六本木の国立新美術館に、周囲とは明らかに時代の違う建物が残っています。現在の別館は、昭和3年(1928)に完成した旧陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎の一部です。巨大な兵舎は二・二六事件の出動拠点となり、敗戦後は米軍に接収され、その後は東京大学の研究施設として使われました。
2000年代初頭、国立新美術館の建設に伴って旧兵舎の大部分は解体されました。ただし建築的・歴史的価値をめぐる保存運動と国会での議論を経て、中庭へ通じていた部分とその周辺が保存されました。現在の六本木に残る小さな別館は、明治の軍都、昭和初期のモダニズム、二・二六事件、占領期、戦後の科学研究、文化施設への転換を一つの場所でつないでいます。
国立新美術館に残る旧歩兵第三連隊兵舎
国立新美術館の敷地には、かつて歩兵第三連隊の大兵舎がありました。国立新美術館は、1928年竣工の兵舎を「機能主義的でモダンな建築」と紹介しています。建物は鉄筋コンクリート造で、上空から見ると「日」の字を描く平面でした。国立新美術館の活動報告では、アールデコ調の意匠を取り入れた外壁を備え、旧陸軍初の鉄筋コンクリート兵舎建築だったと説明されています。
現在残る別館は、旧兵舎全体を縮小した建物ではなく、元の建物の一部分です。2001年、文化庁は外観意匠に特徴があった「中庭への通路口及びその周辺」を現地で保存活用する方針を決めました。巨大だった兵舎のスケールは失われましたが、外壁の質感や開口部の造形には1928年の建築の面影が残ります。

歩兵第三連隊が六本木へ来たのは1889年
歩兵第三連隊は明治7年(1874)、日比谷操練場で編成されました。明治22年(1889)1月23日、連隊は麻布新龍土町へ移ります。現在の六本木7丁目・乃木坂、国立新美術館周辺です。
当時の麻布・赤坂一帯には軍事施設が集中していました。港区の公式区史は、周辺に四つの歩兵連隊が存在し、「兵隊屋敷の町」とも呼ばれたと記しています。1908年の東京市市勢調査では、麻布区新龍土町の「兵営」に男性1,759人がいたことが確認できます。現在の美術館街・住宅街とは大きく異なる風景でした。
六本木から元麻布・麻布十番へ続く地域の変化は、六本木ヒルズから元麻布・麻布十番へ歩く歴史散歩でもたどれます。
1928年、陸軍初の鉄筋コンクリート造兵舎が完成
昭和3年(1928)、新しい兵舎が完成しました。同年6月には第一師團經理部から『歩兵第三聯隊兵舎建築工事概要』が刊行されています。国会答弁でも、この建物は「陸軍が初めて建設した鉄筋コンクリートづくりの兵舎」と説明されました。
旧兵舎は1923年の関東大震災で被災し、新兵舎は震災復興の一環として建設されました。設計は第一師団経理部が担当し、国立新美術館の解説でも関東大震災後の復興建築を代表する建物として紹介されています。
建物は地下1階・地上3階で、「日」の字型の平面を持つ大規模な兵舎でした。竣工記念絵葉書には正門や兵舎外観だけでなく、地下室、内務班、炊事場、講堂兼大食堂、兵舎昇降機、屋上洗濯場、将校集会所、下士集会所などが写されています。兵士が寝起きする場所だけでなく、食事、洗濯、集会までを収める一つの生活施設として設計されていたことがわかります。

別館B1Fに展示される全体配置模型を見ると、兵舎が敷地の東側に大きくまとまり、周囲に厩、馬繋、弾丸庫などが置かれていたことがわかります。現在の国立新美術館から想像するより、連隊施設ははるかに広い範囲を占めていました。




模型では、外周棟と中央棟が二つの中庭を囲む構成が一目でわかります。兵舎の正面は緩やかな曲線を描き、長い外壁に多数の窓が並びます。巨大な矩形ではなく、角を丸めた外周部と中庭を組み合わせた形が、この建物の印象を決定づけていました。
別館B1Fに展示されている地階から3階までの図面は、1928年に日本建築学会『建築雑誌』に掲載された兵舎図面を複写したものです。各階を見比べると、兵室、共用空間、設備室、被服庫などの配置を具体的に確認できます。

地階には機関室や入浴室など、兵舎の日常生活を支える設備系の諸室が配置されていました。

1階図面では、外周部と中央棟に兵室や下士官室などが連続し、建物の一端には大食堂などの共用空間が付属しています。中庭を挟んで諸室を並べることで、大人数の兵士を収容しながら採光や通風を確保する構成でした。

2階は兵室を中心とする構成で、外周部と中央棟の両側に同じ用途の部屋が連続します。1階の共用空間、3階の被服庫などと見比べると、階ごとの役割の違いが分かります。

3階には被服庫などがまとまり、中央棟の屋上部分も大きく使われています。地階から3階まで用途を分けた図面を見ると、旧兵舎が単なる宿舎ではなく、連隊の日常生活を支える複合施設だったことが具体的に見えてきます。

1937年刊『大東京名所百景写真帖』に収められた写真からは、長大な水平線を強調した外観を確認できます。国立新美術館がこの建物を昭和初期の都市モダニズム文化と結びつけて紹介しているのは、軍事施設でありながら当時の新しい建築技術と意匠をまとっていたためです。
二・二六事件と歩兵第三連隊
昭和11年(1936)2月26日、青年将校らが率いる部隊が首相官邸、警視庁、陸軍省など東京中心部の要所を占拠しました。二・二六事件です。決起部隊1,453人のうち、歩兵第三連隊からは士官9人、下士官64人、兵874人、計947人が参加しました。参加兵力の過半を第三連隊が占めていました。
事件の6日前にあたる2月20日、第一師団には満州への移駐命令が出されました。港区史は、この移駐が皇道派青年将校らの決起を促す直接の契機になったとしています。
港区史が引用する連隊記録によると、2月25日夜、第三連隊の兵舎内では決起に向けた説明と準備が進みました。午後9時ごろには将校室に下士官が集められ、深夜には出動の内容がさらに伝えられます。その動きを異常と考えた下士官が兵舎を抜け出して上官に報告し、決起部隊が出発した後、連隊側は非常呼集を行いました。
2月25日夜にはこの兵舎で決起の準備が進み、翌朝、第三連隊から947人が東京中心部へ向かいました。雪の東京へ兵士たちが出発した数時間後、首都の中枢は決起部隊に占拠されました。
事件後、上級部隊の第一師団は関東軍の隷下となり、東京から満州のチチハルへ移駐しました。歩兵第三連隊もチチハルに駐留し、1937年の日中戦争勃発後は中国戦線へ派遣されています。
第三連隊移駐後、兵舎は1939年から近衛歩兵第五聯隊、1945年には近衛歩兵第七聯隊が使用しました。敗戦後は米軍に接収されます。
敗戦後は米軍施設、そして東京大学へ
第二次世界大戦後、旧兵舎一帯は米軍に接収されました。米陸軍の公式史料では、この地区に戦後の米軍施設が置かれ、現在の赤坂プレスセンターとハーディ・バラックスへつながった経緯が紹介されています。国立新美術館別館の年表によると、1955年9月から旧兵舎は「ハーディバラックス」と呼ばれ、主に米軍新聞社の紙倉庫と米軍自動車修理工場として使われました。1958年12月に米軍の接収が解除されます。

米軍施設の北側にあった大型兵舎は東京大学の研究施設へ転用されます。東京大学生産技術研究所の1959年度年報によると、旧第三連隊跡の利用交渉は1958年に始まり、1959年3月に約56,200平方メートルの使用が認められました。既存の鉄筋コンクリート建物を改修し、生産技術研究所と物性研究所が利用する計画でした。
東京大学の利用は段階的に進みました。1960年3月に物性研究所が移転し、1961年1月には生産技術研究所の一部が六本木へ移りました。東京大学の公式沿革は、生産技術研究所の六本木移転を1962年としており、同年3月から本部・研究部門を含む本格的な利用が始まります。1959年は利用決定と改修開始、1960〜61年は段階移転、1962年は本格移転の時期にあたります。旧兵舎はその後39年間にわたり、科学・工学研究の拠点として使われました。
なぜ大部分が解体され、一部分だけ残ったのか
東京大学生産技術研究所の駒場移転と並行して、跡地では国立新美術館の建設計画が進んでいました。1999年に設立準備委員会が発足し、2000年2月には黒川紀章・日本設計共同体が設計者に選定され、同年3月に設計が始まります。旧兵舎は解体対象となりましたが、2000年11月に日本建築学会、2001年3月に日本建築家協会が保存・活用を要望しました。
文化庁は2001年4月、建物を記録として保存し、模型を作り、現地保存の可能性を検討する方針を示しました。同年5月には国会でも保存問題が取り上げられます。文部科学省側は、昭和3年に陸軍が初めて建設した鉄筋コンクリート兵舎として歴史的価値を認める一方、新しい美術館に必要な大規模展示空間や搬出入機能との両立には難しさがあると説明しました。
同年6月、文化庁は中庭への通路口とその周辺を現敷地内で保存活用する方針を決定します。2002年3月には『東京大学生産技術研究所(旧歩兵第三聯隊兵舎)建造物記録保存調査』がまとめられました。全面保存ではなく、記録保存と部分保存を組み合わせる決着でした。

別館に展示される2001年の全景写真には、解体直前の旧兵舎が写っています。二つの中庭を抱えた「日」の字型の建物がまとまって残っており、現在の保存部分が元の兵舎のごく一部であることがよくわかります。
跡地には黒川紀章・日本設計共同体が設計した国立新美術館が建ち、2007年に開館しました。旧兵舎の保存部分は別館として残され、兵舎時代の写真、図面、模型を紹介する展示にも使われています。
国立新美術館の展示で旧兵舎を見る
別館B1F展示コーナー
国立新美術館別館のB1Fには、旧歩兵第三連隊兵舎と東京大学生産技術研究所に関する展示コーナーがあります。現地には兵舎時代の写真、各階の図面、全体配置模型、解体前の記録写真、建物の変遷をまとめたパネルが並びます。外に残る別館だけではつかみにくい旧兵舎の規模と内部構成を、資料を見ながら立体的に理解できる場所です。

展示パネルの年表では、1928年8月の新兵舎竣工、1939年からの近衛歩兵第五聯隊による使用、1945年の近衛歩兵第七聯隊による使用、敗戦後の接収、1955年の「ハーディバラックス」としての利用、1958年12月の接収解除、1959年3月の東京大学による使用決定、1962年3月からの生産技術研究所としての本格利用、2007年1月の別館開館までが一続きに整理されています。

兵舎時代の正面写真には、丸みを帯びた外壁と縦長の窓、中央正面の出入口が写っています。現在の別館には、旧兵舎の外観意匠と中庭への通路口の一部が保存されています。模型、図面、写真を続けて見ると、保存部分が元の建物のどこに属していたのかを理解しやすくなります。
撮影時の現地案内では、展示コーナーは観覧無料で、開室は月・水・木・金曜日の11時から18時までと案内されていました。祝日と年末年始は休室と表示されています。利用日時は変更されることがあるため、来館時は国立新美術館の最新案内で確認できます。
1Fの1:100模型で兵舎の姿を立体的に見る
国立新美術館1Fには、旧陸軍第一師団歩兵第三聯隊兵舎を縮尺1:100で再現した大型模型もあります。設置場所は展示室1A付近です。


1:500の全体配置模型が連隊敷地全体を把握するのに向くのに対し、1:100模型では建物そのものの形や窓、出入口、中庭、屋上の構成まで細かく確認できます。正面中央の張り出しと左右へ伸びる外壁、角を丸めた輪郭は、当時の写真と見比べると特に分かりやすい部分です。

模型の一部は内部まで作り込まれており、兵室の配置や寝台、机、長椅子まで再現されています。平面図だけではつかみにくい、兵士が大人数で暮らした空間の密度を具体的に感じられます。

兵舎背面には、地階へ向かう軌道とトロッコが再現されています。地階図面には機関室や入浴室があり、竣工記念資料にも機関室と入浴室が確認できます。

よくある疑問
現在残っているのは旧兵舎のどの部分ですか?
2001年に保存対象となったのは、外観意匠に特徴があった中庭への通路口とその周辺です。現在は国立新美術館別館として保存・改修されています。
東京大学が使い始めたのは1959年ですか、1962年ですか?
1959年3月に旧連隊跡の利用が決まり、改修が始まりました。1960年3月に物性研究所、1961年1月に生産技術研究所の一部が移転し、1962年3月から本部・研究部門を含む本格的な利用が始まります。1959年は利用決定、1960〜61年は段階移転、1962年は本格移転の年です。
歩兵第三連隊と近衛歩兵第三連隊は同じ部隊ですか?
別の部隊です。この記事で扱う第一師団歩兵第三連隊は麻布新龍土町にありました。近衛歩兵第三連隊は赤坂一ツ木町に置かれていました。二・二六事件では両方の部隊から兵士が参加したため、記事や地図で混同されることがあります。

