武蔵野の森公園、調布飛行場、大沢の里古民家、出山横穴墓群など

以下の項目が今回いくところです。それぞれGoogleマップのリンクが埋め込まれています。

武蔵野の森公園は調布飛行場を挟んで、北地区と南地区に分かれており、人見街道(ひとみかいどう)(東京都道110号府中三鷹線)を挟んで北に野川公園がある。人見街道東京都府中市八幡と杉並区大宮の大宮八幡宮を結ぶ、古くからの街道である。江戸以前にあった「人見村」を通る道であった事に由来する

豪農であり、かつ篤農家でもあった近藤勇の父・宮川久次郎は、広い自分の屋敷内に寺子屋を開くとともに、幕末時盛んであった武術の一派「天然理心流」の道場を持って、勇とその兄たちをはじめ近在の子弟を集めて学問や武術を指導していた。

天然理心流は近藤長裕(ながみち)を初代とする流派で、江戸に道場(試衛館)を持つかたわら多摩地方に広く出稽古を行い、門弟の指導にあたっていた。小技よりも気迫を重んじ、いかなる相手にも動じない極意必勝の実践を大事にする武道であった。三代目近藤周助は、月に二・三回招かれて久次郎の道場に通っていたが、勇の度胸と技量を見込み、嘉永二年(一八四九)近藤家の養子として迎えいれた。時に勇十六歳、後二十八歳で四代目を襲名した。

この道場は、明治九年(1876)に近藤家の養子となり、勇の一人娘・瓊(たま)と結婚して天然理心流五代目を継いだ近藤勇五郎(勇の長兄・音五郎の次男)の道場で、勇五郎は多摩一円の門人三千人を指導したともいわれている。

勇五郎は明治九年に父から分け与えられた屋敷内の納屋を道場とした。この道場が「撥雲館」である。その名の由来は、ある時ここを訪れた山岡鉄舟(元幕臣。近藤たちが浪士組に参加して上洛した時の浪士取締役)が命名し看板に揮毫したと伝えられている。「撥」という字は「とりのぞく」という意味を持っているが、「撥雲」という館名は暗雲を取り除くという意味で、当時の世相からみてうなずけるものがある。撥雲館は、その後手狭になったため、門下生の協力で昭和七年(1933)北側空地に改築し、盛大な道場開きが行われた。しかし、勇五郎は翌年八十三才で亡くなった。その後も道場は門人たちの手で維持され、昭和五十年代まで稽古が続けられていた。

大平洋戦争が始まり、調布飛行場の建設に伴う勇五郎宅取壊しの際にも、門人たちの熱意によって、道場は勇五郎の娘の嫁ぎ先である東隣の峯岸家の土地に移築された。さらに戦後になって、人見街道の拡幅のため再移転 する時、再び近藤家敷地内の現在地に移築され、今日に至っている。

掩体壕(えんたいごう)とは、太平洋戦争中に敵機の攻撃から軍用機を守るための施設。コンクリート製で覆いがあるものを「有蓋掩体壕(ゆうがいえんたいごう)」、土堤で囲ったのみで覆いのないものを「無蓋掩体壕(むがいえんたいごう)」といいます。掩体壕は、全国の軍用飛行場に作られており、戦争遺跡として残っているものもあります。

戦争遺跡としての掩体壕がある場所

  • 栃木県
  • 東京都
  • 千葉県
  • 神奈川県(横浜市金沢区野島に日本最大級のものがある)
  • 岐阜県
  • 滋賀県
  • 高知県
  • 愛媛県
  • 福岡県
  • 大分県
  • 宮崎県
  • 鹿児島県

近くに「飛燕の1/10模型」がります。

※次の⑦との共通券あり

みたか都市観光協会の紹介記事

武蔵野地域の水車は、江戸期以降新田開発に伴って数多く設置され、明治末期から大正期にかけて産業技術近代化の中で最盛期を迎えました。その後昭和に入ると急激に減少していきましたが、その中で、峯岸家は文化14(1817)年以来、5代にわたり水車経営に携わってきました。

「新車(しんぐるま)」と呼ばれる峯岸家の水車は、文化5(1808)年頃創設され、その後度重なる改造を加え、現存する装置は、搗き臼(つきうす)14個、杵(きね)14本、挽き臼2台、やっこ篩(ふるい)2台、せり上げ2台を備えた多機能性を持つ両袖型の大型水車で、規模・形式ともに武蔵野地域を代表する営業用水車です。

野川の河川改修工事により昭和43(1968)年頃に水車の稼働は停止しましたが、ここには、水車とともに、母屋・カッテ・土蔵・物置などの建物や水車用用水路跡、「さぶた」なども現存しており、武蔵野地域の水車経営農家の旧態を留める貴重な民俗資料です。 ここは、現在、三鷹市によって管理・公開されています。

※上の⑥との共通券あり
ワサビ栽培と昔のくらしを今に伝える古民家です。緑と水に囲まれた大沢の里公園は、かつて農村であった三鷹の原風景を今もなお留めています。ここに残る大沢の里古民家は、明治35(1902)年に建てられた四つ間どりの典型的な農家で、平成30年に復元・整備工事を完了し、昔ながらの民具の展示や、体験学習事業を行う施設として一般公開しています。

口コミより:山の階段をのぶった上にある遺跡です。大沢の古民家で教えてもらい見てきました。あまり期待していなかったのですがとても素晴らしい遺跡でした。大切に管理された遺跡でレプリカだと思いますが遺骨も含めて展示してあります。遺跡は実物で保護のために囲い、常時エアコンで管理しているそうです。

出山横穴墓群第8号墓の説明板の内容>
 三鷹市から国分寺の地域は、東京都内でも横穴墓(よこあなぼ/おうけつぼ)が数多く存在している地域です。三鷹市南西部には、国分寺市崖線(がいせん)およびその開折谷(かいせきこく。河川の浸食作用によって平地に刻まれた谷)の一部に6群50基ほどの横穴墓が確認されています。本横穴墓群もこの6群中の一つで、野川左岸の浅い谷に面した国分寺崖線の西側斜面上部に占地しており、10基の横穴墓が確認されています。
 第八号墓は、平成5年(1993)に三鷹市教育委員会によって確認調査が実施され、大型の石を入口部にアーチ状に積み上げるという特徴を持つ横穴墓であることが明らかにされた。第八号墓は、墓前城、石積み構造の羨門(せんもん)(古墳の主体部、横穴式石室の羨道の入口)、羨道(えんどう)(古墳の横穴式石室や横穴墓などの玄室と外部とを結ぶ通路部分)、前・後室の玄室(げんしつ)(横穴式石室や横穴の死者を埋葬する墓室)からなります。玄室には礫(れき、つぶて)が敷き詰められ、四体の人骨が確認されました。七世紀中頃の須恵器(すえき)平瓶(ひらべ)も出土しています。
 羨門部の大型の川原石をアーチ状に石積みした入口構造は、珍しいもので、その中を川原石の礫で閉塞しています。玄室の残りも良く、人骨も良好な遺存状態であったことなどから、保存して公開する施設となりました。
この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 会長
なかまつ

北海道大学工学部卒。だけどIT系会社員。美術館とお笑いが好き。海外旅行は年に6回行ってたがこのサークルをはじめから減少。隣が図書館のため毎月10冊の本を借りている。趣味の延長で東京の歴史や芸術を楽しむゆる〜いお出かけイベントを企画している。

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