早瀬の渡し水神宮碑の歴史|荒川の渡し場と1821年の水難防止祈願

板橋区新河岸三丁目の新河岸公園には、文政4年(1821)に造られた「早瀬の渡し水神宮碑」が残っています。江戸時代から大正時代にかけて、この一帯には旧上赤塚村と荒川対岸の旧下笹目村を結ぶ渡し場がありました。石碑は川を行き交う人々の水難事故を防ぐ願いを伝えています。

上赤塚村と下笹目村を結んだ渡し船

大きな川に橋を架けることが難しかった時代、渡し船は村と村を結ぶ交通手段でした。早瀬の渡しでは、板橋側の上赤塚村と対岸の下笹目村との間を人々が往来しました。川向こうの親類や取引先を訪ねる場合にも、渡船が必要でした。

板橋区の文化財マップには、この場所に中世の鎌倉道の渡河点があったという伝承も記されています。現在に残る水神宮碑の建立年代と、中世からの道筋に関する伝承は、時代を分けて考えることができます。

文政4年(1821)の水神宮碑

文政4年に建てられた水神宮碑は、水難事故を防ぐことを願う石造物です。渡し場では流れの速さや水量が変化し、増水期には船の運航も危険になりました。川の安全を祈る水神信仰は、渡船や漁業など、水に関わる仕事を持つ人々の生活と結び付いていました。

石碑の建立年が分かるため、少なくとも19世紀初めには渡し場の安全を祈る人々がいたことを知ることができます。川の交通を支える人々の祈りが、石に刻まれて保存されました。

河川交通の変化と石碑の保存

渡し場は大正時代まで利用されたと伝わります。その後、河川改修、道路や橋の整備などによって地域の交通は変わりました。現在の荒川河川敷は護岸や公園が整備され、渡し船が使われていた時代とは景観が異なります。

早瀬の渡し水神宮碑は新河岸3丁目9番の区立新河岸公園に残っています。周辺には徳丸ケ原から高島平へ続く低地が広がります。徳丸・高島平周辺の歴史と文化財とあわせると、農村の土地利用と荒川沿いの交通の関係をたどれます。

参考資料