沖縄県南城市玉城字糸数には、全長270mの自然洞窟「糸数アブチラガマ」があります。沖縄戦では、一つの洞窟が住民避難場所、日本軍の陣地・倉庫、南風原陸軍病院の分室へと短期間に役割を変えました。
1945年3月24日には糸数住民約200人が避難し、4月28日から南風原陸軍病院糸数分室として使われました。5月にはひめゆり学徒も入り、公式資料では600人以上の負傷兵が洞内を埋めたとされています。
5月25日の病院撤退後も、歩けない重傷兵、住民、日本兵が洞窟内に残りました。日本政府が降伏を国民へ告げた8月15日を過ぎても人々は残り、8月22日の米軍による投降勧告を受けて生存者がガマを出ました。
- 「アブチラガマ」という名前の意味
- 全長270mの自然洞窟
- 最初は糸数住民の避難指定壕だった
- 日本軍の陣地・倉庫として使われる
- 4月27日、日本軍主力がガマを出る
- 4月28日、南風原陸軍病院の糸数分室へ
- 5月1日、ひめゆり学徒14人が入る
- 600人以上の負傷兵が収容された
- 薬品・医療器具が不足した地下病院
- 洞内の井戸が医療と生活を支えた
- 5月25日、病院に南部撤退命令
- 病院撤退後は住民・負傷兵・日本兵が同居
- 6月、米軍の攻撃を受けてもガマには人々が残った
- 6月23日を過ぎても人々はガマに残った
- 8月22日、米軍の投降勧告で外へ
- 南風原陸軍病院20号との違い
- 平和学習施設として保存されている
- 2026年9月現在の入壕方法
- 撮影は南城市の許可制度がある
- 現地で確認できる6つの要素
- 参考文献・確認先
「アブチラガマ」という名前の意味
公式サイトは名称を「アブ=深い縦の洞穴」「チラ=崖」「ガマ=洞窟やくぼみ」と説明しています。
糸数アブチラガマは沖縄の石灰岩地帯に形成された自然洞窟「ガマ」の一つです。自然地形に軍事・医療設備を付加して使用しました。
全長270mの自然洞窟
南城市と糸数アブチラガマ公式サイトは全長を270mとしています。洞内には井戸、空気孔、広い空間、狭い通路、高低差があります。
沖縄戦中には自然の形を利用しながら、住民避難場所、兵器庫、食糧・衣服倉庫、軍医室、手術室、病棟、発電機、便所、監視所などが置かれました。自然洞窟の形状に合わせて複数の機能を配置した地下空間です。
最初は糸数住民の避難指定壕だった
沖縄戦前、アブチラガマは糸数集落の住民が避難する指定壕でした。公式の戦闘経過では、1945年3月23日に港川沖から艦砲射撃が始まり、翌24日に住民約200人がガマへ避難したとされています。
住民にとっての最初の役割は、艦砲射撃や空襲から身を守る避難場所でした。その後、戦線の接近と日本軍の配置によって利用形態が変わります。
日本軍の陣地・倉庫として使われる
1945年2月ごろには製糖場の発動機を利用して洞内へ電線を引き、照明が設けられました。直径約1mの空気孔も整備されました。
4月上旬には海上挺進基地第28大隊が入り、軍需物資や食糧が置かれました。住民の避難場所だった自然洞窟に軍の陣地と倉庫機能が重なりました。
4月27日、日本軍主力がガマを出る
公式戦闘経過では、4月27日に美田聯隊などが首里方面へ移動し、海上挺進基地第28大隊の防衛隊もアブチラガマを離れました。
軍部隊の移動後、洞窟は翌日から南風原陸軍病院の分室として使われます。
4月28日、南風原陸軍病院の糸数分室へ
1945年4月28日、南風原陸軍病院から大城軍医らが移り、糸数分室が設けられました。戦闘の激化で南風原の本院だけでは負傷兵を収容しきれなくなり、自然洞窟を病院分室として使用しました。
洞内には軍医室、手術室、病棟などが設けられ、井戸、発電機、照明など既存の自然条件と追加設備を組み合わせて医療を続けました。
5月1日、ひめゆり学徒14人が入る
5月1日、大城知善教師に引率されたひめゆり学徒14人が南風原陸軍病院から糸数分室へ入りました。公式戦闘経過には、5月12日ごろに別の軍医とともに学徒2人が応援に入った記録もあります。

掲載写真はひめゆり学徒の母体となった学校の戦時下の様子です。学徒たちは糸数分室で負傷兵の看護補助などに従事しました。
600人以上の負傷兵が収容された
糸数アブチラガマ公式サイトと南城市の行政資料は、全長270mの洞内に600人以上の負傷兵が収容されたと説明しています。
軍医・西平守正の証言では、負傷兵を500~600人ほどと回想しています。資料ごとに人数の幅がありますが、洞内が多数の患者で過密状態になった点は共通しています。
薬品・医療器具が不足した地下病院
軍医・西平守正の証言では、薬品や手術器具が不足し、麻酔や輸血も限られた状態で処置を続けました。
公式戦闘経過には、5月中旬に傷の化膿、脳症、破傷風の患者が増えたことが記されています。自然洞窟を急きょ病院へ転用した環境で、患者数の増加と物資不足が重なりました。
洞内の井戸が医療と生活を支えた
アブチラガマには井戸があります。軍医の証言では、この井戸の水が多数の負傷兵を支えました。
数百人が地下で生活し、治療を続けるには飲料水、衛生、調理などに大量の水が必要です。自然洞窟内に水源があったことは、住民避難所、軍陣地、病院として長期利用できた条件の一つでした。
5月25日、病院に南部撤退命令
1945年5月25日、戦況悪化により病院へ南部撤退命令が出ました。公式パンフレットは、病院撤退に伴って重症患者が残されたと説明しています。
詳しい戦闘経過では、重傷患者とひめゆり学徒が伊原方面の糸数分室壕へ移動し、歩けない患者百数十人と糧秣監視兵4人がアブチラガマに残ったとされています。移動能力が患者のその後を大きく分けました。
病院撤退後は住民・負傷兵・日本兵が同居
病院撤退後もガマには、糸数住民、生き残った負傷兵、日本兵が残りました。公式サイトは、この状態を「雑居状態」と説明しています。
一つの自然洞窟が住民避難、軍陣地、病院分室を経て、戦闘末期には軍人と住民の共同生活空間になりました。利用者と機能が戦況に応じて連続的に変化した点がアブチラガマの特徴です。
6月、米軍の攻撃を受けてもガマには人々が残った
病院撤退後のアブチラガマは「安全な避難壕」ではありませんでした。公式戦闘経過によると、1945年6月6日に米兵2人がガマ内部へ入りましたが、日本兵が小銃で威嚇射撃したため退出しました。8日には現在の出口側から黄燐弾が投げ込まれ、火傷を負った人が出ています。
6月10日ごろには、出入口や空気孔からガソリン入りのドラム缶約20本が流し込まれました。ガソリンは引火しなかったものの、強い臭気によって住民と重傷患者が苦しみ、死者も出たと公式記録は伝えています。13~14日には米軍が出口付近から砲撃を試み、最終的に現在の出口を土で塞ぎました。
地下壕攻撃では、坑内に立てこもる日本兵と避難住民を外部から区別することが困難でした。アブチラガマでは病院撤退後も日本兵、負傷者、住民が同じ空間に残っていたため、軍事目標への攻撃がそのまま民間人と傷病者にも及ぶ状況になりました。
6月23日を過ぎても人々はガマに残った
沖縄では6月23日を「慰霊の日」としています。第32軍司令官の牛島満らが最期を迎え、組織的戦闘が終結したとされる時期に由来します。
アブチラガマでは、その後も住民や負傷兵が洞内に残りました。組織的戦闘の終結と、個々の避難者が戦争状態から抜け出す時期には差がありました。
8月22日、米軍の投降勧告で外へ
日本政府がポツダム宣言受諾を国民へ告げた8月15日を過ぎても、アブチラガマには人々が残り続けました。
公式サイトによると、8月22日、米軍の投降勧告に従って生き残った住民と負傷兵がガマを出ました。戦場では情報が十分に届かず、終戦の認識にも時間差が生じました。
南風原陸軍病院20号との違い
南風原陸軍病院20号と糸数アブチラガマは、どちらも沖縄陸軍病院の医療に使われました。南風原20号は病院用として軍の指導で掘削した人工横穴壕です。
糸数アブチラガマは自然洞窟で、住民避難場所と軍の陣地・倉庫を経て病院分室へ転用されました。同じ沖縄戦の地下施設でも、旧海軍司令部壕は軍が指揮・通信のために掘削した人工司令部壕で、成立過程と機能が異なります。全国の地下壕・地下軍事施設と比べると、自然洞窟の転用と人工施設の違いも整理できます。
平和学習施設として保存されている
現在、糸数アブチラガマは南城市が管理する平和学習施設です。公式サイトでは360度パノラマ、戦闘経過、生存者証言、パンフレットを公開しています。
自然洞窟の構造、住民避難、軍の利用、病院分室、撤退後の生活を、現地資料と証言を組み合わせて確認できる施設です。
2026年9月現在の入壕方法
2026年9月時点では入壕に予約とガイド同行が必要で、懐中電灯と軍手も必須です。公式サイトはガイド同行を見学条件としています。
- 営業時間:9:00~17:00
- 休業:12月29日~1月3日
- 個人大人:300円
- 個人小人:150円
- 20人以上の団体・大人:250円
- 懐中電灯レンタル:100円
- 専属ガイド:人数別料金
専属ガイドは1~4人1,500円、5~9人2,000円、10~39人3,000円など人数別に設定されています。2027年4月1日から学校・団体向け料金の一部改定が予告されています。
撮影は南城市の許可制度がある
南城市はWebサイト、雑誌、テレビなどへの掲載を目的とする現地撮影について事前申請を求めています。個人的な撮影も原則として断っていると市公式ページに記載されています。
今回の記事では、再利用条件を確認できる沖縄戦の歴史写真と、ひめゆり学徒の母体校の写真を使用しています。
現地で確認できる6つの要素
自然洞窟の高低差
人工トンネルとは異なる岩盤の形と高低差があり、その自然地形を軍事・医療へ転用しました。
井戸
住民と数百人の患者を支えた水源です。
住民区域と病棟
同じ洞窟の中で、時期によって住民避難、軍利用、病院機能が重なりました。
軍医室・手術室
自然洞窟の一角が医療空間として使われた配置を確認できます。
狭い通路
600人以上の患者が収容された過密状態を、洞窟の幅と動線から考える手掛かりになります。
3月から8月までの時間軸
3月の住民避難から8月22日の投降まで、約5か月の間に同じ地下空間の役割が変わりました。

