1994年3月、南アフリカ北部の首都ムマバトで、公務員のストライキと略奪が広がりました。政府を守るために入った白人極右の武装集団は、市街地で銃撃を始めます。警察は武装集団へ発砲し、政権を支えてきた軍も大統領への忠誠を失いました。
混乱の中心にあった国が、ボプタツワナです。
南アフリカの国土内にありながら、政府、議会、軍、警察、国旗、国章、国境検問所を備えた「独立国」でした。領土は一続きではなく、各地に分散した飛び地の集合でした。国際社会は独立を承認せず、アパルトヘイトを維持するために作られたホームランドと位置づけました。
ボプタツワナは1977年に独立を宣言し、1994年の南アフリカ初の全人種選挙を前に崩壊しました。その17年間には、アパルトヘイトが人種を分けるだけでなく、国籍、領土、都市、行政まで作り替えた歴史が凝縮されています。
ボプタツワナはどこにあったのか
ボプタツワナは、現在の南アフリカ北西州を中心に、北ケープ州や旧トランスヴァール州にもまたがっていました。首都はムマバトです。現在のマフィケングに隣接し、のちに両都市の行政区域は統合されました。
領土は七つの主要なまとまりと、さらに小さな飛び地へ分かれていました。南アフリカの地図上に、島のような領域が散らばる形です。

名称は「ツワナ人の集まる土地」を意味します。隣国ボツワナもツワナ人と深い関係を持ちますが、両者は別の政治体です。ボツワナは1966年に英国から独立し、国際社会に承認された主権国家です。ボプタツワナは南アフリカ政府のホームランド政策によって作られました。
飛び地だらけの領土
ボプタツワナの境界は、住民がまとまって暮らす自然な地域を囲んだものではありません。南アフリカ政府が黒人居住地として指定した土地を組み合わせたため、鉱山、農地、町、村が複雑に分断されました。
道路で一つの地域から別の地域へ移動する途中、南アフリカ領を何度も通る場所もありました。行政区域は分散し、首都から遠く離れた地域も存在しました。

飛び地の多さは、ボプタツワナの経済と統治を南アフリカへ依存させました。鉄道、道路、電力、雇用市場は南アフリカと一体化し、領土だけを切り離して自立した経済圏を作ることは困難でした。
ホームランド政策が「国」を作った
1948年に南アフリカで国民党が政権を握ると、アパルトヘイトは多数の法律によって制度化されました。居住地、教育、仕事、移動、結婚、公共施設を人種別に分け、黒人多数派を政治権力から排除しました。
ホームランド政策は、黒人住民を民族別の地域へ所属させる仕組みです。南アフリカ政府は、コーサ人、ズールー人、ツワナ人などに別々の「祖国」を割り当てました。

政府は黒人住民の国籍をホームランドへ移し、南アフリカ本国では出稼ぎの「外国人」として扱おうとしました。黒人が南アフリカ全体の選挙権を求める道を閉ざし、白人少数支配を維持する制度でした。
ホームランドに割り当てられた土地は、人口に比べて狭く、農業条件にも恵まれない地域が多くありました。住民は都市、鉱山、工場へ働きに出て、家族と長期間離れて暮らしました。
ツワナ人の国家という名目
ボプタツワナは、ツワナ人の民族的な国家として宣伝されました。
ツワナ社会には、地域ごとの首長制と政治組織がありました。南アフリカ政府は伝統的な権威を行政へ組み込み、民族ごとに分かれた自治政府の正当性を作りました。
しかし、ツワナ人の居住地域はボプタツワナの境界と一致しません。多くのツワナ人が南アフリカの都市部やボプタツワナ外で暮らし、ボプタツワナ内にはツワナ人以外の住民も生活していました。
1980年代後半、ボプタツワナには約180万人が暮らし、約7割がツワナ人とされました。さらに約150万人のツワナ人が領域外に住んでいました。民族名を掲げた国家の境界は、住民の実際の分布を反映していませんでした。
1977年の「独立」
ボプタツワナの領域統治機関は1961年に設けられ、1972年6月に自治政府となりました。1977年12月6日、南アフリカ政府はボプタツワナの独立を承認しました。
初代大統領にはルーカス・マンゴーペが就任しました。南アフリカ政府は、黒人が民族別の国家で政治的権利を持つため、南アフリカ本国での選挙権は必要ないと主張しました。
ボプタツワナを国家として承認したのは、南アフリカと、同じホームランドから独立したトランスカイなどに限られました。国際連合をはじめとする国際社会は、独立をアパルトヘイト政策の延長と判断しました。
独立後も通貨には南アフリカ・ランドが使われ、財政、軍事、貿易、雇用は南アフリカに強く依存しました。ボプタツワナ国民となった住民の多くは、生活のため南アフリカ側へ通勤しました。
ルーカス・マンゴーペ政権
ルーカス・マンゴーペは1923年、現在の北西州モツェディ村に生まれました。教師として働き、地域の首長を経て、ツワナ地域の政治へ入りました。
1977年の独立後、大統領として長期政権を築きました。道路、学校、病院、政府施設の整備を進め、治安と行政能力を政権の成果として掲げました。
一方、反対派、労働組合、学生運動への統制を強めました。政治活動の制限、拘束、警察による弾圧が続き、非ツワナ系住民の政治参加も制限されました。
マンゴーペ政権は、南アフリカの白人政権と協力しながら、独自国家としての承認を求めました。南アフリカの民主化交渉が始まった後も、ボプタツワナの存続を主張しました。
国家らしい制度と首都ムマバト
首都ムマバトには、議会、政府庁舎、最高裁判所、放送局、大学、スタジアムなどが建設されました。広い道路と近代的な公共建築が並び、新国家の首都を演出しました。
ボプタツワナ政府は国旗と国章を制定し、独自の警察、軍、行政機関を運営しました。

国章には盾、動物、植物などが配され、憲法にも意匠が記されました。国家の象徴は、ボプタツワナが恒久的な政治体であることを住民と国外へ示す役割を担いました。

自動車には地域別のナンバープレートが発行されました。行政区分、車両登録、免許、税務といった制度は、住民の日常生活に入り込みました。

1979年にはボプタツワナ大学が設立されました。現在のNorth-West Universityへつながる教育機関です。大学や病院などの施設は、ホームランド消滅後も地域の社会基盤として残りました。
ボプタツワナの経済と住民生活
ボプタツワナの領域には、白金族金属を中心とする豊かな鉱物資源がありました。鉱山は大きな雇用と歳入を生みました。
しかし、鉱山利益と住民生活の間には大きな隔たりがありました。農村部では土地不足と貧困が続き、若者や労働者は南アフリカの都市、工場、鉱山へ通勤しました。
南アフリカ側の企業で働く労働者は、ボプタツワナ国民という形式を与えられながら、南アフリカ経済を支える低賃金労働力となりました。国境を越える長距離通勤と家族の分離が日常化しました。
政府施設、道路、大学、病院の整備で恩恵を受けた公務員や都市住民もいました。ボプタツワナは単純な架空国家ではなく、行政と雇用を通じて住民の生活を実際に組み替えた政治体でした。
サン・シティはなぜボプタツワナに作られたのか
1979年12月、ボプタツワナのピラネスバーグ地域にサン・シティが開業しました。ホテル、カジノ、ゴルフ場、プール、コンサート会場を備えた大規模リゾートです。
南アフリカ本国では賭博や一部の娯楽が厳しく規制されていました。形式上は外国となったボプタツワナでは、カジノと豪華な娯楽施設を営業できました。

サン・シティは観光客、外貨、雇用を呼び込みました。同時に、貧困地域の中に建つ豪華な施設として、ホームランド政策の矛盾を象徴しました。
フランク・シナトラ、クイーン、ロッド・スチュワートなどの国際的スターが公演し、反アパルトヘイト運動から批判を受けました。1985年にはArtists United Against Apartheidが楽曲『Sun City』を発表し、同地で演奏しないと宣言しました。
関連する背景は、「『サン・シティ』と反アパルトヘイト音楽運動」と「南アフリカへの文化ボイコット」で詳しく解説しています。
国際社会はなぜ独立を認めなかったのか
独立国家には、領土、住民、政府、対外関係を営む能力が求められます。ボプタツワナには政府、警察、軍、裁判所、大学、国境管理がありました。
それでも国際社会が承認しなかった理由は、独立の目的と成立過程にあります。住民の自決によって植民地支配から離れた国ではなく、南アフリカ政府が黒人の国籍を外へ移し、白人少数支配を維持するために作った政治体でした。
ボプタツワナはボツワナとの国境に検問所を置き、旅券に税関スタンプを押しました。

国家機能が存在しても、独立の正当性と主権の実態は別の問題です。南アフリカ軍はボプタツワナ政権の存続に介入し、財政と経済も南アフリカに依存しました。
国際的な不承認は、ホームランド独立を既成事実にせず、南アフリカの黒人住民が国籍と政治的権利を失うことを防ぐ圧力となりました。
1988年のクーデター
1988年2月、ボプタツワナの治安部隊員らがマンゴーペ政権に対してクーデターを起こしました。大統領と閣僚は拘束され、反対派が政権掌握を宣言しました。
南アフリカ軍は直ちにボプタツワナへ入り、クーデターを鎮圧しました。マンゴーペは大統領へ復帰しました。
この事件は、ボプタツワナの独立が南アフリカ軍の支援によって保たれていたことを明らかにしました。独自の軍と警察を持ちながら、政権の危機は南アフリカの軍事介入で解決されました。
その後も反対派、学生、労働者の抵抗は続きました。南アフリカ全体でアパルトヘイト撤廃への交渉が進むと、ボプタツワナ政権の立場は急速に弱まりました。
1994年、ボプタツワナが崩壊した日
1990年、ネルソン・マンデラが釈放され、アフリカ民族会議が合法化されました。南アフリカ政府と解放運動は、全人種が参加する選挙へ向けて交渉を進めました。
マンゴーペはボプタツワナの独立維持を主張し、1994年4月の南アフリカ総選挙への参加を拒みました。公務員は、南アフリカへの統合後に年金や給与を失うことを恐れ、支払いの保証を求めてストライキを始めました。
1994年3月、ムマバトと周辺地域で略奪、放火、銃撃が広がりました。ボプタツワナ軍の一部は政権への命令を拒み、警察と公務員も統制から離れました。
マンゴーペは白人右翼へ支援を求めました。アフリカーナー抵抗運動(AWB)などの武装集団がボプタツワナへ入り、市街地で住民へ発砲しました。ボプタツワナ警察はAWB隊員三人を射殺しました。
南アフリカの暫定執行評議会はマンゴーペを解任し、暫定行政を設置しました。ボプタツワナは選挙へ参加し、1994年4月27日に南アフリカへ再統合されました。
マンデラは同年5月に大統領へ就任しました。民主化へ至る国際運動と音楽の関係は、「ネルソン・マンデラ解放と国際運動」で解説しています。
消滅後に残ったもの
ボプタツワナの大部分は、新設された北西州へ組み込まれました。ほかの飛び地は北ケープ州、フリーステート州、ムプマランガ州などへ分かれました。
ムマバトの政府施設、道路、大学、病院、スタジアムは消えず、新しい州と自治体に引き継がれました。旧官僚組織や地域の政治勢力も、統合後の州政治へ影響を残しました。
一方、旧ホームランド地域の貧困、失業、土地不足、公共サービスの格差は続きました。境界線が消えても、数十年間の分離政策が作った経済構造は短期間では変わりませんでした。
サン・シティは現在も南アフリカ北西州のリゾートとして営業しています。かつて国境だった場所を越える検問はなくなり、ボプタツワナの国旗、国章、旅券、ナンバープレートは歴史資料となりました。
ボプタツワナ年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1961年 | ツワナ地域の領域統治機関が設けられる |
| 1972年 | ボプタツワナが自治政府となる |
| 1977年12月6日 | 南アフリカ政府がボプタツワナの独立を承認 |
| 1979年 | サン・シティ開業、ボプタツワナ大学設立 |
| 1985年 | 反アパルトヘイト曲『Sun City』発表 |
| 1988年 | クーデター発生、南アフリカ軍が介入してマンゴーペを復権 |
| 1990年 | マンデラ釈放、南アフリカ民主化交渉が進む |
| 1994年3月 | ストライキ、略奪、軍の離反、AWB介入で政権崩壊 |
| 1994年4月27日 | 南アフリカへ再統合 |
よくある質問
ボプタツワナとボツワナは同じ国ですか
別の政治体です。ボツワナは1966年に英国から独立し、国際社会に承認された国家です。ボプタツワナは南アフリカ政府がホームランド政策で作り、1977年に独立を宣言した地域です。
ボプタツワナは国連加盟国でしたか
国連へ加盟していません。国際社会は独立を承認せず、アパルトヘイト政策の一部と位置づけました。
ボプタツワナにはパスポートがありましたか
独自の旅券や国境スタンプが使われました。南アフリカ政府は住民をボプタツワナ国民として扱いましたが、国際的な承認は得られませんでした。
通貨は何を使っていましたか
南アフリカ・ランドを使用しました。独自通貨は発行せず、金融と貿易は南アフリカ経済に組み込まれていました。
住民は独立を支持していましたか
政府や行政に参加し、独立国家の維持を支持した住民がいました。一方、反対派、学生、労働者、非ツワナ系住民は、政治的統制と南アフリカからの分離に抵抗しました。1994年には軍、公務員、警察の支持も崩れ、政権が短期間で倒れました。
サン・シティは現在もありますか
現在も南アフリカ北西州のリゾートとして営業しています。ボプタツワナの消滅後は、南アフリカ国内の通常の観光施設となりました。
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まとめ
ボプタツワナは、アパルトヘイト政権が黒人住民を南アフリカの国民から切り離すために作ったホームランドです。1977年に独立を宣言し、政府、軍、警察、議会、大学、国旗、国境管理を備えました。
領土は複数の飛び地へ分散し、通貨、財政、軍事、雇用を南アフリカへ依存しました。国際社会は独立を認めず、ホームランド住民から南アフリカ全体の政治的権利を奪う制度と判断しました。
マンゴーペ政権は国家建設と施設整備を進める一方、反対派と労働運動を統制しました。サン・シティは観光収入を生み、文化ボイコットの象徴となりました。
1994年、南アフリカ初の全人種選挙への参加を拒んだ政権は、公務員のストライキ、軍の離反、白人極右の介入によって崩壊しました。ボプタツワナは南アフリカへ再統合され、国境線は消えました。
残された道路、大学、政府施設と地域格差は、アパルトヘイトが領土と社会をどこまで作り替えたかを現在に伝えています。
参考文献
- South African History Online, “Bophuthatswana, was Previously a Homeland”
- South African History Online, “Bophuthatswana granted ‘independence’ by the South African Government”
- South African History Online, “Tswana”
- South African History Online, “Lucas Manyane Mangope”
- South African History Online, “Mangope calls out troops as unrest flares in Bophuthatswana”
- South African History Online, “Lucas Mangope leaves Mmabatho due to an uprising”
- South African History Online, “TEC decides on Bophuthatswana’s incorporation following major unrest”
- Truth and Reconciliation Commission of South Africa, Amnesty Decision AC/99/0239
- North-West University Repository, “Bophuthatswana and its impact on North West Province, 1974–1998”
- North-West University Repository, “The University of Bophuthatswana and the development of Mmabatho”
- North-West University Repository, “The Batlhaping under Bophuthatswana rule”
- South African History Online Archive, “Church and State Relations: The Story of Bophuthatswana and its Independence, 1977–1994”
- Wikimedia Commons, “Map of Bophuthatswana with boundary changes from independence to dissolution”
- Wikimedia Commons, “Bophuthatswana in South Africa”
- Wikimedia Commons, “South African homelands map”
- Wikimedia Commons, “Flag of Bophuthatswana (1972–1994)”
- Wikimedia Commons, “Coat of arms of Bophuthatswana”
- Wikimedia Commons, “Bophuthatswana Border Post”
- Wikimedia Commons, “South Africa Bophuthatswana license plate”
- Wikimedia Commons, “Sun City”

