文殊院の歴史|板橋宿本陣・飯田家の菩提寺と1797年の飯田静の碑

板橋区仲宿の文殊院(もんじゅいん)は、江戸時代前期に整えられたと伝わる真言宗寺院です。旧中山道板橋宿で本陣を務めた飯田家の菩提寺で、境内には寛政9年(1797)に25歳で亡くなった飯田静(いいだしず)をしのぶ石碑が残ります。石碑には、宿場町の有力者と江戸の学者・書家との交流が刻まれています。

延命地蔵の堂から始まった文殊院

文殊院は、古くから祀られていた延命地蔵のお堂を、江戸時代前期に寺院として整えたと伝えられています。本尊の文殊菩薩坐像は寛文年間(1661~1673)の制作とされ、板橋区指定有形文化財です。仏像は通常見学できません。

板橋宿は江戸から中山道を進む最初の宿場です。本陣は大名や公家などが宿泊するための施設で、地元の有力者が経営を担いました。飯田家は本陣と宿場の運営に関わり、先祖の供養を文殊院で行っていました。寺院と宿場の有力家とのつながりは、現在の墓地にも残っています。

本陣飯田家の娘・飯田静

飯田静は安永元年(1772)、板橋宿の本陣を務める飯田新左衛門義朗の長女として生まれました。後に加賀藩前田家の祐仙院(暢姫)に仕えています。祐仙院は加賀藩主前田吉徳の娘で、飯田家と前田家を結ぶ関係が静の生涯からうかがえます。

静は和歌や裁縫を得意とし、仕えていた祐仙院から目をかけられたと記されています。しかし寛政8年(1796)の秋に病を患い、暇を願い出て板橋の実家に戻りました。翌寛政9年3月、25歳で亡くなりました。

弟が建立した「亡姉阿静之碣」

静の弟・飯田忠粛は姉の死を悼み、文殊院に顕彰碑を建てました。碑文は当時の儒学者・山本信有(北山)が選び、題額の「亡姉阿静之碣」は書家として知られた屋代弘賢が揮毫し、石工の廣瀬群鶴が刻みました。

幕府や藩の公的な記録では把握しにくい個人の生涯が、家族の建てた石碑に残されています。碑の制作に複数の著名な文化人が携わったことから、飯田家が江戸の学問や書の世界と交流していた様子もわかります。「飯田静の碑」は平成元年(1989)3月28日に板橋区登録有形文化財(歴史資料)となりました。

板橋宿と加賀藩を結ぶ文化財

加賀藩前田家は延宝7年(1679)から板橋に広大な下屋敷を持ち、その近くに中山道の宿場が広がっていました。静が藩主家の女性に仕えたことは、武家屋敷と宿場が隣り合う板橋の社会を考える手がかりです。墓地には飯田家のほか、板橋宿の飯盛旅籠「大盛川」に関わる墓も残っています。

所在地と関連する史跡

文殊院は板橋区仲宿28-5、都営三田線「板橋区役所前駅」から徒歩約8分です。墓地や境内では参拝の案内に従い、非公開文化財の拝観は求めないでください。街道の歴史については板橋宿・仲宿周辺の歴史と文化財も参照できます。

参考資料

板橋区「文殊院のご案内」、板橋区『令和7年度版 板橋区文化財マップ』。