今井町の台地にはさまれた谷に由来します。台地上には広い武家屋敷が置かれ、その縁や谷筋には町人地や寺社地が入り込みました。現在の2〜4丁目を歩いたときに感じる起伏は、江戸の町割りを考える手がかりでもあります。
住居表示で町名は「六本木」に統合されましたが、「谷箪町会」「麻布市兵衛町町会」「今井町親睦会」といった名称には、旧町名の記憶が残っています。地名が変わった後も、地域の呼称は土地の履歴を伝え続けています。
江戸時代―武家屋敷と旧町が入り組んだ2〜4丁目
江戸時代の現在の六本木2〜4丁目一帯には、大名や旗本の屋敷が広がっていました。港区デジタル版『港区史』によると、延宝年間以前には、現在の六本木2〜4丁目に三次藩浅野家の上屋敷がありました。
元禄14年(1701)、江戸城松之大廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介に刃傷に及んだ後、長矩の妻・瑤泉院は実家である三次浅野家の屋敷へ移りました。三次藩は享保5年(1720)に廃藩となり、屋敷も引き払われます。三次浅野家の屋敷が置かれた2〜4丁目一帯は、江戸の大きな武家地の一角でした。

嘉永4年(1851)の「麻布絵図」には、武家屋敷、寺社、町地が複雑に接していた様子が描かれています。広い屋敷地と細かな町地が隣り合う江戸の土地利用を確認できる史料です。
坂名に残る旧町名と武家地
六本木2〜4丁目の坂は、江戸以来の地形や武家地、旧町名の記憶を現在へつないでいます。ただし、道路として開かれた時期は坂ごとに異なります。
市三坂は、旧市兵衛町の「市」と旧三河台町の「三」を合わせた名です。港区によると、坂が開かれたのは明治20年代。現在の町名から消えた二つの地名が、一つの坂名の中に残りました。
丹波谷坂は、元和年間に旗本・岡部丹波守の屋敷があり、坂下の谷が丹波谷と呼ばれたことに由来します。道路として開かれたのは明治初年です。江戸の屋敷地に由来する谷の名を、明治に開かれた坂が引き継いだ例です。
寄席坂は、坂の途中にあった寄席「福井亭」から名付けられました。福井亭は明治期から大正3年(1914)まであり、義太夫などを聞かせる寄席として地域の記憶に残りました。
なだれ坂は「流垂」「奈太礼」「長垂」などとも書かれました。港区は名称について「土崩れがあったためか」と紹介しています。坂名そのものが、この一帯の急な地形を想起させます。

1728年の崖崩れ―地形は災害にもなった
享保13年(1728)の大雨では、麻布や赤坂などで崖崩れが相次ぎました。麻布谷町の信濃松代藩真田家屋敷、現在の六本木3丁目周辺でも崖が約40間、現在の長さで約70メートルにわたって崩れ、下の町屋約16軒が潰れました。
港区史は、こうした災害の背景として、台地の縁や水の流路が都市の開発によって人為的に改変されていたことにも触れています。急な台地縁辺を利用して屋敷地と町地を配置した江戸の土地利用は、大雨の際には崖下の町へ被害を及ぼす条件にもなりました。
この地域では、約210年後の1938年にも大きな崖崩れが起きます。さらに21世紀の六本木三丁目東地区再開発でも、高低差の大きな地形が従前の課題として挙げられました。時代ごとに対策や都市の構造は変わっても、台地と谷の段差は街づくりの前提であり続けています。
明治から昭和初期―麻布区役所、三河台、志賀直哉
明治以降、武家屋敷の土地は官公庁、学校、邸宅、住宅地などへ転用されました。現在の六本木3丁目には麻布区役所が置かれ、明治42年(1909)に木造庁舎が完成しました。区役所は1935年に六本木5丁目側へ移転し、旧庁舎は日本獣医生命科学大学が購入。1937年に武蔵野へ移築され、改変を受けながら現在も同大学の本館として残っています。
六本木3丁目に建っていた区役所が、建物そのものを移して武蔵野市に残ったことは、土地と建築の履歴が別々の場所に引き継がれた例です。六本木側では庁舎が姿を消しても、建物は別の用途を得て生き残りました。
六本木4丁目には、旧町名「三河台」の名を残す三河台公園があります。所在地は六本木4丁目2番27号で、1932年7月に開園し、1988年3月に全面改修されました。住居表示で麻布三河台町の名が消えた後も、公園名が地域名を伝えています。
作家の志賀直哉も三河台の土地史に関わる人物です。現在の六本木4丁目3番13号付近にあった邸宅で、14歳から29歳まで青年期を過ごしました。敷地は約1,682坪。現在の細分化された街区からは想像しにくい規模の邸宅が、明治期の三河台には存在していました。

六本木2丁目にあった三井今井町本邸
現在の米国大使館職員宿舎周辺には、戦前、三井総領家10代目・三井八郎右衛門高棟の今井町本邸がありました。港区『The Azabu』No.66によると、本邸は1908年に完成し、敷地は13,500坪。周辺の役宅などを含めると約16,000坪に及びました。
敷地には主要建物14棟をはじめ、茶室や倉庫など多数の建物が置かれていました。16,000坪は約5万3,000平方メートルに相当し、一つの住宅というより、複数の建物と庭園、役宅をまとめた大きな邸宅群として考える方が実態に近い規模です。
江戸の広い武家地が明治以降に大規模な邸宅へ転じた六本木では、台地上のまとまった土地が近代の資産家の邸宅にも利用されました。今井町本邸は、その変化を象徴する場所の一つです。
1938年6月30日―三井邸下の崖が崩れた
1938年6月30日、数日続いた雨の後、三井邸側の崖が崩れました。現在の米国大使館職員宿舎側から久國神社周辺の低地へ落ち込む斜面で起きた災害です。
港区の地域情報紙『The Azabu』No.47に掲載された、当時4歳だった住民の証言では、崖の高さは約25メートルで、28戸の民家をのみ込み、約50人が生き埋めになったとされています。同じ証言の中で「23名が亡くなりました」と語られています。23人という死者数は、この住民証言に基づく数字として伝えられているものです。
1728年と1938年の崖崩れは場所や条件が異なりますが、どちらも台地の縁とその下の居住地が接する六本木の地形で起きました。大邸宅が載る高台と、その直下の低地という土地の使われ方が、災害時には大きな落差として現れました。
戦後、三井邸跡は米国大使館職員宿舎へ
三井今井町本邸の主要建物は、1945年5月の空襲で焼失しました。戦後、この土地の所有と用途は大きく変わります。
米国会計検査院(GAO)の一次資料によると、米国国務省は1950年、旧三井家の約12エーカーの土地を約12万2,000ドルで購入し、1952年に宿舎として開発しました。1980年代初頭には大規模な再整備が行われ、1994年時点で住宅173戸を備えていました。
現在の米国大使館職員宿舎を説明するとき、戦後の経緯の軸になるのは1950年の土地購入と1952年の宿舎整備です。戦前の三井家大邸宅だった台地は、戦後には米国政府の職員住宅へと用途を変えました。
同じ戦後の六本木では、米軍施設や外国人向け店舗などを背景に国際色の強い街へ変わっていきます。その近現代史は、別記事「六本木が国際的な夜の街になった歴史」で詳しくたどっています。
焼け跡から街路を作り直す―麻布第一復興土地区画整理
戦災後の六本木では、建物を建て直すだけでなく、道路と街区そのものを組み替える土地区画整理が進みました。麻布第一復興土地区画整理組合は1947年6月9日に設立認可を受け、麻布六本木町と三河台町の45,350坪を対象に事業を始めました。港区史は、組合施行の区画整理として東京都内第一号の組合だったと紹介しています。
組合が描いたのは、「文化住宅街」「病院街」「高級商店街」などを備える近代都市のモデルでした。当初は東京都の道路計画に沿って50メートル、25メートルの道路を設ける計画でしたが、ドッジ・ラインに伴う戦災復興計画の縮小で、六本木通りにあたる放射第22号の計画幅は50メートルから40メートルへ縮小されました。
換地に伴って最終的に193棟の建物が移転し、組合は1955年9月に解散しました。港区史に掲載された整理後の写真では、現在につながる街区がこの時期に生まれたことが確認できます。江戸から続いた土地の境界に、戦後復興の道路と区画が重ねられたのです。
六本木交差点には1954年、区画整理の記念として「奏でる乙女」が設置されました。初代はセメント製で、1975年に彫刻家・本郷新によるブロンズ像として再建されています。港区はこの像を平和と戦後復興のシンボルとして紹介しています。
六本木3丁目で二つの再開発が進んだ
21世紀の六本木3丁目では、近接する二つの市街地再開発が別々に進みました。一つはTHE ROPPONGI TOKYOを中心とする「六本木三丁目地区」、もう一つは六本木グランドタワーを中心とする「六本木三丁目東地区」です。
| 項目 | 六本木三丁目地区 | 六本木三丁目東地区 |
|---|---|---|
| 区域面積 | 約0.9ha | 約2.7ha |
| 都市計画決定 | 2006年3月 | 2011年9月 |
| 建築工事着工 | 2008年12月 | 2013年6月 |
| 建築工事完了 | 2011年11月 | 2016年10月 |
| 主な建物 | 地上39階・高さ約145m | 南街区の業務棟 地上40階、住宅棟 地上27階など |
| 延べ面積 | 約64,100㎡ | 約210,490㎡ |
| 住宅戸数 | 約611戸 | 226戸 |
| 総事業費 | 約408億円 | 約1,267億円 |
六本木三丁目東地区では、住友不動産が2005年に旧日本IBM本社、2006年に旧六本木プリンスホテルを取得し、地権者・参加組合員として事業に関わりました。港区の事後評価などでは、再開発前の課題として「高低差の著しい立地特性」が挙げられています。
再開発では、その高低差を消すのではなく、南北の街区構成や駅への動線、広場、地下通路などの整備に組み込みました。江戸の町割りや崖崩れとは制度も技術もまったく異なりますが、台地と谷の段差にどう対応するかという条件は、現代の大規模開発にも受け継がれています。

坂と超高層ビルが重なる現在の六本木
六本木グランドタワーからなだれ坂、丹波谷坂、市三坂、三河台公園、米国大使館職員宿舎周辺までは、いずれも徒歩でたどれる範囲にあります。そこには江戸の台地と谷、明治に開かれた坂、戦後に組み直された街路、21世紀の超高層再開発が重なっています。
現在の建物だけを見れば街は大きく変わっています。それでも坂を上り下りすると、高台に大きな屋敷が置かれ、谷に町が延び、崖が災害を起こし、道路や再開発が高低差への対応を迫られてきた土地の形を体で確かめられます。六本木2〜4丁目の約400年は、その地形の上に用途を重ね直してきた歴史です。
参考文献
- 港区「地名の歴史(麻布地区)」
- 港区「麻布地区の旧町名由来一覧」
- 港区「港区町名旧新対照表(住居表示日付順)」
- 港区「麻布の坂」
- 港区「町会・自治会一覧・加入案内」
- 港区デジタル版 港区史「三次藩浅野家・瑤泉院」
- 港区デジタル版 港区史「享保13年の崖崩れ」
- 港区『The Azabu』No.66「三井ゆかりの土地と建物―戦前の今井町本邸とその周辺―」
- 港区『The Azabu』No.47
- 港区「麻布未来写真館」平成29年度活動報告
- U.S. Government Accountability Office, U.S. Embassy Housing in Tokyo
- 港区デジタル版 港区史「麻布第一復興土地区画整理」
- 港区「移築されて今も残る建物(麻布区役所・三井邸)」
- 港区「港区ゆかりの文人たち」
- 港区「三河台公園」
- 港区「六本木三丁目地区第一種市街地再開発事業」
- 港区「六本木三丁目東地区第一種市街地再開発事業」
- 港区「市街地再開発事業の事後評価」
- 住友不動産「六本木三丁目東地区第一種市街地再開発事業」

