JR川崎駅や京急川崎駅の周辺は大きな商業地ですが、少し歩くと江戸時代の東海道が現在の街路に重なります。川崎宿は元和9年(1623)に開設された宿場で、江戸口から京口までおよそ1.5km。六郷川を渡る旅人、川崎大師へ向かう参詣客、大名行列など、多くの人が行き交いました。
現在は江戸時代の建物の多くが姿を消しました。それでも、旧東海道の道筋に本陣跡、問屋場跡、寺社、六郷の渡し跡が続き、宿場の輪郭を歩いて追えます。江戸の交通制度、川崎大師参詣、六郷川の渡船、明治の鉄道が重なり、現在の川崎中心部へつながっていきました。

川崎宿とは|1623年に生まれた東海道の宿場
川崎宿は、東海道五十三次で日本橋から数えて2番目、品川宿と神奈川宿の間にある宿場です。東海道の主要な宿駅が慶長6年(1601)に整えられたのに対し、川崎宿は元和9年(1623)に追加されました。品川宿と神奈川宿の間が長く、伝馬役を担う両宿の負担を軽くすることが設置の大きな理由でした。
最初に宿場を構成したのは新宿と砂子の2村で、その後、久根崎と小土呂が加わり4村となりました。江戸口から京口までの長さは約1.5kmです。
川崎宿の基本データ
- 開設:元和9年(1623)
- 位置:日本橋から2番目、品川宿と神奈川宿の間
- 宿場の長さ:江戸口から京口まで約1.5km
- 構成:新宿・砂子・久根崎・小土呂の4村
- 本陣:3軒(のちに1軒廃止)
- 旅籠:天保期の記録で72軒
開設直後の川崎宿は経営が苦しく、幕府の助成を受けながら宿場機能を整えました。のちに六郷の渡しの運営と川崎大師参詣が宿場の収入と人通りを支え、江戸近郊の交通拠点として発展していきます。

本陣・旅籠・問屋場|宿場町はどう動いていたのか
大名や公家を迎えた本陣
本陣は、大名や公家、幕府役人などが宿泊・休憩するための格式ある施設です。川崎宿では田中本陣、佐藤本陣、惣兵衛本陣の3軒がありました。田中本陣は231坪、佐藤本陣は181坪の規模があり、惣兵衛本陣はのちに廃止されています。
72軒の旅籠が並んだ宿場
一般の旅人が宿泊した旅籠は、天保年間の『東海道宿村大概帳』で72軒を数えます。神奈川県内の東海道9宿では3番目の多さでした。街道を往来する旅人に加え、川崎大師への参詣客も宿場のにぎわいを支えました。
人馬の継立を担った問屋場と助郷
宿場には、荷物や公用の人を次の宿まで運ぶ人足・馬を手配する問屋場が置かれました。宿場だけで人馬が足りないときには、周辺の村々が助郷として人馬を出しました。旧東海道沿いに残る「助郷会所跡」の案内は、川崎宿が交通の中継地として機能していたことを伝えています。
田中休愚と六郷の渡し|宿場の財政を支えた多摩川
川崎宿の立て直しで大きな役割を果たしたのが、田中休愚です。元禄17年(1704)に田中家を継ぎ、本陣、名主、問屋を兼ねました。宝永6年(1709)には幕府から3,500両の助成と六郷川の渡船請負権を得て、渡船収入を宿場財政に結びつけました。のちに『民間省要』を著し、治水や農政でも幕府に登用されています。
六郷川には慶長5年(1600)に橋が架けられましたが、元禄元年(1688)の洪水で流失し、その後は渡船が主要な交通手段となりました。享保14年(1729)、将軍徳川吉宗へ献上される象が東海道を進んだ際には、多摩川に船を並べ、その上に板を敷いて渡したと伝わります。明治元年(1868)の明治天皇の東幸でも舟橋が設けられ、渡船は明治7年(1874)まで続きました。

幕末になると、写真にも六郷の渡しが残されました。浮世絵と写真を見比べると、川幅の大きさや渡船が宿場の入口を支えていた様子を具体的に想像できます。

川崎大師参詣と万年屋|江戸から人を呼び込んだ大師道
川崎大師として知られる平間寺は大治3年(1128)開創と伝わる古刹です。旧東海道の川崎宿から大師道が分かれ、江戸から日帰りできる参詣先として多くの人を集めました。文化10年(1813)には第11代将軍徳川家斉が公式参拝し、その後も将軍家の帰依と庶民の参詣が重なって、川崎宿の人通りを支えました。
奈良茶飯で知られた万年屋
江戸口に近い一帯で名を知られた旅籠が万年屋です。一膳飯屋から大きな旅籠へ発展し、茶で炊いた米に小豆や栗などを加える奈良茶飯で人気を集めました。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも登場し、安政4年(1857)にはアメリカ総領事ハリスが宿泊して川崎大師へ参詣しています。皇女和宮も利用したと伝えられます。
多摩川の流路がたびたび変わったため、万年屋の正確な跡地は特定されていません。現在の案内地点は、江戸口近くに茶屋や旅籠が集まった一帯をたどる目印になります。作品に描かれた道中を知りたい方は、『東海道中膝栗毛』の要約と弥次喜多の旅の解説も参考になります。

幕末の川崎宿|将軍上洛と明治天皇の東幸
幕末の川崎宿には、政治の大きな動きも通過しました。砂子町の佐藤本陣には、第14代将軍徳川家茂が上洛の途中で宿泊しています。田中本陣と並び、佐藤本陣も街道を移動する要人を迎える拠点でした。
明治元年(1868)の明治天皇の東幸では、六郷川に船を並べて板を渡した舟橋が設けられました。川崎宿の歴史は、江戸の街道制度が近代の交通へ切り替わる時代まで続いています。
川崎宿で現在見られる見どころ
京口土居と小土呂橋跡
京口は京都側の宿場入口です。旧東海道をたどるなら、ここから六郷の渡し方向へ進むと宿場の配置をつかみやすくなります。小土呂橋は、東海道が排水路の新川掘を越えた場所に架かっていた橋です。新川掘は昭和初期に埋め立てられましたが、橋の親柱が残されています。
江戸時代には、将軍への献上品としてベトナムから来た象も東海道を通り、この小土呂橋付近を通過しました。現在の市街地の中に残る小さな遺構ですが、街道が人だけでなく多様な物資や動物まで運んだ道だったことを伝えます。
佐藤本陣跡と田中本陣跡
佐藤本陣跡と田中本陣跡には、宿場の中心部だったことを示す案内があります。佐藤本陣は惣左衛門本陣とも呼ばれ、徳川家茂が宿泊しました。ここは明治23年(1890)に詩人・作詞家の佐藤惣之助が生まれた場所でもあります。
稲毛神社|川崎宿の総鎮守
稲毛神社は平安時代には河崎庄の鎮守とされ、江戸時代を通じて川崎宿の総鎮守として信仰を集めました。境内には、享保14年(1729)に田中休愚の手代衆らが奉納した手洗石や、寛保2年(1742)の洪水で破損した小土呂橋の一部が保存されています。建物の少ない現在の宿場跡で、江戸以前から続く地域の歴史に触れられる場所です。
一行寺・宗三寺|宿場の暮らしを伝える寺
一行寺は寛永8年(1631)に開創された浄土宗寺院で、別名「閻魔寺」と呼ばれます。川崎で最初の寺子屋を開いた浅井忠良の墓もあります。宗三寺は鎌倉時代創建とされる勝福寺を前身とする古刹で、境内には宿場で働いた女性たちを供養する塔が残ります。宿場町を旅人のための施設だけでなく、そこで暮らした人々の町として見る手がかりになります。
東海道かわさき宿交流館
旧東海道沿いにある東海道かわさき宿交流館は、川崎宿の歴史を模型や資料、映像などでたどれる施設です。現在の街では失われた本陣や宿場の町並みを立体的に把握できるため、現地を歩くときの理解が深まります。

六郷の渡し跡
多摩川の堤防近くには六郷の渡しを伝える碑があります。江戸から東海道を下ってきた旅人にとって、六郷川を越えると川崎宿。宿場の歴史を歩いて理解するなら、町中の本陣跡だけでなく川辺まで足を延ばしたい場所です。
川崎市役所の展望ロビー・スカイデッキ
川崎市役所本庁舎の25階には展望ロビーとスカイデッキがあり、多摩川、旧東海道沿いの市街地、東京・横浜方面を見渡せます。現在の庁舎には、昭和13年(1938)から平成28年(2016)まで使われた旧本庁舎の一部を創建時の姿で再現した復元棟もあります。旧庁舎の時計塔は高さ約36mで、戦時中には迷彩が施され、空襲監視塔として使われました。展望フロアと展示スペースは年末年始を除き原則9時~21時、無料で公開されています。
八丁畷の芭蕉句碑|川崎宿のはずれに残る別れの句
元禄7年(1694)5月、松尾芭蕉は故郷の伊賀へ向かう旅に出ました。見送りに来た門人たちと川崎宿のはずれ、八丁畷近くの茶屋で別れ、「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」と詠みました。
現在の句碑は文政13年(1830)に建立されたもので、川崎市地域文化財に決定されています。宿場中心部から少し南へ歩き、八丁畷まで足を延ばすと、東海道を旅立つ人と見送る人の情景まで街道の記憶としてつながります。
宿場町から近代都市へ|川崎駅の開業と街の変化
明治5年(1872)、新橋―横浜間に日本最初の鉄道が開通し、川崎駅も開業しました。東海道を徒歩や馬で移動する時代から鉄道の時代へ移り、宿場としての役割は急速に薄れていきます。
一方、江戸時代に川崎宿をにぎわせた川崎大師参詣は、近代の新しい交通を生みました。明治32年(1899)、京浜急行電鉄の前身である大師電気鉄道が六郷橋―大師間で開業します。京都、名古屋に次ぐ日本で3番目、東日本では最初の電気鉄道で、開業の主な目的は川崎大師への参詣客輸送でした。江戸の大師道を歩いた人の流れが、そのまま鉄道時代の需要へ受け継がれた形です。
その後、川崎は工業都市として発展し、戦災や都市整備も重なって江戸時代の町並みの多くが失われました。それでも旧東海道の道筋は市街地に残り、本陣跡、寺社、交流館、六郷の渡し跡を結ぶと、宿場町から近代都市へ変わった川崎の時間を一続きにたどれます。
川崎宿を歩くおすすめ散歩コース
川崎宿の構造を追うなら、京都側の八丁畷から江戸側の六郷川へ旧東海道をたどる流れが自然です。川崎市の公式ウォーキングコースは京急川崎駅―八丁畷駅間を約3.9km、歩行約49分の目安としています。史跡の解説や交流館、市役所展望フロアまで含めると、2~3時間ほどみておくと各地点を落ち着いて見られます。
- 八丁畷の芭蕉句碑
- 京口土居
- 小土呂橋跡
- 佐藤本陣跡
- 稲毛神社
- 川崎市役所・展望ロビー・旧本庁舎復元棟
- 川崎宿由来の碑
- 宗三寺
- 東海道かわさき宿交流館
- 一行寺
- 助郷会所跡
- 田中本陣跡
- 万年屋があったとされる一帯
- 六郷の渡し跡
2024年に川崎宿、川崎市役所スカイデッキ、チッタを歩いたイベントルートは、川崎宿跡・川崎スカイデッキ・チッタを巡る散歩記事にまとめています。歴史の詳説はこのページ、当日の立ち寄り順はイベント記事と役割を分けています。

