日本のインターナショナルスクールの歴史|明治の横浜から東京の学校を築いた人々まで

1872年(明治5年)、横浜に外国人の子どもたちのための学校が生まれました。同じ年、日本政府は全国的な近代学校制度を構想した「学制」を公布しています。日本の近代教育が始まった時代に、港町では異なる言語や文化を背景とする子どもの教育も課題となっていました。

日本のインターナショナルスクールの歩みには、明治の開港、関東大震災、戦争、戦後復興、外国人の生活圏の広がりが重なります。学校を設立したフランス人修道女、日本人の姉妹、英国やインドとつながる教育関係者たちの活動を、横浜と東京の歴史に沿ってたどります。

インターナショナルスクールとは何か――外国人学校との関係

文部科学省は、いわゆるインターナショナルスクールを、一般的に「主に英語により授業が行われ、外国人児童生徒を対象とする教育施設」と捉えています。

一方、外国人学校は、海外にルーツを持つ子どもたちの教育を担う学校を広く指します。中国語を中心とする中華学校、韓国語を中心とする韓国学校、朝鮮学校、フランスの教育課程を使う学校など、成立の経緯や教育言語はさまざまです。英語中心のインターナショナルスクールと歴史が交わる部分もあります。民族学校にはそれぞれ固有の成立事情があります。

日本の学校教育法では、認可された小学校・中学校・高等学校などの「一条校」と、「各種学校」などが区別されています。インターナショナルスクールという名称は、これらの法的区分とは別のものです。

1872年、開港した横浜で学校を開いたマチルド・ラクロー

1859年に開港した横浜には、貿易商、外交官、宣教師とその家族が暮らすようになりました。生糸貿易でにぎわう港町で、成長する子どもたちに継続した教育を受けさせる学校が必要になりました。

その要望に応えた人物の一人が、フランス人修道女マチルド・ラクロー(Mathilde Raclot、1814〜1911年)です。東南アジアで女子教育に携わっていたラクローは、58歳だった1872年、仲間の修道女たちと横浜へ渡り、サンモール・インターナショナルスクールの起源となる学校を築きました。現在の学校は日本に現存する最古のインターナショナルスクールとされています。

横浜の学校は、フランスから移された教育活動が日本の開港地で定着した例です。1872年には日本政府も「学制」を公布しました。国内の全国的な教育制度づくりと、居留外国人の子どものための学校づくりが、同じ明治初期に進められていました。

1902年、東京の外国人学校とローランド・モリス

横浜に続き、東京でも外国人家庭の教育の場が整えられました。1902年(明治35年)に創立された「Tokyo School for Foreign Children」が、現在のアメリカン・スクール・イン・ジャパン(ASIJ)の前身です。創立期の学校は小規模で、築地への移転などを経ながら生徒を受け入れました。

1920年、学校は「The American School in Japan」に改称します。この校名を提案したのは、当時の駐日アメリカ大使ローランド・S・モリス(Roland S. Morris、1874〜1945年)でした。モリスは創立者ではなく、学校の発展に関わった支援者です。外国人の家庭だけで完結するのではなく、大使館や在留外国人の地域社会が学校を支えていた様子がうかがえます。

ASIJは1927年に中目黒へ移り、1963年に現在の調布のキャンパスへ移転しました。築地、中目黒、調布という所在地の変化にも、東京の都市の広がりと学校規模の拡大が表れています。

1924年の横浜と、戦争で途切れた学校生活

1923年の関東大震災は横浜の外国人社会にも大きな影響を与えました。翌1924年9月、外国人の子どものための学校を設けようとする人々が集まり、横浜インターナショナルスクール(YIS)の設立を決めます。同年10月、地元YMCAの借りた一室で、児童6人と教師1人による授業が始まりました。

1939年には生徒が110人、国籍は21に及びました。しかし戦争が深まる中、YISは1941年に閉鎖されます。1945年5月の横浜空襲で校舎は焼失し、戦後の1955年に児童8人で再開しました。

東京のASIJも1941年から1946年にかけて閉鎖を経験しました。これらの学校史には、国際関係の悪化が子どもの日常の学びを断ち切った経緯が記録されています。

1949年、松方種子とハルが麻布で始めた4人の学校

第二次世界大戦後、日本人自身が新しい国際教育を構想した学校も現れます。代表的な人物が、松方種子(たねこ、1918〜1989年)です。アメリカで17年間学び暮らした後、1948年に帰国した種子は、戦争の傷跡が残る東京で、子どもが異文化を理解し、ともに学ぶための教育を考えました。

1949年、種子は姉の松方ハル・ライシャワーや友人たちとともに、麻布の知人宅で児童4人の授業を始めます。これが西町インターナショナルスクールの出発点です。姉妹が英語を担当し、日本語を教える教師も迎えました。1956年には英語が主要な授業言語となり、日本語の授業も続けられました。

初期の学校では校舎建設費の確保も課題でした。学校に伝わる記録には、松方姉妹がアメリカの知人から送られた古着を販売し、建設資金を集めた話が残っています。1951年には初めての専用校舎が完成しました。

外国人家庭のための教育を維持するという明治以来の課題に、戦後の西町は別の目的を加えました。日本語と英語を学び、異なる文化を持つ人々との共生を考える教育です。校名に「インターナショナル」が加わったのは1966年でした。

1968年、国際バカロレアとアレック・ピーターソン

学校を移るたびに教育課程や卒業資格が変わることは、国境を越えて暮らす家庭にとって切実な問題でした。スイスのジュネーブ・インターナショナルスクールの教師らが中心となり、1968年に国際バカロレア(IB)のディプロマ・プログラムが成立します。大学進学に必要な学習を国際的に接続する試みでした。

この制度の初代事務総長を務めたのが、イギリスの教育者アレック・ピーターソン(Alec Peterson、1908〜1988年)です。ピーターソンは、特定分野への早期の専門化に偏らず、幅広い学び、独立した研究、批判的思考を重視しました。

日本でも1986年に横浜インターナショナルスクールがIBディプロマ課程を開始しました。現在のIBには幼児・初等教育向けのPYP、中等教育向けのMYP、高校年代向けのDPなどがあります。IB認定の有無と、日本の学校教育法上の一条校に当たるかどうかは、それぞれ別に確認する必要があります。

1989年から1990年代、東京に広がる新しい学校

1989年、ブリティッシュ・スクール・イン東京(BST)が渋谷に開校しました。英国の教育課程に沿う学校として出発し、学校の記録では開校式に当時の英国首相マーガレット・サッチャーが出席したとされています。2006年には昭和女子大学の敷地内にも拠点を設け、教育対象の年齢を広げていきました。

この時期に日本人が創設した学校の一つが、東京インターナショナルスクール(TIS)です。創設者の坪谷ニュウエル郁子は1985年に英語教育事業を始め、1994年には後のTISにつながるプリスクールを開きました。学校は1997年に初等教育へ、2002年には中等教育へと広がりました。

坪谷は日本でのIB教育の普及にも関わりました。本人が東京大学のインタビューで語ったように、自身の子どもを育てる過程でプリスクール、初等教育、中等教育へと取り組みを広げたことが、学校設立の背景にありました。

2000年代、西葛西に生まれたインド系インターナショナルスクール

1990年代以降、情報技術分野の仕事などを通じて日本で暮らすインド人家庭が増えました。学校に求められたのは、英語で学べる環境と、インドの教育課程を継続できる仕組みでした。東京のインターナショナルスクールは、英米系の学校に加えてインド系の学校にも広がります。

ニルマル・ジャインとIISJ――2004年

ニルマル・ジャイン(Nirmal Jain)が創設したインディア・インターナショナルスクール・イン・ジャパン(IISJ)は、2004年に27人の生徒を迎えて始まりました。インド中央中等教育委員会(CBSE)の教育課程を採用し、インド人家庭が日本で暮らしながら学習を継続できる環境を整えました。学校は後に江東区の校舎へ移り、規模を拡大しました。

アトゥル・テムルニカルとGIIS――2006年

グローバル・インディアン・インターナショナルスクール(GIIS)は、2002年にシンガポールで始まった教育事業を母体としています。その運営団体の共同創設者の一人がアトゥル・テムルニカル(Atul Temurnikar)です。GIISは2006年に東京の西葛西へ進出しました。

GIIS東京校はその後、東葛西などへキャンパスを広げました。2017年の新校舎開設時には、インドのCBSEに加え、ケンブリッジの課程やIBのディプロマ課程を提供する方針が公表されています。同年の学校発表には、インド以外の国籍や日本人の生徒が増えていることも記されています。

西葛西を舞台とするインド系学校の成立は、東京に住む外国人の出身地域や職業、家庭生活が多様になった時代の出来事です。明治の横浜の外国人居留地と同じく、子どもの教育は地域に暮らす家族にとって欠かせない生活基盤でした。

一条校とインターナショナルスクールの違いは、進学にも関わる

現在の学校を考える際には、教育言語やカリキュラムに加え、学校教育法上の位置づけが重要です。「一条校」は同法第1条に定められた学校で、一般の小学校、中学校、高等学校などが含まれます。インターナショナルスクールには一条校もありますが、各種学校として認可された学校や、それ以外の施設もあります。学校法人としての認可、IB認定、一条校という法的位置づけは、それぞれ異なる制度です。

日本国籍の子どもを一条校ではないインターナショナルスクールに通わせた場合、日本の学校教育法が定める就学義務の履行には当たりません。また、日本国内の外国人学校の中等部を卒業した事実だけで、日本の高等学校への入学資格が認められるわけでもありません。中学校卒業程度認定試験など、別途資格を満たして受験する道があります。保護者の国籍や個々の事情によって扱いが異なるため、進学先や教育委員会で具体的な条件を確認する必要があります。

大学入学資格には、国際バカロレア資格や文部科学大臣が指定した国内の外国人学校の課程の修了など、別の仕組みもあります。「中学校の卒業資格」「高校への入学資格」「大学への入学資格」は別々の制度です。

東京と横浜に残る学校の歴史

横浜のサンモールは、明治の開港地に生まれた学校として現在も教育を続けています。横浜インターナショナルスクールは震災後の創立、戦時閉鎖、戦後再開を経て、2022年に本牧地区の新校舎へ移りました。東京では、築地から中目黒、調布へ移転したASIJの歴史が、都市の変化を伝えています。

港区元麻布の西町インターナショナルスクールには、松方家が使っていた洋館が残ります。住居として建てられた建物は外交施設として使われた時期もあり、1965年から学校の一部として活用されました。校舎と町の歴史が重なる場所です。

マチルド・ラクロー、ローランド・モリス、松方種子とハル、アレック・ピーターソン、坪谷ニュウエル郁子、ニルマル・ジャイン、アトゥル・テムルニカル。異なる時代に学校や教育制度を支えた人々の仕事には、日本で暮らす子どもたちに、どのような学びの場が必要だったのかという問いが共通しています。

主な参考資料