沖縄県豊見城市の高台には、沖縄戦で日本海軍の司令部として使われた人工地下壕が残っています。「旧海軍司令部壕」です。
地表から約20m下、建設当時の総延長は約450m。カマボコ型の坑道を縦横に掘り、コンクリートや坑木で補強し、司令官室、幕僚室、作戦室、暗号室、発電機室、医療室、信号室などを配置しました。公式案内では約4,000人を収容したとされています。
1945年6月、沖縄戦の終盤に大田実司令官らがこの壕で最期を迎えました。その直前、大田が海軍次官へ送った電報には、戦闘に巻き込まれた沖縄県民の生活、動員、家屋・財産の喪失などが記され、末尾近くに「沖縄県民斯ク戦ヘリ」と報告したうえで後世の配慮を求めています。
- 旧海軍司令部壕はどこにある?
- 沖縄方面根拠地隊とは?海軍約1万人の陸上戦闘部隊
- なぜ「74高地」に司令部壕を造った?
- 自然洞窟のガマと異なる人工司令部壕
- 1944年、第226設営隊が建設
- 約3,000人が約5か月かけて手掘りした
- 地下20m、総延長約450m
- 地下に司令部機能を集約
- 作戦室|前線情報を集める中枢
- 信号室|約2,900通の情報を発信
- 約4,000人が収容された地下空間
- 大田実司令官と小禄地区の戦闘
- 「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報
- 電報に記された住民動員と被害
- 6月13日、大田司令官らが壕内で最期を迎える
- 戦後の遺骨収集から1970年の公開へ
- 未公開壕約150mを発掘|2022年以降も調査が続く
- 2026年9月現在の見学案内
- 日吉台地下壕との違い
- 沖縄のガマと人工地下壕を比べる
- 参考文献・確認先
旧海軍司令部壕はどこにある?
旧海軍司令部壕は沖縄県豊見城市字豊見城にあり、現在は「海軍壕公園」として整備されています。高台からは那覇空港、那覇港、小禄方面を見渡せます。
現在の那覇空港周辺には戦時中、日本海軍の小禄飛行場がありました。旧海軍司令部壕は、小禄地区を含む沖縄方面の海軍部隊を地下から指揮するために造られました。
沖縄方面根拠地隊とは?海軍約1万人の陸上戦闘部隊
旧海軍司令部壕を理解するには、ここに入った「沖縄方面根拠地隊」がどのような部隊だったのかを見る必要があります。沖縄県立埋蔵文化財センターの戦争遺跡調査は、1944年に小禄飛行場の防衛を主任務として沖縄方面根拠地隊が置かれ、沖縄の海軍兵力は根拠地隊を中心に約1万人、そのうち約8,000人が小禄地区に配置されていたと整理しています。
根拠地隊は艦隊決戦を行う海上部隊ではなく、飛行場、港湾、通信、設営、防空など海軍基地を維持する陸上部隊を束ねる組織でした。ところが沖縄戦では、陸海軍間の「南西諸島作戦に関する現地協定」により、米軍上陸と同時に第32軍の指揮下へ入り、地上戦闘部隊として戦うことになります。基地勤務を前提にした多様な要員が、歩兵戦闘へ投入されました。
沖縄県の調査報告書は、根拠地隊の装備について小銃を持つ兵が約3分の1で、残りは槍を持つ状況だったと記しています。人数だけを見ると大部隊ですが、地上戦を想定した歩兵師団と同じ装備・訓練ではありません。旧海軍司令部壕は、こうした基地部隊をまとめ、陸軍第32軍と連絡しながら小禄飛行場と那覇港周辺を守る指揮拠点でした。
なぜ「74高地」に司令部壕を造った?
司令部壕が置かれた丘は海抜約74mで、戦時中は「74高地」と呼ばれました。公式Q&Aは、小禄飛行場に近く、周辺を見渡しやすく、敵味方の動きを把握しやすいこと、通信に障害が少ないことを立地理由として挙げています。地下に潜る司令部であっても、地上の丘そのものは観測と通信に有利な場所でした。
この高台は戦争で突然重要になった場所でもありません。地元では「火番森(ヒバンムイ)」と呼ばれ、琉球王国時代には慶良間方面から伝わる烽火を受け、首里へ知らせる通信地点として使われたと公式Q&Aは説明しています。海と那覇港、小禄一帯を見渡せる地形が、近世の烽火通信と20世紀の軍事通信の双方で利用されたことになります。
自然洞窟のガマと異なる人工司令部壕
沖縄の石灰岩地帯には「ガマ」と呼ばれる自然洞窟が多く、沖縄戦では住民避難、野戦病院、軍陣地などに使われました。
旧海軍司令部壕は日本海軍が軍事目的で人工的に掘削した施設です。公式Q&Aも「すべて人工的な手作りの壕」と説明しています。自然洞窟を転用した糸数アブチラガマなどとは、成立過程が異なります。
1944年、第226設営隊が建設
建設を担ったのは日本海軍第226設営隊、通称「山根部隊」です。公式Q&Aでは1944年8月に着工し、12月に完成したと説明しています。
一方、公式Q&Aには10・10空襲後に本格的な掘削が進み、沖縄戦中にも未完成部分があったとする説も紹介されています。1944年に構築が進められ、1945年の沖縄戦で司令部として実使用された点は共通しています。
約3,000人が約5か月かけて手掘りした
公式サイトでは、約3,000人の将兵が約5か月にわたり昼夜を問わず掘削したと説明しています。掘削にはつるはしやくわなどが使われ、人力で工事が進められました。
資料館には掘削で使用された道具が展示され、公開坑道の壁面にも手掘りの痕跡が残っています。巨大な地下司令部は、多数の兵士による土木作業で形成されました。
地下20m、総延長約450m
旧海軍司令部壕は地表から約20m下にあります。現在の見学動線では約105段の階段を下り、地下へ入ります。
建設当時の総延長は約450mで、現在は約300mが公開されています。多数の通路と部屋が複雑につながる構造です。

地下に司令部機能を集約
壕内には司令官室、幕僚室、作戦室、暗号室、信号室、発電機室、医療室、下士官兵員室、士官食堂室などが置かれていました。
指揮、通信、電力、医療、生活を地下に集め、艦砲射撃や空襲下でも部隊運用を続ける構造です。住民の一時避難を主目的とする防空壕とは役割が異なります。
作戦室|前線情報を集める中枢
作戦室では前線から入る戦況報告を地図や作戦図に反映し、部隊の配置と行動を検討しました。
沖縄戦が進むにつれて地上の移動と通信は困難になりましたが、地下司令部では限られた情報を集めて指揮を継続しました。
信号室|約2,900通の情報を発信
信号室ではモールス信号などを用い、前線部隊、海軍司令部、陸軍第32軍司令部などと通信しました。公式サイトは、この信号室から約2,900通に及ぶ情報が発信されたと説明しています。
通信は地下司令部を外部と結ぶ生命線でした。地上の通信線や施設が破壊される中でも、報告と命令の送受信が続けられました。
約4,000人が収容された地下空間
公式施設案内では、壕内に約4,000人の兵士が収容されていたとされています。約450mの坑道に数千人が入り、戦闘末期には極端な混雑が生じました。
下士官兵員室では、6月ごろには立ったまま睡眠や休息を取るほど混雑したと伝えられています。負傷者も増え、医療室を中心に患者が収容されました。
「約4,000人収容」は壕の収容人数を示す数字です。小禄地区や司令部壕周辺で約4,000人が最期を遂げたとする旧資料の戦死者数とは対象が異なります。
大田実司令官と小禄地区の戦闘
大田実海軍少将は1945年1月20日に沖縄へ着任し、海軍沖縄方面根拠地隊を指揮しました。4月1日に米軍が沖縄本島へ上陸した後、根拠地隊は陸軍第32軍の指揮下で小禄飛行場、那覇港周辺、豊見城高地などを守備しました。
小禄戦の経過で重要なのが、5月末の撤退命令をめぐる行き違いです。沖縄県立埋蔵文化財センターの調査報告書によると、第32軍が首里から島尻南部へ撤退する際、海軍部隊も真栄平方面へ移る予定でした。ところが根拠地隊は「6月2日以降に撤退」という趣旨の命令を誤認し、5月26日に先に撤退を開始しました。
撤退に際して、海軍は米軍に利用されないよう移動できない重火器類を破壊しました。命令の誤認が判明すると小禄へ戻ることになりましたが、いったん破壊した火器や陣地を元に戻すことはできません。根拠地隊は、装備を弱めた状態で再び小禄防衛へ入ることになりました。
6月4日、米第6海兵師団が小禄飛行場北部へ上陸し、海軍部隊は小禄半島で包囲される形になりました。第32軍は南部への後退を求めましたが、大田は包囲下では撤退困難として小禄死守を選びました。沖縄戦の海軍部隊が小禄で最後まで戦ったのは、当初から「玉砕」を予定していたからだけではなく、首里撤退時の命令錯誤、火器破壊、米軍の急進撃が重なって退路を失った結果でもあります。
沖縄県の戦争遺跡調査は、小禄・豊見城での戦闘を6月4日から13日までの約10日間と整理しています。この戦闘には周辺に残っていた住民も巻き込まれました。旧海軍司令部壕は、地下指揮所の内部史だけでなく、軍の撤退計画と住民が混在した地上戦を同時に見る必要がある遺跡です。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報
大田実が残した史料として知られるのが、海軍次官へ送った「062016番電」です。公式パンフレット系資料では1945年6月6日20時16分の発報とされています。
電報は、沖縄県庁の通信能力が失われ、第32軍司令部にも十分な通信余力がないため、大田自身が県民の実情を報告するという内容で始まります。
青壮年が防衛に動員され、高齢者、子ども、女性が砲爆撃で家や財産を失ったこと、女性が看護、炊事、弾薬運搬などに従事したこと、住民が軍の作戦に伴って移動を強いられたことなどが記されています。
終盤の「沖縄県民斯ク戦ヘリ」という一節とともに、大田は県民への後世の配慮を求めました。電報は県民を称賛する一文だけでなく、軍事動員と戦闘の中で住民が置かれた状況を記録する同時代史料です。
電報に記された住民動員と被害
大田の電報には、住民が軍の防衛体制へ組み込まれていた状況も具体的に書かれています。家屋と財産の喪失、物資不足、移動、勤労、看護、弾薬運搬などが同じ文書に並びます。
史料の意味は、戦闘末期の海軍司令官が県民の苛酷な生活を中央へ報告し、後世の配慮を求めた点にあります。同時に、その住民が日本軍の作戦と動員の中に置かれていた事実も読み取れます。
6月13日、大田司令官らが壕内で最期を迎える
沖縄戦終盤の1945年6月13日未明、大田実司令官らは旧海軍司令部壕で最期を迎えました。豊見城市史資料では大田の自決を6月13日午前1時ごろとしています。施設公式案内も6月13日を海軍部隊が組織的戦闘の終焉を迎えた日として扱っています。

幕僚室の壁面には手榴弾の爆発・破片痕が残り、壕内で起きた最期の状況を伝えています。
戦後の遺骨収集から1970年の公開へ
戦後しばらく、司令部壕は大量の遺骨と遺留品を残したまま放置されました。公式資料によると、大田司令官ら幕僚の遺骨が収集されたのは1952年で、終戦から7年後です。その後も1952年から1977年にかけて大規模な遺骨収集が複数回行われました。現在の見学施設は、戦後直後から保存され続けた空間ではなく、遺骨収集と整備を経て公開された戦跡です。
1958年には元海軍関係者らの募金活動によって「海軍戦没者慰霊之塔」が建立されました。軍艦を模した形の慰霊塔は、壕の保存より先に慰霊の場が形成されたことを示します。戦後の旧海軍司令部壕は、遺骨収集、慰霊、観光・平和学習という順序で社会的な意味を変えていきました。
1970年3月、観光開発事業団によって司令官室を中心とする約300mが復元され、一般公開が始まりました。沖縄県立埋蔵文化財センターの調査報告では、1981年に測量・地質調査など安全対策の基礎調査が行われ、1999年には資料館等を改築して海軍壕公園として再整備されたとされています。現在の公開区間では、手掘りの壁面、作戦室、司令官室、信号室、幕僚室などを実際の地下空間で確認できます。
未公開壕約150mを発掘|2022年以降も調査が続く
総延長約450mのうち、一般公開されていない区画が約150m残っています。旧海軍司令部壕事業所は、過去の遺骨収集で見落とされた遺骨や遺品が残る可能性を考え、2022年10月に未公開区画の発掘へ着手しました。
発掘では実際に遺留品が見つかり、2023年から資料館で特別展が開催されています。公開開始から半世紀以上がたっても、壕内には未調査部分が残り、新しい資料が見つかっています。旧海軍司令部壕は「調査が終わった観光施設」ではなく、戦争遺跡として現在も資料化が続く場所です。
2026年9月現在の見学案内
旧海軍司令部壕公式サイトの現在案内では、営業時間は9:00~17:00、券販売は16:30までです。年中無休を基本とし、臨時休館があります。
- 営業時間:9:00~17:00
- 券販売:16:30まで
- 一般料金:大人600円、小人300円
- 公開区間:約300m
- 所在地:沖縄県豊見城市字豊見城236
料金と開館情報は変更される場合があり、公式サイトの日本語版が最新案内の基準です。
日吉台地下壕との違い
横浜の日吉台地下壕も海軍の重要な地下司令部です。日吉には連合艦隊司令部が置かれ、日本海軍全体の作戦指揮に関わりました。
旧海軍司令部壕は沖縄の現地海軍部隊を直接指揮する最前線の司令部で、周囲そのものが地上戦の戦場になりました。同じ海軍地下司令部でも、指揮対象と戦場環境が異なります。
沖縄のガマと人工地下壕を比べる
旧海軍司令部壕は人工の軍事施設です。沖縄各地のガマは自然洞窟で、住民避難、軍陣地、病院などに利用されました。糸数アブチラガマでは住民避難から軍利用、病院分室へ役割が変化し、チビチリガマとシムクガマでは住民避難と投降をめぐる異なる経験が残りました。
全国の地下壕・地下軍事施設の中でも、沖縄では自然洞窟と人工地下壕が同じ地上戦の中で並存しました。地下空間の成り立ちと利用者を分けて見ることで、軍の司令部、医療、住民避難の違いを整理できます。

