「二科展」という名前を聞いたことはあっても、「そもそも二科とは何なのか」「日展や院展とは何が違うのか」は分かりにくいかもしれません。
二科会は、日本の近代美術史を理解するうえで重要な公募美術団体の一つです。その出発点には、明治政府が主催した美術展「文展」の審査や制度に対して、新しい表現を求めた洋画家たちの不満がありました。
「二科」という少し不思議な名前も、その歴史と直接つながっています。
この記事では、二科会がなぜ生まれたのか、どんな作家が関わったのか、戦争や分裂を経て現在までどう続いてきたのか、そして現在の二科展はどのような仕組みなのかを、美術史に詳しくない人にも分かるように整理します。
日本の主要な美術団体・公募展の全体像は、日本の美術団体・公募展の歴史と違いで整理しています。
二科会とは?まず30秒で分かる
二科会は、1914年に第1回二科美術展覧会を開いたことから始まる、歴史の長い美術団体です。
最大のポイントは、当時の政府主催展「文部省美術展覧会(文展)」の外に、新しい作品を発表する場をつくろうとして生まれたことです。
現在の二科展は、絵画・彫刻・デザイン・写真の4部門からなる総合美術展です。東京では毎年9月初旬、国立新美術館で本展が開かれ、一般からも作品を公募しています。
つまり二科展は、美術館が収蔵品や借用品を選んで見せる一般的な「企画展」とは性格が異なります。作家が作品を応募し、審査を経て入選作が展示される「公募展」です。
なお、二科会公式サイトでは「創立1914年」としていますが、公式の「二科会の歩み」では、1914年に第1回二科展が始まり、翌1915年に第1回展の鑑査委員が会員となって「二科会」が創立されたと説明しています。本記事では、1914年に二科展が始まり、翌年に会員組織としての体制が整った、と整理します。
なぜ「二科」という名前なのか
二科会の名前を理解するには、明治時代の美術界まで戻る必要があります。
1889年には洋画家たちによる明治美術会が創立され、1896年には東京美術学校に西洋画科が設けられました。海外留学から帰国した新しい世代の画家も増え、日本の洋画界では異なる価値観が並ぶようになります。
一方、1907年には文部省が美術展覧会、いわゆる「文展」を開始しました。国が主催する大規模な展覧会は、作品を世に出し、作家として評価される重要な舞台になります。
ところが洋画部門では、従来の価値観と新しい表現を求める画家たちとの間で、審査をめぐる対立が目立つようになりました。
そこで一部の画家たちは、洋画を「第一科」と「第二科」に分け、新しい作品を受け入れる別の審査部門を設けるよう求めました。しかし、この「第二科」の設置要求は認められませんでした。
それなら自分たちで展覧会を開こう――。
この動きから1914年に第1回二科美術展覧会が開催されました。
「二科」という名前は単なる記号ではありません。官展の内部に新しい価値観を受け入れる「第二科」を求めた歴史そのものを残した名称なのです。
1914年、第1回二科展が始まる
第1回二科美術展覧会は1914年、上野の竹の台陳列館で開催されました。
二科会公式が創立メンバーとして挙げているのが、石井柏亭(いしい・はくてい)、山下新太郎(やました・しんたろう)、有島生馬(ありしま・いくま)、坂本繁二郎(さかもと・はんじろう)らです。

石井柏亭は、二科会創立の中心人物の一人です。その後の日本洋画界でも長く活動しました。
第2回展と第3回展は三越呉服店で開催され、第4回から第12回までは日本美術院と同時期に竹の台陳列館で開催されました。1926年の第13回展からは東京府美術館が主な会場となり、2007年からは国立新美術館へ移っています。
初期二科展を具体的に知ることのできる作品の一つが、山下新太郎の《端午》です。東京文化財研究所の年譜では、1915年の第2回二科展への出品が確認できます。

二科会は日本近代美術史で何が重要だった?
二科会を「一つの決まった画風を持つ団体」と考えると、その歴史は分かりにくくなります。
重要なのは、官展とは別の場所で、新しい作家や表現を発表できる舞台をつくったことです。
二科会公式の記録によれば、第3回展ではアンリ・マティスの作品が参考出品され、第10回展ではマティス、パブロ・ピカソ、アンドレ・ドランなどフランスの現代美術家の作品が特別陳列されました。海外の新しい美術動向を日本に紹介する役割も果たしていたことが分かります。
2015年に東京都美術館などで開催された「伝説の洋画家たち 二科100年展」では、二科展で発表した作家として、岸田劉生、佐伯祐三、小出楢重、関根正二、古賀春江、藤田嗣治、松本竣介、岡本太郎、東郷青児など、多様な作家が紹介されました。
ここで注意したいのは、「二科展に出品した」「二科会の会員になった」「二科会の創立者だった」は同じ意味ではないことです。二科展は長い歴史の中で、多くの作家が作品を発表し、別の団体へ移ったり、新しい団体をつくったりする舞台にもなりました。
そのため二科会の歴史を追うと、日本の洋画団体がなぜ多数に枝分かれしていったのかも見えてきます。
二科会から別の団体へ――分裂と再編も美術史
二科会の創立者たちの一部は、その後別の団体へ移り、新たな組織をつくりました。
1935年には石井柏亭、有島生馬、安井曾太郎、山下新太郎らが二科会を離れ、その翌1936年、彼らを含む8人によって一水会が創立されました。
一水会公式は、創立者を有島生馬、石井柏亭、木下孝則、木下義謙、小山敬三、硲伊之助、安井曾太郎、山下新太郎の8人としています。
戦後の1947年には、戦前の二科会で活動していた宮本三郎ら9人によって第二紀会、現在の二紀会も創立されました。
つまり、二科会は一つの団体の歴史であると同時に、その後の洋画団体が枝分かれしていく重要な「接続点」でもあります。
この点は、日展、二科展、一水会展、二紀展などを別々に見るだけでは分かりにくいところです。各団体の成立理由を時系列でつなぐと、日本の公募美術団体が多い理由が理解しやすくなります。
戦争で二科展は中断し、二科会はいったん解消した
二科会の活動も戦争の影響を受けました。
東京文化財研究所の『日本美術年鑑』年史によると、1944年には「美術展覧会取扱要綱」のもとで一般公募展の開催が制限され、院展、二科展、一水会、新制作派などの定期展が中止されました。
同年10月6日、二科会は幹部会を開き、団体を解消することを決議しました。
しかし終戦後の1945年10月、東郷青児、渡辺義知、高岡徳太郎ら旧会員が中心となって二科会を再結成します。このとき会員内の段階制をやめ、審査を全員で行う仕組みへ改め、工芸部なども新設しました。
1946年には第31回二科展が開かれ、活動が本格的に再開されます。
さらに同年には、戦前から二科会の重要な原則だった「官展に参加しない」という規約を削除するかどうかをめぐって内部対立も起きました。戦前の「反官展」という立場を、戦後の新しい美術制度の中でどう考え直すかが問題になったのです。
二科会の歴史は、「官展に反対して生まれた団体」という一言だけでは終わりません。時代が変わるたびに、自分たちの位置づけを問い直してきた歴史でもあります。
絵画だけではない|現在は4部門の総合美術展
創立当初の二科展は絵画が中心でした。
その後、第6回展で彫刻家の藤川勇造を会員に迎えて彫刻部を新設。戦後には工芸部や理論部が設けられ、その後、商業美術部、現在のデザイン部や写真部も加わりました。
現在の二科美術展覧会は、
- 絵画
- 彫刻
- デザイン
- 写真
の4部門で構成されています。
組織については少し注意が必要です。二科会理事長挨拶では、現在は「絵画部と彫刻部からなる公益社団法人」と「デザイン部と写真部からなる一般社団法人」の4部門で構成されると説明されています。
したがって、「公益社団法人二科会の中に4部門がすべて同じ法人組織として入っている」と単純化するより、二科展という総合展を4部門で構成している、と理解すると正確です。
二科展は誰でも応募できる?
二科展は公募展なので、一般の人にも応募の入口があります。
ただし、作品を持っていけばそのまま展示されるわけではありません。応募作品は審査され、入選した作品が会場に展示されます。
二科会公式の絵画・彫刻部向け案内では、二科会会員が作品を審議し、挙手制で入選・再考・落選を決める仕組みが説明されています。
絵画部には内閣総理大臣賞、東京都知事賞、二科賞、パリ賞、SOMPO美術館賞、上野の森美術館奨励賞など、彫刻部には文部科学大臣賞、二科賞、ローマ賞、彫刻の森美術館奨励賞などがあります。
また、応募作品にはサイズや未発表性などの規定があります。例えば絵画部では、二科展に向けて制作した未発表作品などが対象とされ、過去に二科展で入選・入賞した同じ作品や、他の審査付き公募展で入選・入賞した作品などは応募できません。
ここまで知ると、二科展の会場に並ぶ作品が「誰かが選んで借りてきた作品」ではなく、「公募→審査→入選」という過程を経て展示されていることが分かります。
二科会は本展以外に何をしている?
二科会は毎年秋の東京展に加え、各地で巡回展も行っています。
東京での二科展終了後には、各地を回る巡回展が行われています。2026年度は東海、大阪、京都、福岡、鹿児島での巡回が予定されています。
春には東京都美術館で春季二科展を開催しています。公式説明では、会員の実験的な作品発表と新進作家の育成を目的の一つとしており、2024年からは会友・一般も応募できる「NIKA+nika/S20号」コンクールが併催されています。
本展会期中には合評会、研究会、ギャラリートークなども行われています。
つまり二科会は、年に一度だけ作品を並べる組織ではなく、制作、審査、発表、交流、若手育成、地方活動を継続する美術団体です。
現在の二科展はどれくらい大きい?

二科展は2007年から東京・六本木の国立新美術館を本展会場としています。
2026年の「第110回記念 二科美術展覧会」は9月2日から14日まで開催され、国立新美術館の展示室1A~1D、2A~2D、3A~3Bの計10室に加え、野外展示場A~Dを使用しています。
絵画、彫刻、デザイン、写真の4部門を一度に見ることができるため、同じ「二科展」という名前でも、展示空間によってかなり性格の異なる作品を見ることになります。
第110回展では、内閣総理大臣賞、東京都知事賞、二科賞、パリ賞など各賞の受賞者も発表されています。
会期終了後も二科会そのものの歴史は変わりませんが、現在の活動を理解するには、実際の二科展を見て「歴史ある公募団体が2020年代にどのような作品を集めているのか」を確認することが有効です。
2026年9月10日に第110回記念二科展を実際に見た
2026年9月10日(木)、国立新美術館で開催中の「第110回記念二科展」を17時から18時まで鑑賞しました。二科展は絵画・彫刻・デザイン・写真の4部門で構成される総合美術展で、2026年は9月2日から14日まで開催されています。

会場は広く、絵画だけでも大作が多数並びます。実際に歩くと、二科展が「絵画展」ではなく、立体作品やグラフィックデザインまで一度に見られる総合展であることがよく分かります。技法や題材の違う作品が続くため、特定の作風に統一された展覧会という印象はありませんでした。


受賞作品は、技術の高さが分かりやすい
作品を見て最も強く感じたのは、率直にいえば「上手い」ということでした。人物、動物、都市、抽象表現など題材はさまざまですが、画面の密度、描写、構成にはそれぞれ見応えがあります。受賞作品は、そうした技術や表現の違いを比べる入口になります。
石関和夫《声が聴こえる》 — 絵画部・内閣総理大臣賞

津田佐千子《かしまし急行》 — 絵画部・東京都知事賞

第110回展の受賞者・入選者は、二科会公式の受賞者・入選者発表で確認できます。
彫刻部は屋内と野外で作品の見え方が変わる
彫刻部では、人物像から抽象的な立体、素材感を前面に出した作品まで幅広く並んでいました。平面作品とは違い、見る位置を変えると輪郭や量感が変わるため、会場を歩くこと自体が鑑賞になります。



荻野弘一《紙の国の風》 — 彫刻部・文部科学大臣賞

デザイン部は絵画・彫刻とは別の見方ができる
デザイン部では、ポスターや広告表現として成立する作品がまとまって展示されています。純粋な絵画を見るときとは違い、文字、色、情報の伝わり方まで含めて見るのが特徴です。

第110回展では「2027国際園芸博覧会・GREEN×EXPO 2027」をテーマにした特別課題のポスターも多数展示されていました。同じテーマでも、写真風、イラスト、タイポグラフィー、抽象表現などアプローチが大きく異なります。

会場内にはチャリティー展示もある
展示室の一角には二科ショップのチャリティー展もあり、小品や関連書籍などが並んでいました。本展の大作とは違う距離感で作品を見ることができ、会場全体の雰囲気を知るうえでも印象に残るコーナーです。

写真部は撮影不可
写真部の展示エリアは撮影不可でした。そのため本記事にも写真部の会場写真は掲載していません。絵画・彫刻・デザインと同じ感覚で撮影できるわけではないので、現地では部門ごとの案内表示を確認する必要があります。
作品の配置を探す場合は、二科会公式の二科展早見表が利用できます。
初めて二科展を見るなら、ここを見る
初めて二科展へ行く場合は、まず絵画・彫刻・デザイン・写真の4部門を一度ずつ回ると全体像をつかみやすくなります。
まず、絵画・彫刻・デザイン・写真の4部門を一度ずつ歩いてみると、同じ団体が開催する総合展でも分野によって展示の雰囲気が大きく違うことが分かります。
次に、受賞作品を確認してみてください。「応募作品の中で、どの作品がどのように評価されたのか」という公募展ならではの視点が生まれます。
さらに、作品表示に会員、会友、一般、受賞などの区別があれば、それにも注目すると、公募展が単なる作品展示ではなく、作家の継続的な活動の場になっていることが見えてきます。
そして一番面白いのは、二科会が掲げてきた「流派を問わず、新しい価値や表現を尊重する」という考え方が、現在の会場でどのように見えるのかを自分で確かめることです。
日展・院展とは何が違う?
初心者には、日展、院展、二科展などの違いが特に分かりにくいところです。
大まかに歴史上の出発点を見ると、違いが整理できます。
| 団体・展覧会 | 歴史上の出発点 | 主な特徴 |
|---|---|---|
| 日展 | 1907年の文展から帝展、新文展、日展へ続く官展系の歴史 | 現在は日本画・洋画・彫刻・工芸美術・書の5科 |
| 日本美術院・院展 | 1898年、岡倉天心らが創立 | 近代日本画の革新運動から続く日本画団体 |
| 二科会・二科展 | 文展洋画部に「第二科」を求めた運動から1914年に独自展 | 官展外の在野団体として出発。現在は絵画・彫刻・デザイン・写真 |
もちろん、100年以上の歴史を持つ団体をこの表だけで説明し切ることはできません。
ただ、「どんな作品があるか」だけでなく「なぜその団体が生まれたか」を知ると、名前だけでは分からなかった違いが見えてきます。
まとめ|「二科」という名前に近代美術史が残っている
二科会の歴史は、1914年の第1回二科展から100年以上続いています。
その名前の出発点は、文展の洋画部門に、新しい作品を受け入れる「第二科」を設けてほしいという要求でした。
要求が認められなかったため、画家たちは官展の外に自分たちの発表の場をつくりました。その後、二科展は多くの作家が新しい表現を発表する舞台となり、そこから別の美術団体も枝分かれしました。
戦時中には展覧会が中止され、団体はいったん解消しますが、戦後すぐに再出発。現在は絵画・彫刻・デザイン・写真の4部門を持つ大規模な公募展へ発展しています。
二科展を見るときは、作品だけでなく、「なぜこの展覧会が生まれ、なぜ今も続いているのか」という歴史も一緒に見ると、会場の見え方が変わります。
美術団体・公募展シリーズ
日本の美術団体・公募展の全体像|日展|一水会・一水会展|二紀会・二紀展

