秀吉からの贈り物だった?ニューヨークに残る「堀尾吉晴の火縄銃」を細部まで読む

堀尾吉晴ゆかりの火縄銃の龍文と銘文の拡大

ニューヨークのメトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art、以下Met)には、戦国時代末から江戸時代初頭にあたる一本の日本製火縄銃が収蔵されています。作品名は《Matchlock Gun of Horio Yoshiharu》。Metは制作年代を16世紀後半~17世紀初頭、文化圏を日本、材質を鋼としています。全長103.8cm、銃身長73cm、口径16mm、重量3009gです。

この銃が特別なのは、豪華な龍と雲の装飾に加え、「堀尾帯刀」「関白太閤」「拝領」「朝鮮」など、来歴を考える手掛かりになる文字が銃身に残る点です。1916年、Met武器・甲冑部門の初代キュレーター、バッシュフォード・ディーン(Bashford Dean)は銘文を読み、豊臣秀吉から堀尾吉晴へ贈られた品と解釈しました。一方、現在のMet公式作品情報は作品名を堀尾吉晴に結びつけながらも、秀吉からの贈答を作品データとして断定せず、年代にも幅を持たせています。

メトロポリタン美術館所蔵の堀尾吉晴ゆかりの火縄銃の全景
《Matchlock Gun of Horio Yoshiharu》16世紀後半~17世紀初頭。全長103.8cm。The Metropolitan Museum of Art, Gift of Bashford Dean, 1914, 14.100.101, Public Domain

Metが示す基本データ

作品名Matchlock Gun of Horio Yoshiharu
年代16世紀後半~17世紀初頭
文化圏日本
材質鋼(Met公式データ)
全長103.8cm
銃身長73cm
口径16mm
重量3009g
分類Firearms-Guns-Matchlock
収蔵The Metropolitan Museum of Art, Arms and Armor
受入Gift of Bashford Dean, 1914
作品番号14.100.101
画像権利Public Domain

鉄砲伝来から約半世紀後の一挺

日本への火縄式鉄砲伝来は天文12年(1543)とされます。鹿児島県や国土交通省の解説では、種子島に漂着した船のポルトガル人から島主・種子島時尭が鉄砲を入手し、国内で模作が始まったと整理されています。国土交通省は、伝来後約10年で九州や近畿を中心に銃砲製造拠点が形成され、日本の鍛冶職人が輸入品を模倣しながら独自の改良を進めたと説明しています。

Metがこの銃を16世紀後半~17世紀初頭とするなら、鉄砲伝来からおよそ半世紀以内の時期に位置します。すでに国産火縄銃が広く展開した時代です。その中でディーンが銃身の固定法や機関部を見て「外国製かもしれない」と考えた点は、当時の日本製火縄銃との構造比較から生まれた仮説でした。

MetのOpen Access対象作品で、公式ページは画像をPublic Domainと表示しています。MetはPublic Domain画像とOpen Accessデータを、許可や料金を要しない商用・非商用利用の対象として公開しています。細部写真まで公開されているため、銃身上面、機関部、龍文、銘文を個別に観察できます。

火縄銃はどこを動かして撃つのか

火縄銃では、点火した火縄を「火ばさみ」に挟みます。引き金を操作すると火ばさみが動き、火縄が火皿の点火薬に触れます。火皿で生じた火が銃身内部の主火薬へ伝わり、燃焼ガスの圧力で弾丸を発射します。

国土交通省の多言語解説データベースは、基本部品として引き金、地板、火縄、火ばさみ、胴金、弾き金、火皿、火ぶたを挙げています。日本の火縄銃には複数の「からくり」があり、16世紀の戦闘で広く用いられた基本形式として「平からくり」も解説されています。

堀尾吉晴ゆかりの火縄銃を反対側から見た全景
反対側から見た火縄銃。銃床の曲線、長い銃身、機関部の位置関係が分かります。The Metropolitan Museum of Art, 14.100.101, Public Domain

この銃は約3kgあります。銃身だけで73cm、全長は1mを超えます。現代の小型火器を想像すると短く感じる銃床も、日本の火縄銃で一般的に見られる形です。木製の銃床に長い金属製銃身を載せ、機関部を後方に配置しています。

銃身を覆う龍と雲

堀尾吉晴ゆかりの火縄銃の銃身上面に施された龍と雲の装飾
銃身上面。長い銃身の中央部に龍が走り、その周囲を雲文が覆います。The Metropolitan Museum of Art, 14.100.101, Public Domain

上面から見ると、この銃が実用品だけを目的とした簡素な鉄砲と大きく異なることが分かります。銃身中央を龍が長く走り、周囲に渦巻く雲が彫られています。龍には金色の金属が用いられ、暗い銃身との対比が強く出ています。

火縄銃の龍と雲の装飾および機関部の拡大
龍と雲文の拡大。右側には火縄銃の機関部も見えます。The Metropolitan Museum of Art, 14.100.101, Public Domain

1916年のディーンは、金具の一部が水銀鍍金による豊かな金色装飾を持つと記しました。銃身には波状の装飾もあり、彼はその加工法を銃身の出自を考える材料に使っています。装飾の豪華さは、この一挺が所持者の身分や贈答の意味を帯びた品として扱われた可能性を示します。

銘文に現れる「堀尾帯刀」「関白太閤」「拝領」

この火縄銃の歴史を大きく左右したのが銃身の銘文です。ディーンは1916年の『Notes on Arms and Armor』で、銘をローマ字で「Chosen / Horio Taito / Kampaku Taiko / Hairio / Un-in Joshu」と記録しました。彼は「Horio Taito」を堀尾帯刀、すなわち堀尾吉晴に結びつけ、「Kampaku Taiko」を豊臣秀吉、「Hairio」を拝領と解釈しました。

「帯刀」は吉晴の官途・通称と結びつく表記です。ディーンは堀尾吉晴をHideyoshiに仕えた武将として説明し、銘文を「秀吉から吉晴へ贈られた銃」という来歴にまとめました。1916年の図版にも、秀吉から堀尾帯刀へ贈られた銃という趣旨のキャプションを付けています。

堀尾吉晴ゆかりの火縄銃の龍文と銘文の拡大
龍の尾の近くに複数の文字が刻まれています。銘文の読みは、この銃の来歴を考える中心資料です。The Metropolitan Museum of Art, 14.100.101, Public Domain

吉祥句「壽比南山 富如東海」

この銃を扱う現代の研究・教育プロジェクト「Things That Talk」は、銃身に「壽比南山 富如東海」という吉祥句があると紹介しています。「壽比南山」は南山のような長寿を願う表現で、中国古典に由来する祝寿語です。「富如東海」は富が東海のように豊かであることを願う表現です。

人を撃つ武器に長寿と富を願う言葉が加わる点は、この銃の性格を考える重要な材料です。軍事技術としての機能に加え、贈答、記念、権威、家伝といった意味が重なった品として読む余地があります。

銃口近くに刻まれた「朝鮮」の二字

堀尾吉晴ゆかりの火縄銃に刻まれた朝鮮の銘
銃身に見える「朝鮮」の二字。The Metropolitan Museum of Art, 14.100.101, Public Domain

銃身には「朝鮮」と読める二字があります。秀吉の朝鮮出兵は文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけて二度行われました。銘文に秀吉を指すと解釈された文字と「朝鮮」が並ぶため、ディーンもこの二字を重視しました。

「朝鮮」の二字から確実に読めるのは地名との関係までで、実戦使用の確定には別の史料が必要です。ディーン自身も1916年の段階で、朝鮮出兵そのものの遺物なのか、戦役と関連して贈られた品なのかという複数の可能性を提示しています。Met公式作品情報の確定項目は年代・文化圏・材質・寸法・来歴などで、朝鮮半島での実戦使用は対象外です。

「Things That Talk」は、「朝鮮」の文字がほかの銘より小さく細い点にも注目し、別の時期に刻まれた可能性を紹介しています。これは文字の形状差に基づく仮説です。

「秀吉からの贈り物」説はどこから来たのか

現在広く紹介される「秀吉から堀尾吉晴への贈答品」という理解の重要な出典は、ディーンの1916年論考です。ディーンは銘文を一続きの来歴情報として読み、「朝鮮」「堀尾帯刀」「関白太閤」「拝領」「雲隠城主」を結びつけました。

一方、現在のMet公式ページは作品名を《Matchlock Gun of Horio Yoshiharu》としながら、制作年代を「late 16th–early 17th century」と幅広く設定しています。作品詳細の基本欄は年代・文化圏・材質・寸法・来歴などで構成され、1592~1598年の特定年や「秀吉からの贈答」は確定項目の対象外です。1916年のディーンによる解釈と、現在のMetが示す作品データでは、確度の置き方に差があります。

ディーン自身も、歴史上の著名人に結びつく美術品の伝来は慎重に扱う必要があると論考末尾で述べています。彼はこの銃と銘文を同時代のものと評価しつつ、歴史的帰属には留保が必要という姿勢を示しました。

「雲隠城主」が生む年代上の問題

ディーンは「Un-in Joshu」を「雲隠城主」と読み、「雲」を出雲、「隠」を隠岐に結びつけました。現在の公的資料と照合すると、年代上の問題が現れます。

文化庁の国指定文化財等データベースは、関ヶ原合戦後の慶長5年(1600)、堀尾忠氏が出雲・隠岐二国24万石の領主として入封し、父の吉晴とともに富田城へ入ったと説明しています。松江市の公式観光情報も、1600年に堀尾氏が出雲・隠岐へ入った経緯を示しています。秀吉の死去は慶長3年(1598)です。

仮に「雲隠城主」が1600年以後の出雲・隠岐支配を前提とする称号なら、その銘を秀吉存命中の贈答時に刻んだとする理解には年代差が生じます。銃そのものの制作・贈答と、来歴を記録する銘の追加が別時期だった可能性は、この年代差を説明できる一案です。「Things That Talk」も、銘文の一部が後世に来歴を記録する目的で加えられた可能性を紹介しています。

この年代差は銘の成立時期を考える材料です。銃の制作年代、秀吉・吉晴に結びつく銘、1600年の出雲・隠岐入封を合わせると、銘が複数の時期に加えられた可能性が浮かびます。

ディーンが唱えた「外国製銃身」説

1916年の論考には、もう一つ大きな仮説があります。ディーンは銃身を観察し、後世の日本製火縄銃とは機関部が異なる点、銃身下面の小さな輪、銃身と銃床の固定方法、銃身の薄さ、波文様の加工法などを根拠に、銃身が外国製で、ポルトガルからの初期輸入品である可能性を提示しました。

ディーンは「南蛮鉄」にも触れています。当時の日本で外国由来の鉄が高く評価されたことを背景に、銃身の材質と加工を外国との技術交流に結びつけました。これは1916年のディーン説です。現在のMet公式作品情報では、文化圏は「Japanese」、材質は「Steel」と記載されています。

現在確認できるのは、ディーンが銃身の外国製、特にポルトガル由来の可能性を提案したことです。

堀尾吉晴はどんな人物だったのか

松江市の「堀尾吉晴公共同研究会」は、吉晴を現在の愛知県大口町で生まれ、織田・豊臣・徳川に仕え、松江で亡くなった戦国武将として紹介しています。研究会は松江市を含むゆかりの自治体で構成され、吉晴の人物像と功績を史料調査から明らかにする活動を続けています。

吉晴は豊臣政権下で出世し、浜松城主にもなりました。関ヶ原合戦後、出雲・隠岐24万石を与えられた当主は子の忠氏です。忠氏は父の吉晴とともに富田城へ入り、のちに松江城建設へつながる新たな城下町整備が進みました。忠氏の死後、吉晴は幼い孫の忠晴を支えながら松江城築城を担い、1611年に亡くなりました。

松江市は吉晴について複数の研究書を刊行し、城郭改修、富田城、松江城普請、出雲入部などを継続的に検討しています。

1905年、松江でバッシュフォード・ディーンが入手

この火縄銃がニューヨークへ渡る経緯は、ディーン自身が1916年に記録しています。1905年、ディーンは松江を訪れました。目的の一つは、寺社に伝わる足利尊氏ゆかりとされた14世紀の甲冑を詳しく調査し、撮影することでした。

ディーンは、現地で通訳を務めた学校教師を介し、寺の所有物とは別の古物を見る機会を得ました。その中に歴史的な銃、軍扇、陣笠があり、彼は数点を入手しました。1916年の記述は、この火縄銃を松江での収集活動に結びつける一次的な記録です。

Met公式作品情報のCredit Lineは「Gift of Bashford Dean, 1914」。作品番号14.100.101として1914年にMetへ寄贈されたことが確認できます。松江でディーンの手に渡った1905年から、Met収蔵の1914年まで9年です。

バッシュフォード・ディーンは何者だったのか

ディーン(1867~1928)は、もともと動物学・古生物学を専門とする研究者でした。1891年にコロンビア大学で博士号を取得し、同大学教授、アメリカ自然史博物館の魚類・爬虫類分野の研究職などを担いました。同時に日本の武器・甲冑研究へ深く入り、Metの武器・甲冑部門創設に中心的役割を果たしました。

Metによると、ディーンは1890年代の科学調査で日本を訪れ、日本武具を研究・収集しました。1900年頃までに約125点の私蔵コレクションを形成し、1903年にMetへ貸与、1904年に同館が購入しました。その売却代金を使ってさらに大規模な日本武具コレクションを作り、1914年にMetへ寄贈しています。堀尾吉晴ゆかりの火縄銃も、この1914年寄贈に含まれました。

Metの武器・甲冑部門は1912年に独立部門となり、ディーンが初代キュレーターを務めました。日本の甲冑や刀装具を欧米で体系的に収集・研究した初期の重要人物です。1905年の入手経緯はディーン自身の記録に基づき、堀尾氏の領国支配については現在の公的研究が異なる整理を示しています。

ディーンの堀尾氏理解と現在の公的資料の違い

1916年のディーンは、吉晴が徳川家康から出雲24万石と隠岐を与えられ、松江へ移って城を築いたという流れで説明しました。しかし現在の文化庁資料では、1600年に出雲・隠岐24万石の領主として入封した人物は堀尾忠氏です。忠氏は父・吉晴とともに富田城へ入りました。

1905年の収集体験と銃の観察記録はディーン自身の記録です。一方、堀尾氏の領国支配や松江藩成立については、現在の公的研究で異なる整理が示されています。

この一挺から確実に言えること、解釈が分かれること

論点現在確認できる位置づけ
Metに実物がある確実。作品番号14.100.101
制作年代Metは16世紀後半~17世紀初頭
寸法全長103.8cm、銃身73cm、口径16mm、重量3009g
堀尾吉晴との関係Metが作品名にHorio Yoshiharuを採用。銃身の「堀尾帯刀」銘をディーンが吉晴に結びつけた
秀吉からの贈答ディーンが1916年に銘文から解釈。現在のMet基本データでは贈答は確定項目の対象外
「朝鮮」銘実物に確認できる重要な銘。朝鮮半島での実戦使用を直接確定する材料とは別
「雲隠城主」ディーンが出雲・隠岐と結びつけた。1600年入封との年代照合が必要
外国製銃身ディーンがポルトガル由来の可能性を提示。現在のMet基本データでは日本・鋼
松江での入手ディーン自身が1905年の松江訪問と古物入手を記録
Metへの寄贈1914年、Bashford Deanから寄贈

武器、贈答品、家伝資料、博物館資料という四つの顔

この火縄銃には少なくとも四つの読み方があります。第一は、火縄を使って発射する16~17世紀の軍事技術。第二は、龍・雲・金色装飾と吉祥句を備えた贈答品。第三は、堀尾氏や秀吉との関係を後世へ伝える家伝資料。第四は、1905年の松江でディーンが収集し、1914年以降Metで研究・保存されてきた博物館資料です。

銃身の文字は、この四つの時間を一度に抱えています。「関白太閤」「拝領」が豊臣政権期を指し、「雲隠城主」が出雲・隠岐支配との関係を示し、「朝鮮」が文禄・慶長の役を連想させます。その一方で、それぞれの文字が同じ時期に刻まれたという前提には年代上の検討が残ります。

機関部、龍文、加工痕、銘文の大きさや書体、木製銃床との接合まで見ると、ディーンが何を根拠に仮説を立てたのかを追えます。この一挺は、技術史・美術史・戦国政治史・収集史が交わる資料です。

参考資料