大手町一丁目~二丁目ナイトウォーク|将門塚・大名屋敷・近代都市史を歩く

夜の大手町交差点を歩くゆる歴史散歩会の参加者

東京駅の北側、皇居の東に広がる大手町一丁目・二丁目は、日本を代表するオフィス街です。夜の高層ビル街を歩くと、足元には江戸城大手門へ続いた道、大名屋敷の跡、明治の官庁街、平将門を伝える将門塚、近代教育の発祥碑、戦後から続く都市再生の痕跡が重なっています。

今回のナイトウォークでは、常盤橋周辺から大手町一丁目へ入り、道三橋跡、越前福井藩邸跡、庄内藩酒井家上屋敷跡、箱根駅伝のスタート・フィニッシュ地点、大手町の森、日本歯科大学発祥の地、将門塚、和気清麻呂わけのきよまろ像、一橋徳川家屋敷跡などをたどりました。後半には、2025年2月24日の開催レポートとして当日の写真と現地で見たポイントを掲載しています。

江戸城三十六見附と大手門・常盤橋門・神田橋門の位置
江戸城の主要な見附。大手町は大手門の正面に位置し、常盤橋門・神田橋門など外郭の門とも近接していました。

今回のナイトウォークで巡る範囲

起点は大手町二丁目の常盤橋周辺です。そこから大手町一丁目へ向かい、江戸の水路と橋、大名屋敷、近代の官庁・教育、現代の都市再生までを一本の散歩ルートでつなぎます。現在の町名は大手町一丁目・二丁目ですが、江戸時代には道三町、銭瓶町、大名屋敷地などが入り組み、明治以降も官庁街から業務地区へ大きく姿を変えてきました。

東京都千代田区の行政地図と大手町の位置
大手町一丁目・二丁目は皇居の東側、東京駅の北西側に位置します。

大手町の歴史を時代順に見る

現在の大手町周辺は、江戸以前には平川の河口や日比谷入江に近い低地でした。徳川家康の江戸入府後、城下町整備が進み、道三堀などの水路が開かれ、埋め立てによって江戸城東側の都市空間が形づくられていきます。

江戸時代には江戸城の正門である大手門前に、老中・若年寄など幕政を担う大名の屋敷が集中しました。千代田区も、大手門前と大名小路に譜代大名の屋敷や幕府諸機関が置かれたことを、この地域の成り立ちとして紹介しています。大手町という地名も、大手門の前に位置することに由来します。

徳川将軍家と御三家の系図
江戸城周辺には徳川家に近い大名や幕府中枢を担う家の屋敷が集まりました。

明治維新後、大名屋敷の広い敷地は内務省、大蔵省、文部省、印刷局などの官庁用地へ転用されました。大手町は江戸の政治中枢から近代国家の官庁街へ役割を変え、戦後は官庁機能の移転と民間利用が進むなかで、金融、商社、報道、通信などの企業が集まる業務地区へ成長しました。

2000年代以降は、大手町合同庁舎跡地を種地として、建物を順番に建て替える「大手町連鎖型都市再生プロジェクト」が進みました。UR都市機構は、業務活動を中断せず老朽建物を連鎖的に更新する仕組みとしてこの再整備を進めています。江戸の大区画、明治の官庁街、現代の超高層ビルが同じ場所で連続している点が、大手町の都市史の大きな特徴です。

大手町二丁目|道三堀と常盤橋から江戸の入口を見る

道三堀どうさんぼりは、徳川家康の江戸入府後、江戸城へ物資を運ぶ水路として開削された堀です。現在の丸の内一丁目と大手町一丁目の境付近には道三橋が架かり、江戸城の建設と城下町の物流を支えました。堀は明治末に埋め立てられ、橋も姿を消しましたが、「道三橋跡」の表示が水路の位置を伝えています。

北へ進むと日本橋川と常盤橋周辺に出ます。常盤橋門は江戸城外郭の重要な門で、大手門へ通じる動線を押さえる場所でした。現在も石垣と橋が残り、超高層ビルが並ぶTOKYO TORCH周辺で江戸城外郭の輪郭を確認できます。常盤橋門跡の保存・整備は千代田区の史跡整備資料でも詳しく扱われています。

1871年に撮影された江戸城常盤橋門の古写真
常盤橋門、1871年。撮影:横山松三郎/Wikimedia Commons/パブリックドメイン。

越前福井藩邸と庄内藩酒井家|大手門前の大名屋敷

大手門前には有力大名の上屋敷が並びました。現在の大手町一丁目周辺には越前福井藩松平家の上屋敷があり、江戸城本丸へ向かう正面に近い一等地を占めていました。近隣には幕府中枢を担った大名家の屋敷が集中し、現在のオフィス街の大区画にも江戸期の土地利用の名残を感じられます。

神田橋寄りには庄内藩酒井家の上屋敷がありました。将門塚はこの酒井家屋敷内に位置していた時期があります。江戸の政治空間と将門信仰が、現在の大手町一丁目で隣り合っていたことが分かります。江戸期の屋敷配置は、正保年中江戸絵図で見る大手町・丸の内でも詳しく紹介しています。

将門塚|平安時代の伝承がオフィス街に残る

平将門たいらのまさかどは10世紀前半、関東で勢力を拡大した武将です。将門塚には、討たれた将門の首が京都から東国へ飛び、この地に落ちたという伝承が残ります。東京都は将門塚を旧跡として扱い、長く保存されてきました。

高層ビルの足元に小さな史跡空間が残る景観は、大手町の歴史の重なりを最も強く感じられる場所の一つです。将門塚の由来や神田明神との関係は、大手町の歴史をわかりやすく解説でさらに詳しく整理しています。

大手町の将門塚にある説明板と保存碑
将門塚の説明板と保存碑。写真:RuinDig/Yuki Uchida、Wikimedia Commons、CC BY 4.0。

近代の大手町|日本歯科大学発祥の地と都市の教育史

大手町一丁目には「日本歯科大学発祥の地」の碑があります。日本歯科大学の沿革によると、1907年6月、中原市五郎なかはらいちごろうが麹町区大手町に私立共立歯科医学校を創立しました。同校は同年10月に神田へ移り、その後、現在の日本歯科大学へ発展します。官庁街として知られる明治・大正期の大手町に、近代歯科教育の出発点もありました。

和気清麻呂像|皇居東側に立つ昭和の記念像

内堀通り沿いには和気清麻呂像があります。和気清麻呂は奈良時代の官人で、宇佐八幡宮神託事件で知られる人物です。現在の像は昭和期に建立されたもので、皇居東側の緑地と大手町の高層ビル群の間に立っています。古代史の人物像と現代のビジネス街が同じ視界に入る、大手町らしい景観です。

大手町の和気清麻呂像と丸紅本社ビル
和気清麻呂像と大手町の街並み。写真:Cambodia4kids.org Beth Kanter、Wikimedia Commons、CC BY 2.0。

箱根駅伝と大手町の森|現代の大手町を歩く

読売新聞東京本社前は、東京箱根間往復大学駅伝競走、いわゆる箱根駅伝のスタート・フィニッシュ地点として知られています。江戸城大手門前の政治空間だった場所が、正月の国民的スポーツイベントの舞台にもなりました。

一方、大手町タワーの足元に整備された「大手町の森」は、高層ビル街にまとまった緑地をつくる都市再生の試みです。大名屋敷、官庁街、企業本社街を経て、現在の大手町では防災性、歩行者空間、緑地を含めた都市更新が進んでいます。

一橋徳川家屋敷跡|御三卿と江戸城北側

御三卿ごさんきょうの一つ、一橋徳川家は8代将軍徳川吉宗の四男・宗尹むねただを祖とします。御三卿は田安・一橋・清水の三家で、江戸城内外の将軍家に近い位置に屋敷を構えました。一橋徳川家屋敷跡を訪ねると、大手町から一ツ橋にかけてが将軍家の政治空間と連続していたことが分かります。

大手町を歩くときに押さえたい3つの視点

  • 水辺の記憶:道三堀、日本橋川、常盤橋を結ぶと、江戸城建設と物流の経路が見えてきます。
  • 権力の中心:大手門前の大名屋敷、明治の官庁街、現代の企業本社街は、時代ごとに「中枢」が置かれた連続性を持っています。
  • 小さな史跡:将門塚、日本歯科大学発祥碑、一橋徳川家屋敷跡など、ビルの足元に残る碑や史跡が街の変化を具体的に伝えています。

日本橋川沿いの城門と河岸を続けて歩くなら、水道橋から日本橋まで日本橋川を歩くも関連します。大手門から江戸城内へ入る動線は、大名気分で皇居を歩く・江戸城登城ルートで詳しくたどれます。

TimeWalkで現在地から大手町の史跡を探す

TimeWalkは、現在地や指定地点の近くにある歴史スポットを地図で探し、自分で歴史散歩を楽しめるWebアプリです。大手町周辺でも、ビルの間に残る史跡を現在地から探せます。現在地から歩ける史跡を地図で探す

参考資料

2025年2月24日開催レポート|14名で歩いた大手町の夜

2025年2月24日18時30分から、「大手町一丁目~二丁目ナイトウォーク!大手町の全体像を感じながらどういう町か歴史と未来と一緒にみてみよう」を開催しました。参加者は14名。高層オフィスが灯る夜の大手町を歩きながら、江戸城の正門前に広がった大名屋敷の町、明治以降の官庁街、そして現代のビジネス街・都市再生へと続く土地の変化を現地で確かめました。

夜の大手町交差点を歩くゆる歴史散歩会の参加者
2025年2月24日の大手町ナイトウォーク。高層ビルが並ぶ夜の大手町を14名で歩き、現在の街並みと歴史の重なりをたどりました。

昼間は働く人の往来が多い大手町ですが、夜は建物の輪郭や街路の広がりが見えやすくなります。写真の大手町交差点周辺でも、現代の道路と高層ビルを見ながら、「江戸城の大手門前」という土地の性格を重ねて考えることができます。千代田区のまちづくり資料によれば、江戸時代の大手門前や大名小路には、老中・若年寄など幕閣を担った譜代大名の屋敷や幕府諸機関が集まっていました。現在の日本有数の業務中枢という性格は、時代ごとに担い手を変えながら、この地域が長く「中枢」であり続けた歴史と重なります。

夜の街で見えた「江戸・近代・現代」の重なり

今回の散歩では、大手町一丁目・二丁目に残る史跡や記念碑を手がかりに、街の成り立ちを時代順に見ていきました。江戸初期の水路である道三堀どうさんぼり、大手門前の大名屋敷、明治以降の官庁・教育機関、戦後の業務街、そして連鎖型都市再生へと視点を移すと、同じ数街区の中で東京の都市史を長い時間軸で追えます。

大手町の特徴は、古い建物がまとまって残る「歴史地区」とは少し違います。建物そのものは大きく更新されても、濠や道路、史跡、石碑、地名を手がかりにすると、過去の土地利用が現在の都市空間の中から浮かび上がってきます。夜の散歩では、明るいオフィスビルと暗い濠端の対比も印象的で、江戸城の外郭と現代都市が接していることを体感しやすい時間帯でした。

和気清麻呂像|古代史の人物と現代の大手町が同居する風景

大手濠緑地では、和気清麻呂わけのきよまろ像を見学しました。国民公園協会の資料によると、この像は1940年(昭和15年)の紀元2600年記念事業の一環として建立されたものです。大手濠に面した緑地に立ち、皇居の森と大手町のビル群を同時に望める場所にあります。

大手濠緑地の和気清麻呂像を見学するナイトウォーク参加者
大手濠緑地の和気清麻呂像を見学。古代の人物を顕彰する昭和期の銅像と、現代の大手町の高層ビル群が同じ視界に入ります。

清麻呂は奈良時代末から平安時代初頭にかけての官人で、769年(神護景雲3年)の宇佐八幡宮神託事件や、のちの平安京造営に関わった人物として知られます。一方、現在ここに立つ銅像そのものは古代からあるものではなく、昭和期の記念事業によって造られたものです。つまり、この場所では「古代の人物」「昭和の顕彰」「現在の大手町」という三つの時代を一つの景観から読み取れます。

夜の大手濠緑地に立つ和気清麻呂像
和気清麻呂像。1940年(昭和15年)の紀元2600年記念事業の一環として建立されました。

像を近くから見ると、衣冠姿で笏を持ち、腰に太刀を帯びた姿が確認できます。周囲の高層ビルと並べて見ることで、歴史上の人物を記念するモニュメントが、都市の更新を経ても大手濠沿いに残されていることがよく分かります。今回のナイトウォークでも、史跡や銅像だけを切り離して見るのではなく、「なぜこの場所に残っているのか」「周囲の街はどのように変わったのか」を一緒に考えながら歩きました。

大手町ナイトウォークを終えて

今回の大手町散歩は、江戸の水路と大名屋敷、近代国家の官庁・教育、昭和期の記念像、現代の都市再生までを、夜の街並みの中でつないで見る機会になりました。大手町は高層ビルの印象が強い地域ですが、道や濠、地名、石碑、銅像に注目すると、東京の政治・行政・経済の中枢がどのように変化してきたかを歩いて学べる場所です。

大手町の歴史をさらに掘り下げたい方は、大手町の歴史をわかりやすく解説や、正保年中江戸絵図で見る大手町・丸の内もあわせてご覧ください。現地で自分のペースで史跡を探す場合は、TimeWalkで現在地から歩ける史跡を地図で探すこともできます。

開催レポート追記の参考資料

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 運営者
なかまつ

北海道大学工学部卒。現在はIT系会社員の傍ら、年間400回以上の街歩きイベントを企画し、これまで延べ25,000名以上の方にご参加いただいている、ゆる歴史散歩サークルを運営しています。東京の歴史・文化・建築・地形などを、初心者でも気軽に楽しめるイベントとして企画しています。

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