八芳園の歴史と見どころ

株式会社八芳園が経営する1万2000坪の敷地内に庭園のあるレストラン・結婚式場。明治学院大学、シェラトン都ホテル東京と近接している。庭園の名称は「四方八方どこを見ても美しい」に由来する。

八芳園の歴史

江戸時代
譜代の江戸幕府旗本・大久保忠教(彦左衛門)の屋敷(園全域ではなく一部)であったが、その後薩摩藩の抱屋敷、島津家(松平薩摩守)の下屋敷

明治時代
渋沢喜作の手に渡る。

大正時代
実業家・久原房之助邸宅となり、1915年(大正4年)に現在の建物と庭園が整備された。戦後久原(当時公職追放中)は、銀座や築地で料亭などの経営を手がけていた長谷敏司に本格的な料亭の共同経営を持ちかけ、八芳園と命名して1950年(昭和25年)に創業した。その後、長谷の所有となった。

庭園の見どころと解説

八芳園公式ページより引用

庭園
「樹」「石」「水」「土」の配置によって、あるがままの自然を再現している。樹齢500年以上の逸品が揃った盆栽をはじめ、かつての面影が残るように移築された夢庵、霞峰庵の茶室など、歴史的な建物や遺物がバランスよく配置されている。


その昔、この付近の丘陵地帯に沼があり、そこから流れていた川の跡を池にしたものです。昔は、農業用水として使われており、池の上方には水車小屋があったとも言われています。現在では、越冬で飛来する水鳥たちが羽を休める、憩いの場にもなっています。

正門
威風堂々とした門構えで、皆様をお迎えする正門。『大名門』『庄屋門』の中間様式によって、明治の初めに建造されました。建造当初は草葺屋根でしたが、震災にあい、現在は瓦屋根の姿となっています。

壺中庵(こちゅうあん)
日立製作所の創設に関わった久原房之助の私邸として造られた建物。 ”壺中庵”という名前は「壺の中には仙人が住む楽園がある」という中国の言い伝えから名付けられました。庭には、初代の主である大久保彦左衛門が使えた徳川家光公から直々に下賜されたと伝えられる山茱萸(さんしゅゆ)の木が今も残されています。

2022年5月23日、日米首脳会談のため来日していたアメリカ合衆国大統領のジョー・バイデンと、日本国首相の岸田文雄が八芳園を訪れ、敷地内の料亭「壺中庵」にて日米首脳の夕食会が催されました。

木戸門
庭園の入り口となっている木戸門は、武士道の 「礼に始まり礼に終わる」という言葉に則って作られました。 あえて低く作られた門をくぐると、自然とお辞儀をしながら進んでいくような設えになっています。 戸の上にかかる早咲きの河津桜は、2月中旬から下旬に見ごろとなり、庭園の中でも人気の撮影スポットです。

盆栽
いちばん長寿な真柏と蝦夷松は樹齢約525年を数えるほど、歴史ある盆栽が並ぶ盆栽通り。 真柏には「生と死」が共存し、生きる芸術と言われています。盆栽の多くは松ですが、中にはかりん・姫リンゴ・姫柿といった果物もあり、よく見ると季節を感じていただくことができます。

霞峰庵(かほうあん)
久原房之助の雅号『霞峰』から命名された茶室。現在は使用していませんが、少し覗いてみるとにじり口等、本格的なお茶室の姿を見ることができます。

角亭(かくてい)
八芳園の庭園には、角亭・六角亭・丸亭・水亭の4つの東屋(あずまや)が点在しています。中でも角亭は、窓枠がまるで額縁のように風景を切り取り、自然の風景を変化する絵画としてお楽しみいただけます。

水亭(すいてい)
その昔、現在の八芳園付近の丘陵地帯に沼があり、そこから流れてきた川の跡が池となりました。池を眼前に眺める水亭からは、優雅に泳ぐ錦鯉の姿や飛来する水鳥の姿をご覧いただくことができます。

夢庵(むあん)
横浜の生糸商人・田中平八が造ったものを久原房之助が買い受け、「解体すると造りが狂う」という考えから、解体せず丸ごと移築した茶室。移築をする際、運搬で邪魔になる電信柱を全て抜いたという逸話も残されています。 現在は、立礼席(りゅうれいせき)または畳にお座りいただく形式での呈茶(ていちゃ)サービスやお手前もお楽しみいただけます。

関連人物

大久保忠教(ただたか、1560-1639)
戦国時代から江戸時代前期の武将。江戸幕府旗本。通称は彦左衛門尉。俗に「天下のご意見番」として名高い。講談でも取り上げられる人物。

渋沢喜作(1838-1912)
渋沢成一郎とも。幕末から明治期の日本の実業家、豪農、攘夷運動家、武士。従弟の渋沢栄一らとともに攘夷運動をしていたが、後に一橋家に召し抱えられて徳川慶喜に仕える。箱館で敗北した後に官軍に逮捕された。1871年の出所後、渋沢栄一の推挙で大蔵省に出仕。渋沢栄一の援助で渋沢商店を創立。東京深川で回米問屋、神奈川横浜で生糸売込問屋を経営した。東京商法会議所設立発起人、深川正米市場初代総行事、東京商品取引所理事長、大日本人造肥料取締役なども務めた。

久原房之助(1869-1965)
日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。第一次世界大戦後の恐慌を機に政界へ進出。「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与した。戦後はA級戦犯容疑者(不起訴)となり、公職追放となった。

長谷敏司(1903-1991)
1903年、鳥取県八頭郡佐治村古市で生まれる。
1920年、奉公の後、料亭『明月楼』へ転職。
1931年、東京・銀座の『サロン春』に日本料理部主任として招かれ、上京。
1943年、銀座5丁目に大衆割烹『新金春』を開店し、独立。戦災で焼失するも料亭『山月』、社交喫茶『サロン新世界』、割烹旅館『数寄家』などを出店し事業を拡大。
1950年、共同経営により『八芳園』開業。
1951年、単独経営者になる。
1952年、所有者の久原房之助氏から八芳園を譲り受け、株式会社として正式に登記。

田中平八(1834-1884)
幕末・明治の相場師・実業家。開港直後の横浜を舞台に生糸・洋銀などの相場で大きな財を成して「天下の糸平」と称した。

信濃国伊那郡赤須村(三州街道赤須上穂宿、現在の長野県駒ヶ根市)に生まれる。生家は資産家であったが米と綿相場で失敗し没落。1864年(元治元年)には水戸の天狗党の乱に参加、捉えられ小伝馬町に投獄された。出牢後は横浜で車夫をした後、大和屋三郎兵衛のもとに身を寄せて生糸売込みの他、当時横浜で盛んだった洋銀の売買を始め、巨利を得て横浜有数の豪商となった。

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 会長
なかまつ

北海道大学工学部卒。だけどIT系会社員。美術館とお笑いが好き。海外旅行は年に6回行ってたがこのサークルをはじめから減少。隣が図書館のため毎月10冊の本を借りている。趣味の延長で東京の歴史や芸術を楽しむゆる〜いお出かけイベントを企画している。

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