1918年秋、日本列島を流行性感冒が覆いました。内務省衛生局の集計では、1918年8月から1921年7月までの3回の流行で延べ23,804,673人が患者として記録され、388,727人が死亡しています。
現在「スペインかぜ」と呼ばれる1918年インフルエンザ・パンデミックです。流行当初は全国一律の学校閉鎖や集会停止を定める制度が整う前で、地方では休校や行事中止が始まりました。中央政府は救療、予防心得、マスク、ポスター、予防接種へと対策を広げ、1921年には学校閉鎖を含む体系的な予防要項を作りました。
一方、当時はインフルエンザウイルスそのものが発見されておらず、「ワクチン」として使われたのは細菌を材料にした予防液でした。飛沫感染や人混み回避については実践的な対策が進みながら、病原体の理解には大きな限界がありました。
- なぜ「スペインかぜ」と呼ばれたのか
- 内務省の公式記録は延べ2380万人、死亡38万8727人
- 第2回流行は患者が激減したのに、死亡率は4倍を超えた
- 1918年秋、休校は地方から始まった
- 1918年11月、政府は貧困患者の救療に動いた
- 1919年、内務省は「予防心得」5万枚を全国へ配った
- 1920年、政府広報は48万枚の標語札とポスターへ拡大した
- 映画館では休憩時間に感染予防を上映した
- マスクは第2回流行で一気に日用品になった
- 当時の「ワクチン」は細菌を材料にしていた
- 治療は安静と看護などの支持療法が中心だった
- 巡洋艦「矢矧」では469人中442人が感染した
- 鉄道、郵便、工場でも人が足りなくなった
- 1921年、学校閉鎖を含む予防要項が完成した
- 流行が終わった翌年、政府は484ページの総括報告を残した
- スペインかぜと日本政府の対応年表
- よくある質問
- 参考文献・参考資料
なぜ「スペインかぜ」と呼ばれたのか
1918年のパンデミックを引き起こしたのはA型H1N1インフルエンザウイルスです。流行の地理的起源は現在も確定していません。「スペイン」の名が広がった背景には第一次世界大戦中の報道事情がありました。
交戦国では士気低下を恐れて感染症報道が抑えられる一方、中立国スペインの新聞は流行を詳しく報じました。スペイン国王アルフォンソ13世の感染も報道され、世界で「Spanish influenza」という呼称が定着していきます。
日本では「流行性感冒」「流感」などの名称が行政文書や新聞で使われました。内務省衛生局が1922年に刊行した総括報告書の題名も『流行性感冒』です。
内務省の公式記録は延べ2380万人、死亡38万8727人
内務省衛生局は流行後、全国の記録を集めて484ページの『流行性感冒』をまとめました。現在は国立国会図書館デジタルコレクションで全文を読むことができます。
| 流行 | 内務省統計の期間 | 患者数 | 死亡数 | 患者100人あたり死亡 |
|---|---|---|---|---|
| 第1回 | 1918年8月~1919年7月 | 21,168,398 | 257,363 | 1.22% |
| 第2回 | 1919年9月~1920年7月 | 2,412,097 | 127,666 | 5.29% |
| 第3回 | 1920年8月~1921年7月 | 224,178 | 3,698 | 1.65% |
| 合計 | ― | 23,804,673 | 388,727 | 1.63% |
23,804,673人は、内務省が各地から集めた延べ患者数です。当時のインフルエンザは1897年の伝染病予防法による法定伝染病の対象外で、コレラのような全国一律の患者届出制度も整備されていませんでした。地域ごとの警察・行政記録を積み上げた数字で、把握されなかった患者もいたと考えられます。
死亡も公式集計では388,727人ですが、後世の超過死亡研究では45万~48万人程度という推計があります。記事で死亡規模を考える際には、政府公式統計と人口統計からの推計を分けて見る必要があります。
第2回流行は患者が激減したのに、死亡率は4倍を超えた
第1回流行では2116万人以上が患者として記録され、患者100人あたりの死亡は1.22人でした。第2回では患者数が約241万人まで減る一方、死亡は127,666人、患者100人あたり5.29人に上昇しています。
第2回流行の患者数は第1回の約9分の1ですが、死亡率は4倍以上です。内務省の本文では、1919年10月下旬から再び全国へ流行が広がったと記録されています。
年齢別研究では、通常の季節性インフルエンザと異なり、25~44歳の若い成人で大きな超過死亡が確認されています。25~34歳の肺炎・インフルエンザ死亡は平年の約9倍に達したという分析もあります。働き盛りの人々が大量に倒れ、家庭、工場、交通、軍隊へ同時に影響が及びました。
1918年秋、休校は地方から始まった
第一波が爆発した1918年秋、中央政府が全国の学校や劇場を一斉に閉じる制度は整っていませんでした。学校、府県、市町村が感染状況を見ながら休校や行事中止を決めています。
広島県安佐郡では1918年10月28日、郡役所が町村長、学校長、学校医へ、感染した児童の出席停止、健康観察、運動会などの見合わせを求めました。大阪では11月4日から市内の小学校などを約1週間閉鎖した例があります。
当時の新聞には、中央政府による百貨店、学校、興行場、大工場などの一時休業を求める意見も現れました。流行の初期には、国の統一的な方針より地方の判断が先行していたことが分かります。
1918年11月、政府は貧困患者の救療に動いた
第一波のさなか、内務省衛生局は生活困窮者への医療支援を全国府県へ要請しました。感染で働けなくなり、医療費を払えない患者を恩賜財団済生会の病院・診療所で診療し、地域の医師を受診できる治療券も活用しました。
感染拡大の抑制と並んで、病気によって収入を失った家庭への医療扶助が行政課題になっていました。政府のパンデミック対応は、予防啓発だけでなく救療にも及んでいます。
近代日本で病院、公衆衛生、医学研究がどのように制度化されたかは、「日本の医学・病院の歴史と系譜」でも紹介しています。
1919年、内務省は「予防心得」5万枚を全国へ配った
1919年1月、内務省衛生局は『流行性感冒予防心得』を5万枚印刷して全国へ配布しました。内容は、咳やくしゃみの飛沫への注意、人混みを避けること、電車や汽車で「呼吸保護器」を使うこと、発症したら安静にして医師を呼ぶこと、患者を別室にすることなどです。
「呼吸保護器」は現在のガーゼマスクに当たります。当時の予防法には、現代の感染症対策と重なる部分と、現在の医学では中心的な予防法とされないうがいなどが混在していました。

1920年、政府広報は48万枚の標語札とポスターへ拡大した
死亡率の高い第2回流行が広がると、中央政府の広報は大規模になります。1920年1月16日、内務大臣は各府県へ予防方針を示す内務省訓第1号を発しました。
1月19日には短い予防標語を印刷した小札48万枚を配布。2月7日には5種類の啓発ポスターを各5000枚、計2万5000枚配り、府県にも増刷を求めました。同年12月には新たな3種類のポスター計3万枚が全国へ送られています。
ポスターには、満員の電車で咳の飛沫が周囲へ飛ぶ場面や、マスク、患者の隔離、早期の手当などが描かれました。文字だけの通達から、絵で行動を伝える大衆広報へ政策が広がった時期です。
映画館では休憩時間に感染予防を上映した
地方行政も独自の方法で予防情報を広めました。神奈川県では劇場、活動写真館、寄席、電車内などに予防心得を掲示し、その内容を活動写真や幻灯にして映画館の休憩時間に映写させています。
当時、県の衛生行政を担当していたのは警察部衛生課でした。内務省衛生局から府県へ、さらに警察、郡役所、学校、工場、地域組織へと情報が伝えられました。今日の保健所や自治体広報とは異なる行政構造の中で、防疫情報が地域へ運ばれていました。
マスクは第2回流行で一気に日用品になった
神奈川県が新聞報道上、マスクの使用を本格的に奨励したのは1919年2月ごろです。1920年1月に患者が急増すると需要が跳ね上がり、通常10銭程度だったマスクが35~80銭まで高騰しました。当時のそば1杯は8~10銭程度とされています。
横須賀では学校の高学年生、高等女学校、将校婦人会、篤志看護婦人会などが簡易マスクを製作しました。神奈川県も材料を調達し、工業学校が金具、女学校が裁縫を担当してマスクを製造。県の報告では、短期間に1万枚を超える規模で供給しています。

マスクが医療者だけの器具から、市民が街や学校で使う感染予防用品へ広がった時期としても重要です。
当時の「ワクチン」は細菌を材料にしていた
1918~20年、日本では予防接種も盛んに行われました。ただし、人のインフルエンザウイルスが初めて分離されたのは1933年です。パンデミック当時、病原体はまだ分かっていませんでした。
有力だったのが「インフルエンザ菌」を原因とする説です。北里研究所はインフルエンザ菌を材料にした予防液を作り、東京帝国大学伝染病研究所はインフルエンザ菌と肺炎球菌などを混ぜた細菌ワクチンを製造しました。
神奈川県も1919年2月から予防接種を始め、1920年6月末までに予防液376,880グラムを配布したと内務省資料に記録されています。学校、工場、病院、横須賀海軍工廠などから申し込みが集まりました。
現在のインフルエンザワクチンはウイルスを標的とします。当時の細菌ワクチンとは仕組みも対象も異なります。近代日本におけるワクチン研究の流れは、「ワクチンの歴史|天然痘からmRNAまで」でもたどれます。
治療は安静と看護などの支持療法が中心だった
治療は安静、看護、解熱などの支持療法が中心でした。インフルエンザ用の抗ウイルス薬、二次性の細菌性肺炎に用いる抗菌薬、現代の集中治療や人工呼吸管理は、いずれも後世に実用化された技術です。ペニシリンの発見は1928年でした。
患者は安静、看護、解熱などの支持療法に頼り、重い肺炎を起こすと治療の選択肢が限られました。そのため、感染そのものを減らすマスク、人混み回避、隔離、休校などの対策が大きな意味を持ちました。
感染症を「患者の治療」と「社会側の感染経路遮断」の両面から抑えた別の例として、「日本から狂犬病が消えるまで」、「山梨県はどうやって『地方病』を終息させたのか」もあります。
巡洋艦「矢矧」では469人中442人が感染した
密集した集団で何が起きたかを示す記録が、海軍の巡洋艦「矢矧」に残っています。
1918年11月、シンガポールに入港した矢矧は現地の流行を警戒していました。病勢が落ち着いたと判断して短時間の上陸を許可した後、艦内で流行が発生します。乗員469人のうち442人が感染し、48人が死亡しました。
感染率は約94%です。狭い艦内へ病原体が入り込むと、短期間でほぼ全乗員へ広がりました。陸軍の水戸衛戍地でも1918年に1970人が感染し、93人が入院、8人が死亡した記録があります。
鉄道、郵便、工場でも人が足りなくなった
流行は医療機関だけの問題に収まりませんでした。鉄道、郵便、電信電話、工場などで従業員が相次いで欠勤し、社会インフラに影響が出ました。神奈川県では鉄道従業員の感染により貨物輸送が止まった事例も記録されています。
パンデミックは多数の患者を生むと同時に、社会を動かす人々が同時に働けなくなる災害でもありました。若い成人の死亡が多かった1918年流行では、その影響が家庭と産業の双方に及びました。
1921年、学校閉鎖を含む予防要項が完成した
1921年1月6日、内務省は『流行性感冒ノ予防要項』を各府県へ発しました。1918年以来の国内外の経験を踏まえた体系的な方針です。
患者の隔離、マスク、咳への注意、集会の制限に加え、学校で患者が出た場合には状況に応じて全校または一部を閉鎖する方針が盛り込まれました。劇場、寄席、活動写真についても、状況に応じた興行の見合わせが示されています。
1918年秋には地方が個別に休校を判断し、1919年には予防心得、1920年には全国規模の広報、1921年には学校閉鎖を含む予防要項へ進みました。3年間の流行経験が行政の対応を具体化していきました。
流行が終わった翌年、政府は484ページの総括報告を残した
内務省衛生局は1922年3月、484ページの『流行性感冒』を刊行しました。海外の流行、日本の府県別統計、予防措置、救療、マスク、予防接種、ポスターまで収録しています。
この報告書から見えるのは、完成した対策を最初から実施した政府の姿ではありません。第一波では地方判断に依存する場面が多く、その経験を受けて中央政府の広報と予防方針が具体化しました。一方、病原体の理解が追いつかず、細菌ワクチンへ期待した時代でもありました。
感染経路の理解、行政の学習、科学の限界が同時に記録された点に、1918年パンデミック史の大きな特徴があります。
スペインかぜと日本政府の対応年表
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1918年春~夏 | 軍隊、工場、相撲界などでインフルエンザ様の集団発生 |
| 1918年秋 | 全国で第1回流行。各地で休校、出席停止、行事中止 |
| 1918年11月 | 内務省が済生会を通じた生活困窮患者の救療を要請 |
| 1919年1月 | 『流行性感冒予防心得』5万枚を全国へ配布 |
| 1919年2月頃 | 各地でマスク奨励、神奈川県で細菌ワクチン接種開始 |
| 1919年秋 | 死亡率の高い第2回流行が本格化 |
| 1920年1月16日 | 内務省訓第1号で各府県へ予防方針を示す |
| 1920年1月19日 | 予防標語小札48万枚を配布 |
| 1920年2月7日 | 5種類の予防ポスター計2万5000枚を配布 |
| 1920年 | マスク需要急増。学校・団体も製作に参加 |
| 1920年12月 | 新しい予防ポスター3種類計3万枚を配布 |
| 1921年1月6日 | 『流行性感冒ノ予防要項』。学校閉鎖などを体系化 |
| 1921年夏 | 内務省統計上の第3回流行が終息 |
| 1922年3月 | 内務省衛生局が総括報告『流行性感冒』を刊行 |
よくある質問
日本ではスペインかぜで何人が感染し、何人が亡くなったのですか?
内務省衛生局の公式集計では、1918年8月から1921年7月までの延べ患者数は23,804,673人、死亡は388,727人です。超過死亡を使った後世の研究では、実際の死亡を45万~48万人程度と推計する研究もあります。
当時の日本政府はマスクを推奨していましたか?
内務省は1919年の『流行性感冒予防心得』で「呼吸保護器」の使用を勧め、1920年にはマスク姿を描いたポスターを配布しました。地方では学校や団体がマスクを製作する例もありました。
学校は休校になったのですか?
1918年秋から各地の学校が地域判断で臨時休校や出席停止を行いました。1921年の内務省『流行性感冒ノ予防要項』では、流行状況に応じた全校または一部の学校閉鎖が国の方針として明記されました。
当時もインフルエンザワクチンがあったのですか?
接種は行われましたが、現在のインフルエンザワクチンとは異なります。1918~20年にはインフルエンザウイルスがまだ分離されておらず、インフルエンザ菌や肺炎球菌などを材料にした細菌ワクチンが使われました。
参考文献・参考資料
- 内務省衛生局編『流行性感冒』1922年(国立国会図書館)
- 神奈川県立公文書館「スペイン・インフルエンザ―100年前のパンデミックの記録と記憶― 国の施策」
- 神奈川県立公文書館「スペイン・インフルエンザ―100年前のパンデミックの記録と記憶― 神奈川県の施策」
- 防衛省防衛研究所「大正のスペイン風邪パンデミックと帝国陸海軍」
- 内閣感染症危機管理統括庁「過去の感染症危機 スペインインフルエンザ」
- 参議院「スペイン風邪と新型コロナウイルス感染症」
- CDC Emerging Infectious Diseases “1918 Influenza Pandemic”
- Age-specific mortality during the 1918 influenza pandemic in Japan

