光風会とは?白馬会から始まった光風会展の歴史と絵画・工芸の特徴を初心者向けに解説

光風会創立者・中澤弘光が1907年に描いた油彩画《夏》

「光風会」という名前を見て、どんな美術団体なのかすぐ分かる人は多くないかもしれません。

光風会は1912年(明治45年)、黒田清輝らの白馬会が解散した後、その流れを受けた若い洋画家・図案家7人によって創立された公募美術団体です。

現在の光風会展には、

  • 絵画
  • 工芸

の2部門があります。

創立者には中澤弘光、山本森之助、三宅克己、杉浦非水らが名を連ねました。

興味深いのは、光風会が創立時から「新しい○○主義」を看板に掲げた団体ではなかったことです。

1912年の設立趣意書では、自分たちを「春が来て無意識に咲いた野の草花」にたとえ、「隠れた無名の花を自由に紹介する広い花園」を開拓したいと説明しました。

この「特定の主義よりも、作品と作家を育てる場をつくる」という姿勢が、光風会の長い歴史を理解する鍵になります。

この記事では、白馬会から光風会が生まれた理由、創立者たち、具象表現の展開、図案部から工芸部への発展、戦争と戦後、現在の公募制度、そして2026年第112回光風会展までを初心者向けに整理します。

日本の主要な美術団体・公募展の全体像は、日本の美術団体・公募展の歴史と違いで整理しています。

光風会とは?まず30秒で分かる

光風会は1912年に創立された公募美術団体です。

現在の正式名称は一般社団法人光風会。

主な部門は、

  • 絵画
  • 工芸

です。

毎年春に「光風会展」を開催し、一般からも作品を募集しています。

2026年には第112回光風会展が東京・六本木の国立新美術館で開催されました。

光風会公式は、創立以来の特色として、後進の育成、和を尊ぶ精神、謙虚に作品と向き合う姿勢、穏健と品位、多彩な具象表現などを挙げています。

前身の白馬会とは?

光風会の歴史を理解するには、まず「白馬会」を知る必要があります。

白馬会は1896年、黒田清輝らを中心に結成された洋画団体です。

黒田清輝はフランスで学び、明るい屋外光を重視する外光派の表現を日本へ広めました。

白馬会には多くの洋画家が参加し、明治後期の洋画界で大きな影響力を持ちます。

しかし1911年、白馬会は解散しました。

その後、旧白馬会の若い作家たちが新しい発表の場として立ち上げたのが光風会です。

1912年、7人が光風会を創立

光風会公式が挙げる発起人は、

  • 中澤弘光
  • 山本森之助
  • 三宅克己
  • 杉浦非水
  • 岡野栄
  • 小林鍾吉
  • 跡見泰

の7人です。

洋画家だけではなく、後に日本の近代デザイン史で重要な存在となる杉浦非水が含まれている点も注目できます。

光風会創立者・中澤弘光が1907年に描いた油彩画《夏》
中澤弘光《夏》、1907年。東京国立近代美術館所蔵/Wikimedia Commons(Public Domain)

中澤弘光は光風会創立者の一人です。

《夏》は光風会創立以前、白馬会で活動していた時期の作品で、第1回文展に出品されました。

明るい色彩や人物表現を見ると、光風会が白馬会の外光派・印象主義系洋画の流れを背景に生まれたことを具体的に理解できます。

設立趣意書が面白い|「特別な主張はありません」

1910年代の美術団体は、新しい団体をつくる際に「自分たちは何を目指すか」という主張を掲げることが珍しくありませんでした。

ところが光風会の設立趣意書は、逆の方向から始まります。

光風会には「何等特別の主張とか抱負と云ふ所謂看板なるものがありません」と書かれています。

もちろん、これは何も考えていなかったという意味ではありません。

むしろ、「自分たちだけの閉じた花壇をつくるのではなく、無名の作家を自由に紹介できる広い花園をつくる」ことを重視していました。

特定の芸術運動への参加資格よりも、展覧会そのものを新しい作家が育つ場にする。

これが光風会の出発点でした。

第1回光風会展は上野・竹之台陳列館

第1回光風会展は1912年6月9日から29日まで、上野の竹之台陳列館で開催されました。

この第1回展では「今村奨励賞」が設けられています。

光風会公式は、これを展覧会における授賞制度の早い例として紹介しています。

つまり、創立時から光風会展は「既成作家の発表」だけではなく、新しい出品者を評価し、次の作家を育てる場として設計されていました。

白馬会から出発し、1930年代にモダニズムへ

光風会は白馬会系の外光派・印象主義的な洋画から出発しました。

その後、光風会は具象を基盤にしながら表現を更新していきます。

光風会公式の歴史では、昭和期に入ると、自然をそのまま描写するだけではなく、「主観を加味した造形的・構成的な具象」を目指すモダニズムが加わったと説明しています。

つまり光風会は、具象を基盤にしながらも、構図・色彩・造形を更新していきました。

現在も光風会は「多彩な具象表現」を団体の特色として説明しています。

ただし、会全体を一つの画風で固定するのは適切ではありません。

図案から工芸へ

杉浦非水と「図案室」

光風会の歴史で他団体と比べて面白いのが、工芸部への展開です。

創立者の一人・杉浦非水は、日本の近代グラフィックデザインを代表する図案家です。

1930年代に光風会展では、ポスター、壁掛、屏風などの図案作品が増えていきました。

1934年、第10室に「図案室」を設け、図案部が発足します。

この図案部が、現在の工芸部へつながる源流です。

1940年、現在につながる工芸部を設置

1940年、光風会は「工芸部」を設置しました。

これにより、洋画中心だった光風会は、絵画と工芸を並べる総合的な公募団体へ発展します。

現在の工芸部では、陶器、磁器、漆芸、紙芸、金工、染、織、刺繍、人形、ガラス、七宝、木竹、皮革など、幅広い作品を募集しています。

現在の光風会展で工芸部を見ると、1930年代の図案室から約90年かけて分野が広がったことが分かります。

帝展改組と光風会|1930年代の美術界の混乱

1935年の帝展改組は、光風会にも大きな影響を与えました。

当初、光風会は白日会などとともに新帝展への反対・不出品を表明します。

しかし1936年、官展制度が再び見直される中で新文展支持へ転じました。

この方針に反対した猪熊弦一郎、小磯良平、脇田和らは光風会を離れ、新制作派協会、現在の新制作協会の創立へ進みます。

つまり、光風会 → 新制作協会という直接的な人の移動も、日本美術団体史の中にあります。

美術団体は互いに孤立して存在しているのではなく、制度への考え方や作家の移動を通じてつながっています。

戦争で1945年は休催

光風会展は戦時中も第31回展まで開催されました。

しかし1945年は、美術展覧会取扱要綱などの影響で休催となります。

1946年、第32回展を開催。

ただし、この年は非公募展でした。

戦後の再出発時は絵画・工芸合わせて139点だったと公式略史に記録されています。

その後、出品数は急速に増え、1950年代後半には絵画800点台、工芸150点台に達しました。

長く光風会展など公募展の主要会場となった旧東京府美術館
旧東京府美術館(後の東京都美術館旧館)/国立国会図書館・Wikimedia Commons(Public Domain)

戦後の組織再建と全国団体化

1952年、独自の「光風会館」を持つ

光風会の組織史で特徴的なのが、自前の会館を持ったことです。

1951年に組織改正を行い、中澤弘光を初代理事長に選出。

翌1952年、「光風美術会館」を完成させました。

光風会公式は、国内の美術団体が独自会館を所有する早い事例として説明しています。

会館は単なる事務所ではなく、研究・交流・運営の拠点となりました。

現在の光風会館は東京都豊島区要町にあります。

1956年、社団法人化

1956年、光風会は社団法人として認可されます。

現在は一般社団法人光風会です。

戦後の出品数拡大に対応し、地方連絡所も整備され、全国規模の美術団体として組織を強めていきました。

現在の光風会展と公募制度

一般公募の仕組み

光風会展は公募展です。

2026年第112回展では、絵画・工芸の2部門で一般作品を募集しました。

絵画は油彩、水彩、版画など。

工芸は陶磁、漆、染織、金工、木竹、ガラスなど幅広い分野が対象です。

2026年は1人2点以内。

一般出品料は12,000円でした。

さらに、学生と40歳以下は出品料無料という制度が設けられています。

若い作家が公募展へ参加しやすくする仕組みとして注目できます。

応募作品は光風会が定める審査員によって鑑・審査され、入選作品が展示されます。

光風賞・光風工芸賞と新人育成

第112回光風会展では、一般出品作品に対して、光風賞、光風工芸賞、光風奨励賞などが設けられました。

また会員作品には文部科学大臣賞、東京都知事賞、光風会会員賞など複数の賞があります。

賞の名称・構成は年度で変わることがあるため、恒久的な固定制度と考えるのではなく、毎年の要項を見る必要があります。

重要なのは、1912年の第1回展から現在まで「次の作家を評価して育てる」という機能が光風会展に存在していることです。

2007年から国立新美術館へ

長く東京都美術館などで開催されてきた光風会展は、2007年から国立新美術館へ会場を移しました。

現在の光風会展が開催される東京・六本木の国立新美術館
光風会展の東京会場・国立新美術館。撮影:Yo Hibino/Wikimedia Commons(CC BY 2.0)

現在は国立新美術館の大きな公募展示室を使って、絵画・工芸を展示しています。

2026年第112回光風会展

2026年の第112回光風会展は、2026年4月15日~4月27日に国立新美術館で開催されました。

休館日は4月21日。

使用展示室は1A・1B・1C・1Dです。

東京展後には名古屋・京都・広島へ巡回しました。

また、会員や受賞者による作品解説をWeb上で公開するなど、鑑賞者向けの情報発信も行われています。

※第112回展はすでに終了しています。本記事は光風会そのものを説明する恒久記事であり、現地訪問レポートではありません。

初めて光風会展を見るなら

1. 具象表現の幅を見る

人物、風景、静物など、具象を基盤にしながら作家ごとの構成・色彩の違いを見ると、光風会の幅が分かります。

2. 絵画だけでなく工芸を見る

光風会は洋画団体として始まりましたが、現在は工芸部を持ちます。

陶磁、染織、漆、ガラスなどを見ることで、現在の光風会全体を理解できます。

3. 受賞作を見る

光風賞、光風工芸賞などを見ると、その年に一般出品からどのような作品が評価されたか分かります。

4. 「無名の花を紹介する花園」という創立理念を意識する

1912年の設立趣意書は、無名の作家を紹介する場をつくることを重視しました。

現在の一般公募と若手向け出品料制度を見ると、この考え方との連続性が見えてきます。

二科会・新制作協会・白日会と何が違う?

団体主な歴史上の起点現在の主な分野
光風会1912年、白馬会解散後に旧会員7人が創立絵画・工芸
二科会1914年、文展洋画部に第二科を求める運動から独自展絵画・彫刻・デザイン・写真
新制作協会1936年、帝展改組後の官展参加をめぐる対立から創立絵画・彫刻・スペースデザイン
白日会1924年、中澤弘光らが創立絵画・彫刻

特に光風会と新制作協会の間には、1936年に猪熊弦一郎、小磯良平らが光風会から新制作派協会へ移った歴史があります。

まとめ|光風会は「主義の看板」より、作家が育つ花園をつくった

光風会は1912年、白馬会解散後に中澤弘光、山本森之助、三宅克己、杉浦非水ら7人が創立しました。

設立趣意書で掲げたのは、新しい流派名ではありません。

「隠れた無名の花を自由に紹介する広い花園」をつくることでした。

白馬会系の洋画から出発し、昭和期にはモダニズムを取り入れた具象表現へ発展。

1934年には図案部、1940年には工芸部を設け、現在は絵画・工芸の二本柱となっています。

光風会展を見るときは、「光風会らしい一つの画風」を探すより、「100年以上続く団体が、どのように具象表現と新しい作家を受け入れてきたのか」を見ると、その歴史が理解しやすくなります。

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参考文献