酒田の豪商・本間家は、近代になると「日本一の大地主」と呼ばれる存在になりました。1925年の酒田市史年表には、田畑1850町歩を所有していたと記録されています。戦後の農地改革期にも小作地約1750町歩、小作人2577人を抱えていました。
その巨大な土地所有は江戸後期から形成されました。本間家は商業と金融で得た資金を土地へ振り向け、明治以降には農場、銀行、土地経営会社を組み合わせた近代的な地主経営へ変わりました。
本間家は乾田馬耕や品種改良、耕地整理を進める一方、多数の小作人から小作料を受け取る地主でもありました。1925年には地主側と小作人側が大規模に衝突し、酒田市史が「庄内地方における最大の小作争議」と記す事件に発展します。
シリーズ「本間家から見る東北史」|現在地:第5回 地主編
- 総合編:酒田本間家の260年
- 物流編:最上川・北前船・紅花と酒田
- 金融編:上杉鷹山・米沢藩と豪商
- 戦争編:庄内藩・戊辰戦争と酒田商人
- 地主編:大地主本間家・小作争議・農地改革(現在地)
本間家は商人から地主へ広がった
酒田本間家の事業は、商業、金融、土地の三本柱で発展しました。1689年に初代原光が新潟屋を開き、米の上方販売、仕入れ、両替などを営みます。18世紀には3代本間光丘のもとで大名貸や土地取得が拡大しました。
農林水産政策研究所には「徳川後期における本間家の土地集積」という研究が残っています。本間家文書には、1753年以降の田地買入れ、土地の譲渡、請戻しなどに関する記録が大量に残り、江戸時代から地主経営が重要な事業だったことが分かります。
商人が土地を持つ意味は大きく、米を生む田地は安定した収益源になりました。貸金の返済と土地取得が結びつく場合もあり、金融事業と土地所有は互いに支え合います。本間家は港町の商業資本を、庄内平野の土地へ蓄積していきました。
本間家が商人から藩の金主、巨大地主へ変わる全体像は、「酒田本間家とは? 北前船・米沢藩・戊辰戦争から見る豪商の260年」で詳しくたどっています。
庄内平野は巨大地主が生まれる舞台になった
庄内平野は最上川下流に広がる沖積平野で、江戸時代から米の大産地でした。米は最上川や酒田港を通じて全国へ送られ、地域の主要商品になりました。
土地の価値は、そこで取れる米の価値と結びつきます。酒田には廻船問屋、米商人、金融業者が集まり、現金と米が大量に動きました。本間家はその中心的な商家の一つで、資本を農地へ変えていきます。
庄内の土地と酒田の商業は、米の生産、集荷、保管、販売、金融まで一続きでした。酒田がなぜ巨大な商業都市になったかは、「なぜ酒田は栄えた? 最上川・北前船・紅花がつないだ山形」で紹介しています。
「千町歩地主」とはどれほど大きいのか
近代日本の農業史では、1000町歩を超える土地を所有した地主を「千町歩地主」と呼ぶことがあります。1町歩はおよそ1ヘクタールなので、1000町歩は約1000ヘクタールに相当します。
1959年には細貝大次郎が「千町歩地主=本間家の地主経済構造」と題する研究を発表しています。後の地主制研究では、本間家は新潟の市島家などと並び、幕末期から大規模土地所有を形成した代表的な千町歩地主として扱われました。
酒田市史年表が示す1925年の所有田畑は1850町歩です。単純換算すれば約1850ヘクタールで、東京ドーム約400個分に近い広さになります。本間家の土地は庄内各地に分散していました。
分散した農地を「代家」と支配人が管理した
広大な土地を酒田の本家だけで管理することはできません。本間家は各地に「代家」と呼ばれる拠点を置き、支配人を配置しました。
建築史研究では、代家支配人の住宅が住居、事務所、本間家から来る検見人の宿泊施設を兼ねていたことが明らかにされています。小作米の管理、農地の監督、検見などが地域ごとの拠点から行われました。
1907年には8代本間光弥を代表として信成合資会社が設立され、動産・不動産の取得と賃貸を担いました。個人商家の土地所有は、会社組織による地主経営へ整えられていきます。
6代光美は農業そのものを改良しようとした
本間家の地主経営で重要なのが6代本間光美です。戊辰戦争で庄内藩へ10万両を提供した人物ですが、明治期には農業改良へ力を入れました。
酒田市資料によれば、光美は1888年に本立銀行を設立し、1896年には乾田馬耕を広めるため農業教師の伊佐治八郎を招きました。翌1897年には子の光輝と本間農場を設けます。
乾田馬耕は、水田の排水を改善して乾かし、馬に農具を引かせて耕す方法です。湿った田を人力で耕す農法から、排水と畜力を利用する農法へ変えることで、作業効率と土地利用の改善を目指しました。
農業史研究では、本間家が湿田排水、乾田馬耕、優良品種の導入、耕地整理を進め、明治30年代の庄内農業の生産力向上に関わったことが指摘されています。本立銀行からは耕馬、肥料、農具、自作農創設などに必要な資金の貸付も行われました。
耕地整理は庄内平野の風景まで変えた
水田が細かく入り組み、排水路や農道が不十分な状態では、馬や農機具を使うにも限界があります。明治後期の庄内では耕地整理が進み、田の形を整え、農道や用排水路を配置し直す事業が広がりました。
本間家は飽海郡の耕地整理事業で大きな役割を担い、複数地区で模範的な整理を進めました。後の当主も耕地整理組合の運営に関わっています。
大地主には広い土地を一体的に改良しやすい利点がありました。排水路や道路は一枚の田だけを直しても効果が限られるため、広い範囲を調整する必要があります。一方、その改良された土地で実際に農作業を担ったのは多くの小作農でした。
農業改良と地主経営は同じ仕組みの中にあった
本間家による農業改良は、庄内の農業生産を高める事業であると同時に、地主経営の収益を安定させる事業でもありました。収穫量や米の品質が上がれば、小作人の経営が安定し、地主が受け取る小作米の価値も高まります。
この関係を見ると、「地域のために農業を改良した地主」と「小作料を受け取る地主」という二つの姿は矛盾せず、同じ経営の中に並んでいたことが分かります。
本間家は学校、植林、救済、文化事業などにも資金を投じました。地方社会の有力者として公共事業を担うことと、地主として土地から収益を得ることが同時に続いていました。
1925年、庄内最大の小作争議が起きた
大正時代になると、全国で小作争議が増えます。第一次世界大戦後の物価変動、米価、小作料、農民組合運動などを背景に、地主と小作人の関係が政治問題になりました。
庄内でも対立が激しくなります。1925年5月、本間家を中心とする地主側は重農主義を掲げる「敬土会」を結成しました。酒田市史年表では、地主19人と上層自作農33人が参加したと記録されています。
同月、西平田村大宮で敬土会による土地取り上げをきっかけに、日本農民組合山形県連の小作人代表11人と敬土会側20人が大乱闘となりました。酒田市史はこの事件を「庄内地方における最大の小作争議」と位置づけています。
本間家の歴史には、植林や農業改良、教育支援とともに、土地所有をめぐる農民との衝突も記録されています。巨大地主制が地域社会に与えた影響を考えるうえで欠かせない出来事です。
本間家は自作農創設にも取り組んだ
昭和期には、地主と小作人の対立と並行して自作農を増やす政策も進みました。国は1920年代後半から、自作農創設維持事業を通じて小作人による土地取得を支援します。
本間家でも自作農創設への取り組みが行われました。9代本間光正について、酒田市文化資料館光丘文庫は、父の遺志を継いで自作農創設に力を尽くしたと紹介しています。
巨大地主経営を維持しながら、一部の土地を小作人の所有へ移す動きが同時に進みます。戦前の自作農創設は限定的でしたが、地主制は次第に再編の対象となっていきました。
戦後農地改革で1750町歩の小作地が買収された
敗戦後、地主制は大きく変わります。連合国軍占領下で進められた農地改革は、地主が所有する小作地を国が買収し、実際に耕す農民へ売り渡す政策でした。
酒田市史年表によれば、改革期の本間家は小作地約1750町歩、小作人2577人を抱えていました。同資料は、本間農場として残された約4町歩を除き、農地がすべて買収されたと記録しています。
江戸後期から約200年かけて形成された本間家の巨大土地所有は、数年の制度改革で大幅に解体されました。商人資本から始まり、土地、農業、金融を組み合わせた経営の一つの時代がここで終わります。
「最高3000町歩」はどう読むべきか
本間家の土地については「3000町歩」と紹介されることがあります。酒田市史年表にも「最高時には約3千町歩に達したといわれる」とあります。
土地面積は年代や集計対象によって変わります。田畑だけか、山林や雑地を含むかでも数字が異なります。そのため規模を比較するときは、年代と土地の種類が明確な数字が役立ちます。
1925年には田畑1850町歩、農地改革期には小作地1750町歩・小作人2577人という記録があります。これだけでも本間家が全国屈指の巨大地主だった規模は十分に伝わります。
本間家と他地域の巨大地主
近代日本には、本間家以外にも1000町歩を超える地主が存在しました。地主制研究では、新潟の市島家などが幕末から大規模土地所有を形成した例として本間家と比較されています。
東北では、山形の本間家、秋田の池田家、宮城の齋藤家が「東北三大地主」と呼ばれます。池田家や齋藤家も地域政治、教育、公共事業などへ深く関わりました。
本間家の特徴は、巨大地主になる以前に酒田の豪商・金融業者として長い歴史を持っていた点です。江戸の大名貸から幕末の軍資金、明治の銀行・農業改良、昭和の地主制と農地改革まで、土地所有が商業・金融・地域社会と連続していました。
公益活動と地主支配が同居した本間家
本間家は西浜の植林、救荒、農業改良、教育・文化事業へ資金を投じました。乾田馬耕や耕地整理は庄内農業の生産力向上につながりました。
同じ家が、数千人規模の小作人を抱える地主でもあり、土地取り上げをめぐる争議の中心にもなりました。地域への公益活動と地主としての経済的利益は同時に存在しています。
本間家の地主史を追うと、日本の農村が江戸の土地所有から近代地主制へ移り、農業技術を改良し、小作争議を経て、戦後の自作農中心社会へ変わる過程を一つの家から見ることができます。
本間家の土地の歴史は、日本の農村社会の変化そのものだった
本間家の土地集積は18世紀から本格化し、幕末から近代に巨大地主経営へ発展しました。明治には銀行、農場、耕地整理、農業技術を組み合わせ、大正期には1850町歩の田畑を所有します。
その一方で、土地を耕した多数の小作人との関係は緊張をはらみ、1925年には庄内最大の小作争議へ至りました。戦後の農地改革は、約1750町歩に及ぶ小作地を耕作者へ移し、地主制の構造を根底から変えます。
北前船、大名貸、戊辰戦争を追ってきた本間家の歴史は、最後に土地の問題へ行き着きます。酒田に蓄積された商業資本が庄内の土地へ入り、その土地から得た富が再び金融や地域事業へ回る。本間家は、江戸から戦後まで続いた東北の経済と農村社会を結ぶ稀有な事例です。

