沖縄県南風原町の黄金森には、沖縄戦で陸軍病院として使われた人工地下壕群が残っています。一般公開されているのが「沖縄陸軍病院 南風原壕群20号」です。
20号壕は長さ約70m、高さ約1.8m、幅約1.8m。狭い横穴の壁際に患者用の二段寝台が置かれ、19号・20号・21号が交差する広い部分には手術場が設けられました。
1945年3月24日には、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人が教師18人に引率され、看護補助要員として沖縄陸軍病院へ動員されました。現在「ひめゆり学徒」として知られる生徒たちです。
- 南風原陸軍病院壕はどこにある?
- 沖縄陸軍病院は1944年に編成された
- 病院機能を地下へ移した理由
- 1944年9月から1945年3月末まで続いた壕建設
- 約30本の人工横穴壕
- 20号壕は長さ約70m・幅高さ約1.8m
- 20号壕は内科から第二外科へ
- 19・20・21号の交差部が手術場
- 幅約90cmの二段寝台
- ひめゆり学徒222人と教師18人
- 飯あげの道|地下病院を支えた地上の動線
- 戦闘激化で患者が増え、壕内は過密化
- 5月下旬、第32軍と病院が南部へ撤退
- 撤退時の青酸カリ配布と重傷患者
- ひめゆり学徒の多くの犠牲は南風原撤退後に生じた
- 24号壕など他の壕も残る
- 1990年、戦争遺跡として町文化財に指定
- 2007年から20号壕を一般公開
- 2026年9月現在の見学方法
- 南風原文化センターと合わせて理解する
- 糸数アブチラガマとの違い
- 参考文献・確認先
南風原陸軍病院壕はどこにある?
南風原陸軍病院壕群は、沖縄県島尻郡南風原町の字喜屋武にある黄金森と、字兼城の丘陵地に造られました。南風原町公式資料では、両地区を合わせて約30本の横穴壕が掘られたとされています。
現在一般公開されているのは黄金森の20号壕です。周辺には他の壕跡、飯あげの道、炊事場跡など、地下病院を支えた地上遺構も残っています。
沖縄陸軍病院は1944年に編成された
沖縄陸軍病院は第32軍直属の陸軍病院で、部隊通称号は「球18803」です。内閣府の第32軍部隊一覧では、院長を廣池文吉軍医中佐と記録しています。南風原町によると、病院は1944年5月に熊本で編成され、同年6月から那覇市内で活動を始めました。
「陸軍病院」という名称から大きな常設病院を想像しやすいですが、沖縄戦が近づくにつれて病院は地上の建物から分散した地下壕群へ姿を変えました。病院長以下、軍医、看護婦、衛生兵ら約350人が医療を担い、そこへひめゆり学徒と教師が加わります。医療組織そのものが戦場の移動と砲爆撃に合わせて再編されていった点が、南風原壕群の特徴です。
1944年10月10日、沖縄本島は大規模な空襲を受けました。病院施設も被害を受け、その後、南風原国民学校へ移転します。さらに地上戦を想定し、第32軍野戦築城部隊の指導を受けながら黄金森と兼城に地下壕群が造られました。
病院機能を地下へ移した理由
1945年に入ると米軍上陸が現実的となり、地上の病院は空襲や艦砲射撃で患者、医療関係者、薬品、手術設備を一度に失う危険が高まりました。
南風原では患者を寝かせる区画、手術場、医療器具、薬品、医療関係者の作業場所を地下へ収めました。人員の一時避難を目的とする防空壕とは役割が異なる、地下医療施設です。
1944年9月から1945年3月末まで続いた壕建設
沖縄県が2026年にまとめた県内地下壕の維持管理事例では、南風原壕群20号の建設期間を1944年9月3日から1945年3月末までと整理しています。10・10空襲より前から地下化が始まり、米軍艦砲射撃が本格化する直前まで約7か月にわたって工事が続いていたことになります。
20号壕は島尻層群与那原層の泥岩・細粒砂岩に掘られ、地表からおよそ15~20m下に位置します。坑道断面は幅・高さとも約1.8mです。自然洞窟の空間をそのまま利用したガマと異なり、病床配置や手術場への接続を前提に必要な方向へ人工的に掘り進めることができました。
完成後に余裕をもって病院が移転したわけではありません。工事が続く一方で戦況は急速に悪化し、1945年3月下旬の艦砲射撃開始とほぼ同時に患者・医療要員が壕へ収容されました。建設工事の終盤と地下病院としての実使用開始が重なる、切迫した施設整備でした。
約30本の人工横穴壕
黄金森と兼城に造られた約30本の壕は、病院利用を想定して掘削した人工横穴壕です。沖縄の自然洞窟「ガマ」の転用とは構造が異なります。
米軍艦砲射撃が始まった1945年3月下旬、病院関係者と患者は各壕へ移りました。病院関係者は約350人で、そこへひめゆり学徒と教師が加わりました。
20号壕は長さ約70m・幅高さ約1.8m
20号壕は長さ約70m、高さ約1.8m、幅約1.8mです。入口から中央部へ向かって緩く曲がっています。
南風原町は、この曲線を入口から銃弾などが直接奥まで届きにくくする構造と説明しています。戦闘を想定した曲線形状です。
20号壕は内科から第二外科へ
20号壕は当初、内科として使われました。沖縄戦が激しくなり、砲撃や銃撃による外傷患者が増えると、既存の外科を「第一外科」、20号を「第二外科」として使用するようになります。
戦況の悪化に伴い、病院内部の診療区分も実際の患者構成に合わせて変化しました。
19・20・21号の交差部が手術場
20号壕の中央部では19号・20号・21号が交差していました。壕内で最も広い空間だったため、ここが手術場として使われました。
現在、19号と21号は落盤しており、公開されている20号から交差部を確認できます。病院機能は複数の壕を組み合わせて構成されていました。
幅約90cmの二段寝台
手術場付近の壁際には幅約90cmの患者用寝台が二段に設けられていました。南風原町の説明では、上段に重症患者、下段に比較的軽症の患者が寝かされていました。
幅約1.8mの壕に二段寝台を置くと、医療関係者が移動できる通路はさらに狭くなります。治療、看護、食事運搬を同じ空間で行いました。
ひめゆり学徒222人と教師18人
1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人が、教師18人に引率されて沖縄陸軍病院へ動員されました。

掲載写真は母体校の1940年の勤労作業を記録したものです。1945年3月23日夜、222人の生徒と18人の教師は学校を出発し、翌24日に南風原の沖縄陸軍病院へ配置されました。ひめゆり平和祈念資料館によると、生徒の多くは看護婦とともに患者の排泄物処理、水・食事の世話、包帯交換の補助などに従事し、飯上げ、水くみ、死体埋葬のため砲撃下の壕外へ出る作業も担いました。
食料事情も悪化しました。同資料館は、患者への食事が当初はテニスボールほどのおにぎりを朝夕2回支給する状態から、戦況悪化とともにピンポン玉ほどのおにぎり1日1個へ減っていったと証言展示で紹介しています。薬品、包帯、食料、水が不足するなかで、学徒の仕事は単なる「看護補助」ではなく、地下病院の日常運営を支える雑務と危険作業まで広がっていました。
飯あげの道|地下病院を支えた地上の動線
病院機能の維持には、患者と医療関係者の食料や水を炊事場から運ぶ地上動線も必要でした。その道が「飯あげの道」です。
ひめゆり学徒らもこの道を往復しました。地下の病棟、地上の炊事場、運搬路が一体となって病院機能を支えました。
戦闘激化で患者が増え、壕内は過密化
1945年4月1日に米軍が沖縄本島へ上陸すると、戦闘の激化に伴って負傷兵が次々に南風原へ運ばれました。
壕内は狭く、暗く、湿気があり、照明や衛生環境も限られていました。患者が増えるほど寝台、治療空間、薬品、食料、水の不足が深刻になりました。
5月下旬、第32軍と病院が南部へ撤退
首里周辺での戦闘が続く中、第32軍は1945年5月下旬に沖縄本島南部へ撤退しました。沖縄陸軍病院も南風原を離れることになります。
重傷患者の多くは自力での移動が困難でした。撤退命令により病院は解体され、移動可能な者が南部へ移されました。
撤退時の青酸カリ配布と重傷患者
南風原町の沖縄戦解説は、撤退時に「足手まといになる重傷兵は死を強要された」と説明しています。元ひめゆり学徒の証言には、衛生兵が練乳に青酸カリを混ぜて重傷患者へ与えた状況が残されています。
病院は負傷者を治療する施設でしたが、南部撤退時には移動不能な患者が軍事行動の負担とみなされる状況へ変わりました。公的資料と証言は、地下病院の医療と軍の撤退命令が衝突した場面を伝えています。
ひめゆり学徒の多くの犠牲は南風原撤退後に生じた
病院解散後、ひめゆり学徒、教師、医療関係者は南部戦線へ移動しました。多くの生徒・教師の死亡は、南風原撤退後の南部各地で戦闘に巻き込まれたことで生じました。
南風原壕群は、ひめゆり学徒が看護補助要員として勤務した主要な場所であり、その後の南部撤退へつながる地点として位置づけられます。
24号壕など他の壕も残る

画像は24号壕です。黄金森には20号以外にも複数の壕跡が残り、屋外戦跡案内で確認できます。
一つの壕だけでなく、黄金森全体に病院機能が分散していたことを意識すると、地下病院群の規模が把握しやすくなります。
1990年、戦争遺跡として町文化財に指定
南風原町は1990年、黄金森の第一外科壕群・第二外科壕群を町指定文化財としました。
沖縄県の資料は、第二次世界大戦の戦争遺跡が文化財となった全国初の事例と紹介しています。戦争遺跡を文化財として保存する制度的な取り組みが広がる前から、南風原町は病院壕の保存を進めました。
2007年から20号壕を一般公開
調査と保存整備を経て、20号壕は2007年から一般公開されました。公開前には考古学的調査、測量、電気探査、岩盤強度を測るシュミットハンマー反発値調査などが行われ、坑道を「そのまま見せる」だけでなく、安全性と遺構保存を両立するための基礎データが集められました。
沖縄県の2026年資料では、危険性が高い区間にはボックスカルバートやH鋼を設置し、隙間へ発泡ウレタンを充填する補強が行われています。さらに天井荷重を測る荷重計、壁面変位を測る変位計、地すべりを監視するパイプ歪み計を設置し、管理者が数値と目視の両方で状態を確認しています。
保存上とくに難しいのが、泥岩・細粒砂岩の風化です。公開後に大規模な落盤は起きていませんが、天井や壁面の表層が剥離して小片が落ちる現象は確認されています。20号壕では温度・湿度を朝夕に計測し、出入口を二重扉にして急激な環境変化を抑えています。感染症対策のため単純に換気量を増やすと乾湿変化で岩盤風化を進める可能性があるため、保存と見学環境の調整には地質そのものへの配慮が必要です。
見学時に照明を常時点灯せず懐中電灯を使用するのも、戦時中の暗さを体感する展示方針と保存・安全管理を組み合わせた運用です。非常灯、誘導標識、消火器などは設置されていますが、内部見学は必ずガイド同行で行われます。公開人数と時間帯を制限する方式は、文化財としての壕を長期保存するための管理手段でもあります。
2026年9月現在の見学方法
南風原町の最新見学案内では、20号壕の見学に事前予約が必要です。個人・16人以内は予約フォームまたは電話、17人以上の団体は原則1か月前までに申し込みます。
- 見学案内枠:9:00~17:00
- 昼休み:12:00~13:00
- 休壕日:水曜日・年末年始
- 町外一般:300円
- 町内一般:200円
- 町外高校生:200円
- 町外小中学生:100円
- 申込先:南風原町立南風原文化センター
人数、年齢、町内外の区分によって料金と申込条件が異なります。現在の案内は南風原町の見学ページが基準です。
南風原文化センターと合わせて理解する
南風原文化センターには病院壕の再現展示、医療器具、証言、写真、地域の沖縄戦に関する資料があります。
現地の20号壕では狭さ、湿気、暗さ、寝台の位置などを空間として確認でき、文化センターでは医療体制と証言を資料で補えます。
糸数アブチラガマとの違い
南風原20号壕は病院用に人工的に掘削した地下施設です。糸数アブチラガマは自然洞窟で、住民避難、軍陣地・倉庫を経て南風原陸軍病院の分室へ転用されました。
同じ沖縄陸軍病院の医療に使われた地下空間でも、南風原は病院目的の人工壕、糸数は自然洞窟の転用という違いがあります。人工地下施設には、指揮・通信を担った旧海軍司令部壕のような別用途の例もあります。全国の地下壕・地下軍事施設と比べると、地下へ移された機能の違いが明確になります。

