幕末・明治の日本人はなぜラトガース大学へ? 江戸東京博物館「日米交流 知のかけはし」展を解説

19世紀初頭に描かれたクイーンズ・カレッジのオールド・クイーンズ校舎

幕末、海を渡ってアメリカで学んだ日本人たちは、何を身につけ、帰国後どのような仕事に就いたのでしょうか。2026年10月24日から12月6日まで、江戸東京博物館で企画展「日米交流 知のかけはし-ラトガース・カレッジと幕末明治の日本人留学生-」が開催されます。舞台は米国ニュージャージー州の学園都市ニューブランズウィック。勝海舟の息子や日本各地の若者が集い、語学、自然科学、海軍技術などを学びました。

展示は、留学生の進路だけでなく、彼らを教えた米国人が日本の教育制度づくりに関わった経緯も扱います。江戸東京博物館所蔵資料を中心とする企画展で、ラトガース大学グリフィスコレクションの実資料は展示されません。

この展覧会で何がわかる?――「知のかけはし」というテーマ

展覧会は、幕末の開国による英学需要の高まりから始まり、勝小鹿の渡米、ニューブランズウィックの留学生たち、来日した米国人教師、明治政府の教育改革へと進みます。公式の展示構成は、プロローグと四つの章、エピローグです。

1860年代後半には、日本人が米国の学校で学ぶ一方、ラトガースの卒業生が日本へ招聘されるようになりました。人材の往来が学生個人の学問から学校制度、外交、金融、芸術へ広がった過程が主題です。2026年は米国独立250周年であり、ウィリアム・エリオット・グリフィスの二度目の来日から100年にあたります。

幕末の日本人は、なぜアメリカへ留学したのか

1858年の安政五カ国条約によって開港場で外国人との接触が増えると、通訳、貿易、外交のために英語を使う人材が必要になりました。造船や海軍、測量、医学、理化学を学ぶ必要も高まりました。幕府と各藩は海外の学校や軍事教育に注目し、1866年に幕府が海外渡航の禁を解くと、米国留学が本格化しました。同時期には、幕末・明治の海外使節団の派遣も進み、外交交渉と技術・制度の調査が並行して行われました。

留学先の選択には、学校の評判だけでなく、日本で英語を教えていた宣教師の紹介、渡航費、身元保証、すでに現地にいる日本人とのつながりが影響しました。長崎で教えたグイド・フルベッキはオランダ改革派教会の宣教師で、ラトガースにつながる人的経路をつくりました。横井小楠の親族である横井佐平太・大平の兄弟は、1866年に米国へ渡り、ニューブランズウィックのラトガース・グラマースクールで英語を学び始めました。

ラトガース・カレッジとはどんな学校だったのか

現在のラトガース大学は1766年、英領植民地時代のニュージャージーにクイーンズ・カレッジとして創設されました。オランダ改革派教会と結びつきの深い学校で、1825年には支援者ヘンリー・ラトガースにちなみラトガース・カレッジと改称されます。1864年には科学教育を担うラトガース科学学校が設けられました。

日本人留学生の多くが最初に入ったのは大学本課程ではなく、付属のグラマースクールでした。英語や基礎科目を学び、カレッジ本課程、アナポリス海軍兵学校など次の進路へ進みました。同じニューブランズウィックで学んでも、入学先と修学目的は人によって異なります。

19世紀初頭に描かれたクイーンズ・カレッジのオールド・クイーンズ校舎
クイーンズ・カレッジの校舎を描いた19世紀初頭の絵。Wikimedia Commons/作者不詳、パブリックドメイン。

誰が留学し、何を学んだのか

勝小鹿――海軍士官を目指した勝海舟の長男

勝小鹿(1852~1892)は、軍艦奉行を務めた勝海舟の長男です。1867年、アメリカ郵船コロラド号で渡米し、同年末にニューブランズウィックへ移りました。ラトガースのグラマースクールで英語と基礎科目を学び、1871年にアナポリス海軍兵学校へ進学しました。勝海舟の門弟である高木三郎と富田鉄之助も渡米に同行し、現地で留学生を支援しました。

日下部太郎――理数系の学問に励んだ福井藩の留学生

福井藩出身の日下部太郎(1845~1870)は、ラトガース・カレッジで数学や自然科学を学びました。学業成績は優秀で、米国の学術名誉団体ファイ・ベータ・カッパにも選ばれました。しかし結核を患い、1870年、卒業直前に死去しました。大学は死後に学位を授与しています。日下部の学習を助けていたグリフィスが後に福井藩から招かれたことは、両国の人材交流が続く契機となりました。

畠山義成――留学経験を明治政府の教育行政へ

薩摩藩出身の畠山義成(1842~1876)は、1867年に別名でラトガースへ入り、1871年に卒業しました。留学中は経済的な困難に直面し、オランダ改革派教会の支援も受けました。1873年に帰国した後は、文部省などの行政に従事し、東京の高等教育機関の運営に携わりました。学生から教育行政の担い手へと進んだ人物です。

川村清雄と永井久一郎――芸術と図書館行政につながる留学

1871年には徳川宗家の給費留学生がニューブランズウィックへ渡り、その一人が川村清雄(1852~1934)でした。グラマースクールで学んだ後、ワシントンで西洋画を修め、さらにパリやヴェネツィアで修業を重ねました。日本の近代洋画史を考えるうえで欠かせない画家となります。

永井久一郎は、名古屋藩の給費留学生としてラトガースのグラマースクールで学び、現地生活を日記に残しました。帰国後は文部省で外国人教師の通訳などを務め、東京書籍館の運営にも関わりました。作家永井荷風の父として知られる人物ですが、その経歴には明治初期の教育・図書館行政の実務が含まれます。

日本人留学生を支えたアメリカ側の人物とネットワーク

ラトガースの日本人留学生を支えたのは、学校の教員、同窓生、宣教師、米国在住の日本人でした。フルベッキやサミュエル・ロビンス・ブラウンらオランダ改革派教会系の宣教師は、日本で英語を教え、渡米先につながる紹介の役割を果たしました。教会による留学支援と、留学生自身の信仰上の選択は区別して考える必要があります。

グリフィス(1843~1928)は1869年にラトガースを卒業し、日本人留学生の勉学を手助けしていました。日下部太郎の郷里である福井藩に招かれ、1870年に来日して理科教育などに携わり、後に東京の大学南校でも教えました。静岡藩が教師を求めると、グリフィスは友人のエドワード・ウォーレン・クラーク(1849~1907)を紹介しました。クラークは1871年に静岡へ赴き、科学を教授しました。

19世紀後半に福井藩と大学南校で英語や理科を教えたウィリアム・エリオット・グリフィスの肖像
ウィリアム・エリオット・グリフィス。1901年以前に刊行された肖像。Wikimedia Commons/パブリックドメイン。

1873年にはラトガースの教授デビッド・マレー(1830~1905)が文部省の教育顧問として招聘されました。明治政府の教育制度整備に助言し、女子師範学校や教育博物館の構想にも関わりました。教員として来日した人々と、米国で学んだ畠山義成、永井久一郎、高橋是清ら日本人の通訳・官僚が協力して政策を進めました。

帰国した留学生は日本に何をもたらしたのか

帰国後の仕事は留学生の専門によって異なります。海軍教育では、ラトガースで学んだ後にアナポリスへ進んだ松村淳蔵が、日本の海軍士官養成に携わりました。行政と金融では、勝小鹿の渡米に同行した富田鉄之助が大蔵省などを経て日本銀行総裁を務めました。高木三郎は米国で領事業務に関わり、のちに実業へ進みました。

教育では畠山義成が文部省の実務に従事し、永井久一郎は図書館行政に関わりました。文化の分野では川村清雄が欧米で吸収した絵画技法を日本へ持ち帰りました。米国留学は一律の進路をつくったのではなく、語学を入口として海軍、官庁、金融、芸術など複数の仕事へ結びつきました。

展覧会で注目したい史料と見どころ

江戸東京博物館が紹介している展示資料には、勝海舟が1867年に息子の渡米に際して記した「志を述べて小鹿に示す」があります。父が留学する息子へ寄せた言葉を残す史料です。1871年の「家族宛川村清雄書簡よりグレートリパブリック号船内スケッチ」や「写真 徳川家給費留学生たち」からは、渡航の経験と留学生同士のつながりをたどれます。

教師の活動に関する資料では、1872年刊の『自由之理』が挙げられます。イギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミルの著書を中村正直が訳し、クラークが序文を寄せた本です。明治初年の思想・翻訳・外国人教師の関係を伝えています。1873年、二代歌川国輝による「東京第一大学区開成学校開業式之図」は、近代学校制度の整備が進んだ時期の様子を描きます。

このほか「高橋是清写真帖より高橋是清肖像写真」、1913年の「永井恒宛マーサ・マレー書簡」、クラークの著書『Katz Awa: The Bismarck of Japan』(1904年)などが紹介されています。実物と複製の別、個別資料の展示期間、撮影できる範囲は会場での表示に従ってください。ラトガース大学所蔵のグリフィスコレクションは、今回の実物出品対象に含まれていません。

どこが歴史的に面白い?――留学がつないだ日米交流

1860年代の留学生には、まず英語を身につけて軍事・技術教育へ進もうとする者が多くいました。明治維新後は進路が広がり、学校教育、官庁の実務、美術などへ経験が生かされます。学校の紹介者であった米国人が、今度は日本に赴いて教員や教育顧問となった点も特徴です。

交流は卒業や帰国で途切れませんでした。1894年にはクラークが再来日して勝海舟と再会し、1926年には高齢のグリフィスが再び日本を訪れました。日米関係が緊張する時期に、グリフィスは福井などで講演し、両国の親善を呼びかけています。留学で生まれた人間関係が数十年後の往来にもつながりました。

開催概要と鑑賞前に知っておきたいこと

  • 名称:企画展「日米交流 知のかけはし-ラトガース・カレッジと幕末明治の日本人留学生-」
  • 会期:2026年10月24日(土)~12月6日(日)
  • 会場:東京都江戸東京博物館5階企画展示室(東京都墨田区横網1-4-1)
  • 開館時間:9時30分~17時30分。土曜日は19時30分まで。11月6日・13日・20日・27日の金曜日は20時まで
  • 最終入館:閉館30分前
  • 休館日:毎週月曜日(11月2日・23日は開館)、11月4日・24日
  • 観覧料:常設展観覧料で鑑賞可能。一般800円、65歳以上400円、大学生480円、高校生300円、中学生以下無料
  • 交通:JR総武線「両国駅」西口から徒歩約3分、都営大江戸線「両国駅」から徒歩約1分
  • 主催:東京都、東京都江戸東京博物館(公益財団法人東京都歴史文化財団)
  • 公式案内:江戸東京博物館「日米交流 知のかけはし」展

展示資料の撮影可否や資料ごとの入替については、展示室の注意表示と当日の案内を確認してください。訪問後には、実際に鑑賞した資料や会場の様子を同じ記事に追記する予定です。

参考文献・資料