浅草の北、隅田川に近い台東区今戸では、江戸時代に瓦、火鉢、調理用の土器、土人形を焼く職人が集まっていました。幕末には50軒余りの製造家があったと伝わります。現在、台東区が「区内で唯一の今戸焼職人」と紹介しているのが、六代目の白井裕一郎さんです。江戸以来の白井家の工房で、招き猫や狐、福助などの土人形が作られています。
今戸焼は、もともと縁起物だけを作る仕事ではありませんでした。江戸の台所、暖房、家屋、園芸で使われた焼き物を供給する地場産業です。関東大震災後には職人と窯の多くが葛飾へ移り、昭和期には植木鉢などの生産が続きました。現在の今戸人形には、焼き物の用途が変化してきた歴史が残っています。
「最後の職人」は台東区の今戸焼を指す
台東区の文化財案内「今戸焼作り」は、2024年4月8日更新のページで白井裕一郎さんを区内唯一の今戸焼職人と紹介しています。今戸の現地で江戸から続く家業を継ぐ職人についての説明です。東京都内すべての陶芸家、今戸人形の復元に携わる人、日本全国の土人形製作者が一人という意味ではありません。
白井さんの仕事は2012年(平成24年)、台東区の生活文化財「今戸焼作り」に指定されました。同年度には区の優秀技能者としても顕彰されています。2024年の区資料は、母の美智子さんとともに約80種類の人形や寺社の縁起物を製造・販売していると伝えています。この人数・種類は同資料が公表した時点の情報です。
江戸の焼き物は、瓦と生活道具が中心だった
今戸焼の起源には複数の伝承があります。戦国時代の終わりに千葉氏の家臣が焼き始めたという説、徳川家康の江戸入府後に三河の陶工が移ってきたという説が伝わります。台東区の文化探訪資料では、「今土焼」という名称が18世紀末ごろから文献に現れ、18世紀前半には本格的な土器生産が行われたとみられる、と整理しています。
江戸の人口が増えると、屋根を葺く瓦や煮炊きの道具、暖房用の火鉢などが大量に必要になりました。今戸の職人は土器、瓦、土人形、工芸品を作り、都市住民の需要を支えました。今戸周辺が隅田川に近かったことは原料や製品の運搬を考える際の地理的条件です。窯場の存在は、江戸時代の絵画資料や遺跡から見つかった瓦・土器の刻印によっても確かめられます。
『江戸名所図会』には瓦を作る作業が描かれ、大英博物館所蔵の『隅田川長流図巻』には今戸焼の窯が登場します。台東区によれば、今戸の地名や陶工の名前を刻印した瓦、土器、土人形も遺跡から出土しています。紙の記録に加え、製品自体に残された刻印が生産地と職人を伝えています。
1752年の今戸神社の狛犬に42名の職人が刻まれた
今戸焼の産地規模を伝える史料の一つが、今戸神社の石造狛犬です。宝暦2年(1752)、当時の今戸八幡神社へ今戸焼の職人たちが奉納しました。文政5年(1822)には再興されています。狛犬の台座には今戸焼職人と世話人、計42名の名前が残ります。狛犬自体は焼き物ではなく、浅草新堀の石工・小松屋竹右衛門が制作した石造物です。
寄進者は火鉢屋、土器屋、焙烙屋などの職人集団に属していました。焙烙は食材を炒るときなどに使う土製の道具です。寄進者の名簿から、今戸焼が人形の小規模な製作だけで成り立っていたのではなく、生活用品を作る複数の仕事に分かれていたことが分かります。現在の狛犬は台東区の有形文化財に関する資料として紹介されています。
幕末には50軒余り。なぜ職人が減ったのか
台東区は『本朝陶器攷證』を根拠に、幕末の今戸焼製造家は50軒余りあったと説明しています。江戸末期に多くの窯があった今戸では、その後、生活道具の需要が減り、都市化も進みました。工場と住宅が隣接する地域では、窯を置く場所や材料の運搬、燃料の扱いといった条件が変化していきます。
転機となったのが1923年(大正12年)の関東大震災でした。今戸の工場は大きな被害を受け、職人の一部が隅田川東岸や葛飾方面に移ります。東京大空襲など戦争被害も、今戸で仕事を続ける職人の減少につながりました。台東区の資料は、需要減少、今戸周辺の都市化、震災、戦災を主な要因として挙げています。
震災後、今戸焼の産地は葛飾へ広がった
今戸から移った職人たちは、現在の葛飾区青戸、堀切などで焼き物を作りました。葛飾区史によると、この地域には今戸焼に適した粘土があり、中川などの河川も原料や製品の運搬に役立ちました。瓦や植木鉢が主な製品となり、今戸で培われた技術が別の土地で使われました。
葛飾では、昭和40年代に植木鉢の生産が盛んになりました。園芸の需要があり、土製の鉢は水や空気を通す性質を生かして利用されました。しかしその後、軽く量産しやすいプラスチック製の植木鉢が普及し、土製品の需要が減りました。葛飾区の博物館資料は、現在、区内では今戸焼の生産が見られなくなったと説明しています。
今戸焼の衰退は一度に起こったものではなく、江戸の生活用品の需要変化、1923年の産地移動、戦災、戦後の素材転換という異なる段階をたどりました。幕末の50軒余りと現在の台東区の一軒は、同じ地理的範囲に残った製造家の変遷を示す数字です。
白井家は江戸時代から今戸に残った
白井家は江戸時代から今戸焼の製造販売を営んできました。今戸神社の狛犬台座には白井善次郎の名前があり、その子の清次郎は幕末に独立開業したと台東区は記しています。そこから六代目に当たるのが現在知られる白井裕一郎さんです。家業が今戸に残ったことで、土地の歴史と製作技術の系譜がつながっています。
台東区が文化財として紹介する「今戸人形の型」には、家業の転換が具体的に記されています。白井家はかつて日常生活の雑器を中心に作っていました。四代目の白井孝一さんは関東大震災後、低調になっていた今戸人形の復活に取り組みます。五代目の靖二郎さんを経て、六代目の裕一郎さんは今戸人形を中心に製造を続けました。
四代目の試みは、生活道具中心の焼き物から、郷土玩具・縁起物へ重点を移す転換でした。今戸の他の窯が移転や廃業に向かうなか、白井家では昔の人形の造形を受け継ぎ、少量でも求める人がいる品目を残してきました。ただし、家業を維持できた直接の売上構成や、代ごとの生産数については公開資料に具体的な数字がありません。
132点の古い「型」が伝える人形づくり
白井家が保存してきた今戸人形の原型と型は、2013年(平成25年)に131点が台東区有形民俗文化財に登載され、2016年に型1点が追加されました。合計132点の内訳は原型12点、型120点です。土人形を繰り返し成形するための道具がまとまって残っています。
人形の製造では、粘土を練って型に入れ、形を作り、乾燥させて窯で焼いた後、彩色します。原型は最初の形を作るための基準で、そこから複製用の型を作ります。白井家に伝わる古い型は、人形用の粘土より細かく良質な土を使い、硬く作られています。型には数字、仮名、人の名前、図柄や名称がヘラで刻まれたものもあります。
台東区の解説では、古い型の多くは本来前後一対だったものの、片側が失われ、一対で残るものは4点とされています。長年保存された型をそのまま日常の製造に使い続けているわけではなく、白井家は古い型を参考に新しい型を作って製品を製造しています。文化財として古い道具を保護しながら、製作に必要な型を更新しているのです。
狐、招き猫、福助。土人形には江戸の信仰と娯楽が残る
今戸人形の題材には狐、狸、あねさま、招き猫、おかめ、福助などがあります。狐は稲荷信仰と結びつき、福助や招き猫は商売繁盛や福を願う縁起物として親しまれてきました。寺社への奉納品や浅草土産としても需要があり、暮らしの道具とは別の販路を持つ焼き物でした。
招き猫には各地で異なる起源の伝承があります。今戸焼の招き猫が江戸東京の代表的な土人形であることは公的資料から確認できますが、招き猫そのものの起源を今戸だけに確定する史料とは区別します。今戸の人形が広く知られていることと、すべての招き猫が今戸で始まったという主張は別です。
江戸東京博物館にも残る今戸人形の復活の記録
今戸人形の再興に関わった人物には、白井家のほかにも金沢春吉がいます。江戸東京博物館の資料紹介によれば、金沢春吉(1868~1944)は今戸人形職人の家を継ぎ、明治以降に衰えた人形づくりを復活させました。作品や製作風景の写真などが遺族から博物館へ寄贈されています。
今戸人形の技術は一つの家だけで発展したものではなく、複数の職人や系統が製作と再興に関わってきました。白井家の歴史、金沢家の作品、台東区が保存する型、葛飾に移った窯場の記録を合わせると、今戸焼の製造がどのように形を変えたかをたどれます。
今戸神社の狛犬と白井家の工房が残る町
今戸焼の歴史を現地で確かめる手掛かりが今戸神社です。今戸1丁目5番22号の境内にある石造狛犬の台座には、1752年に寄進した陶工たちの名前が残ります。今戸焼発祥の地に関する案内もあり、瓦や火鉢を作ったかつての職人集団を知ることができます。
白井裕一郎さんの事業所は、台東区の2012年度優秀技能者顕彰資料に「今戸1丁目2番18号」と記載されています。工房は個人の製作・販売の場です。現在の営業日時や見学の受け入れを公的資料から確認できないため、訪問の際は公開情報で営業状況を確認し、製作中の作業や私有地へ無断で立ち入らない配慮が必要です。
