白日会は、現在「写実」を強く打ち出すことで知られる公募美術団体です。
人物画や静物画、風景画などを精密に描く作品が多く、「写実の王道を歩む白日会」という言葉も使われます。
しかし、1924年の創立時から現在と同じ「写実専門団体」だったわけではありません。
白日会は、中澤弘光と川島理一郎が欧州から帰国する船上で新しい研究団体の構想を語り合ったことをきっかけに生まれました。創立メンバーは帝展、二科展、院展、太平洋画会、無所属など、当時の画壇を横断して集まった18人でした。
その後、公募化、戦争、戦後の日展との関係、会の弱体化、「ネオ・アカデミズム」による再建、そして現代の「写実」路線へと大きく変化してきました。
この記事では、白日会がなぜ生まれたのか、「白日」という名前の由来、現在の写実路線がどのように形成されたのか、絵画・彫刻の公募制度、2026年第102回白日会展までを初心者向けに整理します。
日本の主要な美術団体・公募展の全体像は、日本の美術団体・公募展の歴史と違いで整理しています。
白日会とは?まず30秒で分かる
白日会は1924年に正式発足した、絵画と彫刻の公募・研究団体です。
現在の主な部門は、
- 絵画
- 彫刻
です。
絵画部には油彩、水彩などの水性素材、パステル、版画が含まれます。
現在の白日会は「見えるものを通して、見えないものを描こうとする」という考え方を写実の理念として掲げ、「写実の王道」を目指す団体として知られています。
2026年からは会長職を置かず、斎藤秀夫が代表、中谷晃が代表補佐となる新体制へ移行しました。
1923年、帰国船の上で始まった構想
白日会の出発点は1923年です。
欧州から帰国する途中の中澤弘光は、同じ船に乗り合わせた川島理一郎と出会いました。
当時の日本洋画壇では、官展を中心とする既成制度、二科展など在野団体、西洋から入ってくる新しい美術、日本独自の表現が複雑に交錯していました。
中澤と川島は、既存の会派を超えて作家が研究し合える新しい団体をつくろうと考えます。
1923年9月には関東大震災が発生しますが、構想は中断されず、翌1924年1月に白日会が正式に発足しました。
1924年、18人で白日会が正式発足
白日会の創立会員は18人です。
中澤弘光、川島理一郎、富田温一郎、吉田三郎、南薫造、辻永、小寺健吉、笠原靱、栗原忠二、鈴木良治、鈴木秀雄、相馬其一、近藤浩一路、岡本一平、池部鈞、北島浅一、柚木久太、三上知治。
帝展系だけでなく、二科展、院展、太平洋画会などに関わる作家も含む「超党派」的な顔ぶれでした。

中澤弘光は黒田清輝に学び、白馬会、光風会にも関わった洋画家です。
《かきつばた》は白日会創立以前、1918年に制作された作品で、第12回文展に出品されました。
白日会が、全く新しい画風をゼロからつくった団体ではなく、すでに画壇で実績を持つ作家たちによって始められたことが分かります。
第1回展と「白日」という名前
第1回白日会展は1924年、日本橋三越で開催されました。
白日会の簡易な公式紹介ページには3月開催という記述がありますが、創立100周年以降にまとめられた詳細年譜では6月開催と整理されています。本記事では近年の詳細年譜を採用します。
「白日」という会名についても、伝承には複数の説明があります。
現在の詳細な公式年譜では、複数の候補名の中から岡本一平が提案した「白日」が採用されたと整理されています。
一方、公式紹介ページには、中澤弘光がインド洋上で見た白日に輝く太陽にちなむという説明もあります。
団体史ではこのように、後世に伝えられた由来と詳細年譜の記録が一致しないことがあります。
確実なのは、「白日」が太陽や明るい光を想起させる名称として採用され、現在も八咫烏を会章に用いていることです。
1925年、第2回展から公募展へ
第1回展の成功を受け、白日会は1925年の第2回展から一般公募を始めました。
会場は上野の竹之台陳列館。
1926年の第3回展からは、新設された東京府美術館へ移ります。

一般公募を始めたことで、白日会は若手や地方作家が中央へ作品を発表する場になりました。
初期には猪熊弦一郎、靉光、棟方志功、井上長三郎など、後に日本美術史で重要になる作家も出品しています。
ただし、公募化は団体内部に変化も生みました。
創立会員の中には、公募展化を契機として離れる人も現れます。
白日会は最初から「写実専門」だったわけではない
現在の白日会を見ていると、「1924年から一貫して写実だけを追求してきた団体」と考えがちです。
しかし実際の歴史はもっと複雑です。
創立時には、異なる会派・作風の作家が集まっていました。
戦前から戦後にかけても、白日会の方向性は何度も変化しています。
現在の強い写実路線が明確になるのは、戦後の再建を経てからです。
戦後、日展との関係で大きく変化
戦争末期の1945年、第22回白日会展は延期されました。
1946年に展覧会を再開します。
戦後の白日会は日展系団体としての性格を強めました。
その結果、独立美術協会や二科展系にも参加していた作家が白日会を離れることになり、団体は弱体化します。
さらに、戦後美術では抽象・前衛など新しい潮流が拡大しました。
従来型の具象表現を重視する白日会は「古い」と見られる状況にも直面します。
1949年「ネオ・アカデミズム」で立て直し
1949年、第25回展の頃、富田温一郎を中心に「ネオ・アカデミズム」という方向が打ち出されました。
これは単に古典へ戻ることではありません。
技術と造形の基礎を重視し、作品の質を厳しく問うことで団体を立て直そうとする試みでした。
第25回展では、会員であっても出来の悪い作品は展示しないという厳しい方針が採られました。
会友制度もいったん廃止されています。
しかし、それだけで低迷を脱することはできませんでした。
1954年の第30回展頃には、創立会員は中澤弘光、富田温一郎、吉田三郎の3人となり、会の解散まで話し合われる状況でした。
伊藤清永らが白日会を再建
その後、伊藤清永を中心に、小堀進、平松譲、彫刻家の中村晋也らが白日会の再建を進めます。
伊藤清永は「ネオ・アカデミズム」を深めながら、若い作家を積極的に育成しました。
日展へ参加する作家だけでなく、日展に出品しない若手も運営に起用します。
白日会は再び、「絵画と彫刻の研究団体」「若い作家を育てる団体」として基盤をつくり直しました。
この時代の再建が、現在の白日会へつながっています。
中山忠彦と「写実の王道」
2002年、中山忠彦が会長に就任しました。
中山は、それまでのネオ・アカデミズム路線をさらに進め、「見えるものを通して、見えないものを描こうとする」ことを「写実」の理念として掲げました。
写実とは、写真のように対象を正確にコピーすることだけではありません。
人物や物、風景を観察しながら、その背後にある存在感、空気、心理、時間まで描こうとする。
白日会がいう「写実の王道」は、この考え方を指します。
現在、白日会が写実系公募展として特に知られているのは、この戦後から中山時代にかけて形成された方向性によるものです。
2024年に創立100周年
2024年、白日会は創立100周年記念展を開催しました。
国立新美術館では、現代作家の公募作品だけでなく、創立会員や歴代重要会員の作品を集めた特別陳列「白日会百年の軌跡」も行われました。
中澤弘光から現代の白日会まで、100年間の変化を一つの会場で振り返る機会となりました。
その後、中山忠彦が死去。
2025年第101回展では追悼の意味を持つ展示も行われました。
2026年、会長を置かない新体制へ
2026年、白日会は新しい組織体制へ移りました。
会長職を置かず、代表 斎藤秀夫、代表補佐 中谷晃という形です。
斎藤は公式会報で、白日会を創立時の「研究団体」という原点へ戻しながら、中山忠彦が掲げた写実路線を継承すると説明しています。
つまり白日会は、100周年を区切りに歴史をリセットしたのではありません。
創立時の研究団体という精神と、戦後形成された写実の方向を組み合わせて次の時代へ進もうとしています。
現在の白日会の公募・審査制度
現在の主な分野は絵画と彫刻
現在の白日会は、絵画・彫刻の2部門です。
名簿上も、それぞれに会員・準会員・会友の区分があります。
一般出品者が公募展で入選・受賞・推挙を重ねることで、団体の作家として活動していく仕組みです。
審査方法
白日会は審査方法を公式サイトでかなり詳しく公開しています。
一般出品作品は一点ずつ審査されます。
絵画部では、参加審査員の過半数の挙手と審査委員長の承認によって入選・落選を決めます。
2点出品した場合も同時に審査し、2点入選、1点入選、どちらを展示するかまで段階的に判断します。
公募展の審査は外から見えにくいことが多いため、具体的な方法を公開している点は白日会の特徴の一つです。
2026年第102回展の公募
2026年第102回展では、資格欄に「どなたでも応募することが出来ます」と明記されました。
募集分野は、絵画(油彩、水彩など水性素材、パステル、版画)および彫刻です。
未発表の自己制作作品に限り、1人2点以内。
出品手数料は一般出品者10,000円でした。
作品サイズには原則制限を設けていませんが、移動上の制限として絵画は長辺3m以内、彫刻は床面積1平方メートル当たり1.2トンまでとしています。
2026年第102回白日会展

第102回白日会展は、2026年3月19日~3月30日に国立新美術館で開催されました。
休館日は3月24日。
会場は2階2A・2B・2C・2D展示室。
観覧料は一般1,000円、大学生以下無料でした。
会期中には、絵画部ギャラリートーク、彫刻部ギャラリートーク、公開クロッキー講座も行われました。
本展後には名古屋展、関西展へ巡回しました。
※第102回展はすでに終了しています。本記事は恒久的な白日会解説記事であり、現地訪問レポートではありません。
初めて白日会展を見るなら
1. 「どれだけ写真に似ているか」だけで見ない
白日会の写実は、単なる再現精度の競争ではありません。
人物の心理、光、空間、物の存在感まで含めて見ると、作品ごとの差が分かります。
2. 絵画と彫刻を両方見る
白日会は「写実絵画展」という印象が強いですが、創立以来、絵画と彫刻の研究団体です。
彫刻部も重要な柱です。
3. 一般・会友・準会員・会員を比べる
作家区分を見ると、一般公募からプロ作家を育成していく団体の仕組みが見えます。
4. 受賞作を見る
白日賞、会賞、各記念賞などを見ると、その年に何が評価されたのかを理解しやすくなります。
光風会・一水会と何が違う?
白日会、光風会、一水会はいずれも具象・写実系の作品が多い団体ですが、歴史は異なります。
光風会は1912年、白馬会解散後に創立。
白日会は1924年、中澤弘光・川島理一郎らが会派を超える研究団体として創立。
一水会は1936年、二科会を離れた安井曾太郎・石井柏亭らを中心に「写実の本道」を掲げて創立しました。
白日会は現在、「写実」そのものを団体理念として最も明確に前面へ出している点が特徴です。
まとめ|白日会の「写実」は100年の途中で形成された
白日会は1924年、中澤弘光、川島理一郎ら18人によって始まりました。
創立時は特定の一画風に限定せず、会派を超えて集まる研究団体でした。
第2回展から公募化。
戦争と戦後の日展との関係で弱体化し、富田温一郎のネオ・アカデミズム、伊藤清永による若手育成を経て再建されます。
そして中山忠彦の時代に、「見えるものを通して、見えないものを描く」という写実理念が明確になりました。
2026年からは会長を置かない新体制へ移りましたが、研究団体としての原点と写実の方向は引き継がれています。
白日会展を見るときは、「どれだけリアルに描けているか」だけでなく、「100年前に自由な研究団体として始まった組織が、なぜ現在“写実の王道”を掲げるようになったのか」という歴史を意識すると、作品の見え方が大きく変わります。
美術団体・公募展シリーズ
日本の美術団体・公募展の全体像|光風会・光風会展|一水会・一水会展

