渋沢栄一が形づくった東京|日本橋・兜町・王子・飛鳥山を歩く

渋沢栄一と日本橋・兜町・王子・飛鳥山の近代東京を描いたアイキャッチ画像 雑学
渋沢栄一がつくった東京

東京の街には、江戸から受け継いだ地形や寺社、町割りだけでなく、明治以降につくられた銀行、会社、工場、公共施設の記憶が重なっています。日本橋の銀行、兜町の証券市場、王子の製紙工場、銀座を照らしたガス灯、内幸町の帝国ホテル、深川の倉庫と住宅、飛鳥山の邸宅。これらを一つの物語として結ぶ人物が、渋沢栄一です。

ただし、東京は渋沢ひとりが「つくった」都市ではありません。明治政府や東京府、商人、他の実業家、技術者、労働者、株主、預金者、地域住民、海外から招かれた専門家など、多くの人々の仕事によって近代都市は形づくられました。本章でいう「渋沢栄一が形づくった東京」とは、渋沢を唯一の創造者とみなす表現ではなく、彼の活動を手がかりに、都市を動かす制度と事業のつながりを読み解くという意味です。

渋沢の特徴は、会社の数ではなく、異なる分野を横断して人と資金を結び、事業を長く続く組織へ育てようとした点にあります。銀行、証券市場、製紙、ガス、ホテル、地域自治、福祉。本章では、日本橋・兜町、王子・飛鳥山、深川を歩きながら、その仕組みをたどります。

【図版挿入予定1】渋沢栄一と近代東京の全体地図
日本橋・兜町、深川、内幸町、王子、飛鳥山を一枚の地図に示し、「銀行・証券」「物流・居住」「ホテル」「製紙」「邸宅・社会事業」の関係を表示する。書籍では本章の扉図として使用。

血洗島からパリへ――二つの経験を持つ実業家

渋沢栄一は1840(天保11)年、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれました。渋沢家は農業を基盤としながら、藍玉の製造・販売や養蚕も営んでいました。栄一は家業を手伝うなかで、原料の仕入れ、製造、販売、帳簿、取引相手との交渉を経験します。一方では父や従兄の尾高惇忠から学問を受け、「論語」をはじめとする漢籍に親しみました。商いの実務と、社会のあり方を考える学問。この二つが、後の活動の基礎になりました。1

若い渋沢は、はじめから穏健な実業家だったわけではありません。幕末には尊王攘夷思想の影響を受け、高崎城の乗っ取りを計画したこともあります。計画を中止した後は京都へ向かい、やがて一橋慶喜に仕えました。一橋家では家政や財政の改善に力を発揮し、1867(慶応3)年には徳川昭武に随行してパリ万国博覧会へ赴きます。

ヨーロッパで渋沢が目にしたのは、鉄道やガス灯といった目に見える技術だけではありませんでした。銀行が信用をつくり、株式会社が多数の出資者から資本を集め、取引所が証券を売買する。都市の建物や道路の背後に、資金を集めて事業を動かす制度があることを知りました。ただし、渡欧経験だけから後の事業が一直線に生まれたと考えるべきではありません。帰国後の静岡での商法会所、大蔵省での制度づくり、国内の商人や官僚との協働を通じて、経験は具体的な構想へ変わっていきました。

【図版挿入予定2】渋沢栄一の転換点を示す年表
1840年の誕生、1867年の渡欧、1873年の大蔵省退官と第一国立銀行、1878年の東京株式取引所、1885年の東京瓦斯会社、1890年の帝国ホテル、1901年の飛鳥山本邸、1931年の死去を横長に配置する。

会社をつくる前に、資金を集める仕組みをつくる

明治初期の日本では、大規模な事業を継続的に運営する会社制度が、まだ社会に十分定着していませんでした。江戸時代の商家は高度な経営を行っていましたが、家や同族を中心とする経営と、多数の人が出資して専門の経営者が運営する株式会社とでは、資本の集め方が異なります。

渋沢は、多くの人から資金を集め、適切な人材が共同で事業を運営する方法を「合本」と表現しました。現在の株式会社と完全に同じ意味ではありませんが、身分や家柄を越えて人材と資本を結び、社会に必要な事業を起こす発想です。銀行は、その資金を集めて流す基盤になります。

渋沢の名が数多くの企業史に現れるのは、すべての会社を自分で経営したからではありません。設立構想をまとめる、出資者を集める、政府と交渉する、役員を選ぶ、経営危機を調整する、適任者へ仕事を引き継ぐ。関わり方は事業ごとに異なりました。この違いを見分けることが、渋沢を英雄にも万能の創業者にもせず、歴史上の実務家として理解する第一歩です。

日本橋・兜町――信用と市場が集まった街

江戸時代から商業の中心だった日本橋は、明治になると近代金融の中心という性格を加えていきます。日本橋川沿いには商人や問屋が集まり、兜町には第一国立銀行と東京株式取引所が置かれました。現在の街を歩くと、銀行と証券市場がごく近い範囲に集まった理由が見えてきます。

第一国立銀行――日本初の近代的銀行

1873(明治6)年、国立銀行条例に基づいて第一国立銀行が設立されました。「日本で最初の銀行」とだけ表現すると、江戸時代の両替商など、それ以前の金融活動を見落とします。より正確には、株式会社組織を採用し、国立銀行条例の下で営業した日本初の近代的銀行です。2

「国立銀行」という名称ですが、国が直接経営する銀行ではありません。政府の制度に基づいて設立された民間銀行で、一般の銀行業務に加えて官金の出納なども担いました。渋沢は1873年6月に総監役へ就任し、役員を調整しながら事実上の経営責任者となります。1875(明治8)年8月の組織改革で総監役が廃止されると、正式に頭取へ就任しました。3

第一国立銀行は、開業直後から順風満帆だったわけではありません。大株主の一つだった小野組が1874年に破綻し、銀行は存続の危機に直面しました。渋沢らは資本金や組織を見直し、業務を整理して再建を進めます。近代銀行の成立は、制度を輸入して看板を掲げるだけではなく、信用不安や経営危機に対処する試行錯誤の過程でもありました。

東京株式取引所――出発点は公債市場

1878(明治11)年、渋沢栄一と公債取引の有力者だった今村清之助らによって東京株式取引所が設立され、6月1日に取引を始めました。現在の名称から、当初から企業の株式を売買する市場だったように思えますが、最初の上場物件は公債でした。

1876年の秩禄処分により、華族・士族へ金禄公債が交付されると、その売買が活発になります。取引を安定させる公的な市場が求められたことが、取引所設立の重要な背景でした。株式が上場されたのは開業後で、1878年末までに第一国立銀行、東京株式取引所、兜町米商会所、蛎殻町米商会所の4社が上場しました。4

銀行は預金や貸し付けを通じて信用を生み、取引所は公債や株式を売買できる市場を整えます。両者は役割が違いますが、資金を社会の中で動かすという点で結びついていました。兜町が金融街になったのは、一つの偉大な建物があったからではなく、銀行、取引所、仲買人、商人、情報が狭い地域に集中したからです。

【図版挿入予定3】日本橋・兜町の近代金融地図
日本橋、海運橋跡、第一国立銀行本店跡、兜神社、東京証券取引所、鎧橋跡、茅場町駅を示す。江戸期の商業地と明治期の金融施設を色分けする。

王子――紙がなければ近代国家は動かない

近代化という言葉からは、鉄道、機械、煉瓦建築が連想されます。しかし、国家や企業の日常を実際に動かした素材の一つは紙でした。法令、官報、契約書、帳簿、紙幣、株券、新聞、教科書。行政が拡大し、会社と学校が増えるほど、安定した洋紙の供給が必要になります。

渋沢は大蔵省にいた時期から、紙幣や印刷物に使う洋紙の国産化を課題として捉えていました。1872年に抄紙会社の設立を出願し、翌1873年に会社が発足します。1875年には東京・王子の工場が竣工し、1876年に製紙会社、1893年に王子製紙へ改称しました。5

創業時の原料は木材ではなく、主にぼろ布でした。海外から機械と技術を導入し、品質を安定させ、輸入紙と競争する必要がありました。洋紙の国産化は、一人の発案者だけでは実現しません。技術者、職工、原料を集める人、販売先を開拓する人、損失に耐える出資者が必要でした。

王子で生産された紙は、王子だけで完結する商品ではありません。日本橋の銀行で帳簿や証券となり、新聞社でニュースを運び、学校で教科書となり、官庁で行政文書となりました。紙の歴史をたどると、産業史、金融史、教育史、メディア史が一つにつながります。

【図版挿入予定4】王子製紙工場と「紙が支えた社会」の図
中央に王子工場を置き、周囲へ「新聞」「学校」「銀行」「行政」「出版」をつなぐ。可能であれば創業期の王子工場写真と現在地図を組み合わせる。

東京ガスと帝国ホテル――夜を照らし、世界を迎える

都市は、建物が増えるだけでは近代都市になりません。活動できる時間を延ばす照明、人を安全に迎える宿泊施設、国内外の人が交渉できる場も必要です。東京ガスと帝国ホテルは、その二つの機能を象徴しています。

東京ガス――公共事業を継続できる会社へ

東京のガス事業は、1870年代には東京府の事業として運営されていました。渋沢は1874年から関与し、1876年には東京府瓦斯局長となります。経営改善の見通しが立った1885(明治18)年、事業の民営化によって東京瓦斯会社が設立されると、渋沢は創業時の最高責任者である委員長に就任しました。その後も1909年に取締役会長を退くまで、長く事業に関わりました。6

明治初期のガス事業でまず注目されたのはガス灯です。街路や建物に明かりがともれば、商店や交通の活動時間が延び、夜の街の安全にも影響します。のちにガスの用途は調理や暖房などへ広がりますが、出発点では「都市の夜を支える」ことが大きな役割でした。

ここでも重要なのは、公共性と採算性の両立です。必要だからといって、赤字のままでは設備の維持や拡張ができません。逆に、利益だけを優先すれば、都市インフラとしての責任を果たせません。東京瓦斯会社の成立は、公共事業を民間企業として継続させる試みでした。

帝国ホテル――「日本の迎賓館」を経営する

明治政府が条約改正を目指すなか、外国の賓客を迎えられる宿泊施設の整備は、外交上の課題でもありました。外務卿の井上馨は渋沢栄一や大倉喜八郎らへ大規模ホテルの建設を働きかけ、宮内省や民間の出資によって計画が進められます。帝国ホテルは1890(明治23)年に開業しました。

渋沢は設立発起人の一人であり、初代会長として開業後19年間、経営を担いました。7 ホテルは単なる宿泊施設ではありません。外交、商談、社交、文化交流の舞台であり、外国人が東京と日本を経験する窓口です。帝国ホテルの歴史は、東京が国内の政治・経済の中心であるだけでなく、国際都市としての機能を整えていく過程を示しています。

【図版挿入予定5】ガス灯と初代帝国ホテル
左に明治期のガス灯が描かれた錦絵、右に初代帝国ホテルの写真または図面を配置し、「都市の活動時間」と「国際的な迎賓」の二つの機能を対比する。権利処理済み画像を使用する。

深川――実業家が暮らした物流の街

1876(明治9)年、渋沢は深川福住町、現在の江東区永代2丁目に居を構えました。1888年に日本橋区兜町へ転居するまで、12年間をこの地で暮らします。深川邸の表座敷は1878年に建てられ、移築を重ねた旧渋沢家住宅の一部として現在も保存されています。

深川は江戸時代以来、水運、倉庫、木材、米などの流通を支えた地域でした。隅田川と運河を使って大量の物資が動くこの街に住んだことは、渋沢の事業活動を考えるうえで示唆的です。銀行や会社の制度は、帳簿の中だけで動くのではありません。原料と製品を保管し、船や荷車で運び、働く人々の手へ渡す物流の現場が必要です。

渋沢は兜町へ転居した後も深川との関係を保ち、1889年から1904年まで深川区会議員と区会議長を務めました。また、深川区教育会にも関わり、1897年には当地で澁澤倉庫部を創業します。8 全国規模の企業を組織する一方で、居住地域の自治、教育、物流にも関与していたことが分かります。

深川は、渋沢を「上から東京を設計した人」としてではなく、都市の一地域に住み、地域の課題と向き合った住民として見る場所です。

【図版挿入予定6】深川福住町と物流網
旧渋沢邸跡、永代橋、隅田川、旧河川・堀、倉庫地域を示す地図。可能であれば旧渋沢家住宅表座敷の写真を添える。

養育院――経済成長だけでは都市は支えられない

渋沢を企業の設立者としてだけ捉えると、活動の半分を見落とします。彼は教育、福祉、医療、民間外交にも長く関わりました。その代表が養育院です。

養育院は、明治初期の東京で困窮者、病者、孤児、高齢者、障害者などを保護した施設でした。資金には、江戸時代の松平定信による七分積金を受け継いだ共有金が使われました。つまり、養育院は渋沢が一から発明した私的慈善施設ではなく、江戸の救済制度を明治の東京へ引き継いだ公共事業でもあります。

渋沢は1874年から運営に関わり、1876年に養育院事務長へ任命されました。1890(明治23)年に養育院が東京市営となった際には養育院長に就任し、1931年に亡くなるまで運営を支えました。廃止論が起きた時期にも存続を訴え、分院や専門施設の整備を進めています。9

近代都市は、企業と市場が発展すれば自動的にすべての人を豊かにするわけではありません。急速な人口移動や景気変動、病気、失業、高齢化によって、生活の基盤を失う人も生まれます。渋沢が経済活動と福祉の双方へ関わったことは、彼の「道徳経済合一」という考え方を理解する手がかりになります。

ただし、養育院の成果も渋沢一人に帰することはできません。東京府・東京市の行政、職員、医師、看護・介護に携わった人々、寄付者、地域社会によって施設は運営されました。渋沢は、そのなかで資金と組織を支え、存続へ責任を負った中心人物でした。

【図版挿入予定7】養育院の系譜
七分積金 → 営繕会議所・東京会議所 → 養育院 → 東京都の福祉・医療施設、という制度の流れを年表化する。渋沢の役職は「1876年事務長」「1890年院長」と明示する。

飛鳥山――産業、邸宅、民間外交が重なる場所

渋沢は1877(明治10)年に飛鳥山の土地を購入し、1879年から別荘として利用しました。1901年には本邸とし、1931年に亡くなるまで暮らします。近くには、自ら設立に関わった製紙会社の王子工場がありました。10

飛鳥山邸は住まいであると同時に、多くの人を迎える場所でした。企業関係者、政治家、教育者、社会事業家、外国の賓客が訪れ、会合や交流が行われます。渋沢が晩年に力を入れた民間外交も、こうした人的なネットワークの上に成り立っていました。

邸宅の主要建物の多くは1945年の空襲で失われましたが、晩香廬と青淵文庫が現存しています。晩香廬は渋沢の喜寿を祝って清水組から贈られた談話室、青淵文庫は傘寿と子爵への陞爵を記念して贈られた小図書館です。二棟は建築家・田辺淳吉の設計による大正期の建築で、国の重要文化財に指定されています。11

飛鳥山から王子を歩くと、邸宅と工場、庭園と鉄道、江戸以来の行楽地と明治の産業地域が近接していることに気づきます。渋沢の人生を展示で振り返るだけでなく、近代東京が異なる時代と機能を重ねて成長したことを、地形として理解できる場所です。

【図版挿入予定8】飛鳥山・王子の散歩地図と文化財
王子駅、飛鳥山公園、渋沢史料館、晩香廬、青淵文庫、紙の博物館、旧王子製紙工場周辺を示す。晩香廬と青淵文庫は現地写真を別枠で掲載する。

渋沢栄一を過大評価せず、過小評価もしない

渋沢がいなければ、東京の近代化が起きなかったと断定することはできません。同時代には大倉喜八郎、益田孝、安田善次郎、岩崎家、三井家をはじめ、多くの実業家が活動していました。明治政府と東京府は法制度や公共事業を進め、外国人技術者と日本人技術者が技術を移転し、名も残りにくい職工や労働者が工場や都市を実際に築きました。

一方で、渋沢を単なる名義上の発起人とみなすのも正確ではありません。第一国立銀行では危機対応を含む経営を担い、東京ガスと帝国ホテルでは長期間にわたり責任ある役職を務め、養育院では半世紀を超える関与を続けました。事業ごとの関与の深さを確かめると、渋沢の役割は「何でも一人でつくった創業者」ではなく、異なる立場の人々を結び、制度を組織へ変え、事業を存続させる調整者・経営者だったと見えてきます。

都市の機能 事業・場所 渋沢の主な関わり 共同した主な主体
信用と決済 第一国立銀行 総監役、頭取 三井組、小野組、銀行役職員、政府
公債・株式市場 東京株式取引所 設立発起人 今村清之助、商人、仲買人、政府
洋紙の国産化 抄紙会社・王子製紙 設立計画、株主総代、会長 出資者、技術者、職工、販売先
都市エネルギー 東京瓦斯会社 委員長、取締役会長 東京府、技術者、従業員、利用者
国際的な迎賓 帝国ホテル 発起人、初代会長 井上馨、大倉喜八郎、宮内省、従業員
地域自治と物流 深川区・澁澤倉庫部 区会議員・議長、創業 地域住民、区会、商工業者
社会福祉 養育院 事務長、院長 東京府・東京市、職員、医療・福祉関係者

【図版挿入予定9】「渋沢一人」ではなく「ネットワーク」で見る近代東京
中央に渋沢を置く人物相関図ではなく、政府・自治体、出資者、経営者、技術者、労働者、利用者、地域社会を円環状に置き、各事業が複数主体の協働で成立したことを示す。

街を歩いて読む二つのコース

渋沢ゆかりの東京は広く、一日で全部を回るより、二つの地域に分けて歩く方が歴史のつながりを理解しやすくなります。以下の距離と時間は街歩きの目安です。施設の開館日、料金、見学条件は変更されるため、訪問前に公式情報を確認してください。

日本橋・兜町――江戸の商業から近代金融へ

日本橋駅を出発し、日本橋、旧第一国立銀行本店跡周辺、兜神社、東京証券取引所、鎧橋跡を経て茅場町駅へ向かいます。歩行距離はおよそ2キロです。建物の現存状況だけでなく、日本橋川、水運、橋、銀行、取引所の距離に注目すると、江戸の商業地の上に明治の金融街が形成されたことが分かります。

王子・飛鳥山――製紙産業と晩年の邸宅

王子駅から飛鳥山公園へ入り、紙の博物館、旧渋沢庭園、晩香廬、青淵文庫、渋沢史料館を巡ります。歩行距離はおよそ1.5キロですが、博物館見学を含めると半日を見ておくとよいでしょう。製紙工場の記憶、渋沢の住まい、接客と民間外交の場、江戸以来の桜の名所が、同じ地域に重なっています。

【図版挿入予定10】二つの街歩きコース
A「日本橋・兜町」とB「王子・飛鳥山」を別図で掲載する。駅、主要地点、歩行距離、標準所要時間、見学施設を明記し、本文を読まずとも歩ける実用図にする。

まとめ――東京を「仕組みの歴史」として見る

東京の歴史を歩くとき、私たちは城、寺社、古い道、坂、橋に目を向けます。そこへもう一つ、「都市を動かす仕組み」という視点を加えると、明治以降の東京が違って見えてきます。

第一国立銀行は信用と資金を流し、東京株式取引所は公債と株式を売買する市場を整えました。王子の製紙工場は、行政、教育、報道、企業活動に必要な紙を供給しました。東京ガスは都市の夜を支え、帝国ホテルは海外から来る人々を迎えました。深川では住居、物流、地域自治が交わり、養育院は市場だけでは支えられない人々を受け止めました。飛鳥山は、産業、住まい、文化、民間外交が重なる場所でした。

これらは渋沢栄一ひとりの作品ではありません。それでも渋沢の足跡をたどることで、会社、行政、地域社会を結ぶ人の役割が見えてきます。渋沢が形づくろうとしたのは、立派な建物の集合ではなく、人と資金が集まり、社会に必要な事業が続いていく仕組みでした。

日本橋、兜町、深川、王子、飛鳥山を歩くとき、記念碑に刻まれた一人の名前だけでなく、その背後で働いた人々と制度にも目を向けてみてください。東京は、江戸の城下町を消して一からつくられたのではありません。江戸の商業、水運、救済制度、行楽地の上に、金融、産業、福祉、国際交流の機能を重ねながら、近代都市へ変化していったのです。


  1. 公益財団法人渋沢栄一記念財団「渋沢栄一略歴」。
  2. 公益財団法人渋沢栄一記念財団「私ヲ去リ、公ニ就ク――渋沢栄一と銀行業――」。
  3. 株式会社第一銀行『第一銀行年表』1942年。1873年6月12日、1875年8月1日の項。
  4. 株式会社日本取引所グループ「株式取引所開設140周年」。
  5. 王子ホールディングス株式会社「沿革」および公益財団法人渋沢栄一記念財団「製紙業」。
  6. 東京ガス株式会社「渋沢栄一とガス事業――『公益追求』実践の軌跡」。
  7. 株式会社帝国ホテル『写真で綴る 帝国ホテル初代会長 渋沢栄一』2024年、6頁。
  8. 江東区「渋沢栄一宅跡」および江東区『深川と渋沢栄一』2025年。
  9. 地方独立行政法人東京都健康長寿医療センター「センターの歴史」。
  10. 東京都北区「渋沢栄一と北区の関わり」。
  11. 文化遺産オンライン「旧渋沢家飛鳥山邸 青淵文庫」および渋沢史料館「施設概要」。

主要参考文献

  • 渋沢青淵記念財団竜門社編『渋沢栄一伝記資料』本編58巻・別巻10巻、渋沢栄一伝記資料刊行会/渋沢青淵記念財団竜門社、1955~1971年。
  • 第一銀行八十年史編纂室編『第一銀行史 上巻・下巻』第一銀行八十年史編纂室、1957年。
  • 王子製紙株式会社編『王子製紙社史――1873-2000 本編』王子製紙株式会社、2001年。
  • 江東区地域振興部文化観光課文化財係編『深川と渋沢栄一』江東区、2025年。
  • 渋沢栄一述・梶山彬編『論語と算盤』東亜堂書房、1916年。

ウェブ資料の最終確認日:2026年6月29日。図版挿入予定の記載は、本文完成後の編集・権利処理・デザイン作業のために残しています。