板橋区大和町の智清寺(ちせいじ)は、14世紀初めの創建と伝わる浄土宗寺院です。境内には、かつて石神井川から引いた中用水に架かっていた正徳4年(1714)の石橋が残っています。江戸時代の農業用水と明治初期の水争いを伝える史跡であり、近くには豊臣秀吉の出世伝承と結び付いた「木下出世稲荷」も祀られています。
江戸時代の寺領と智清寺文書
智清寺は江戸時代、幕府から5石の寺領を認められた朱印寺でした。寺に残る「智清寺文書」には寺院の経営や土地に関わる記録が含まれ、江戸時代から明治時代にかけての変化をたどれます。明治維新後、幕府の朱印地を持っていた寺院は新しい政府の制度に対応することになり、智清寺にもその過程を記録した文書が伝わりました。
1695年に始まった上郷七か村用水
元禄8年(1695)、下板橋宿根村付近の石神井川に堰が設けられました。ここから取水した水は下板橋・十条・稲付・赤羽・岩淵・下・神谷の七か村の田を潤し、「上郷七か村用水」と呼ばれました。のちの中用水にあたります。農業では田へ水を引く時期と水量が収穫に直結するため、用水路の堰や分水施設の管理は複数の村に共通する問題でした。
智清寺の参道には、その用水を渡る石橋が架けられました。現在の境内では用水路そのものは埋められていますが、橋を残すことで街道周辺に農業用水が流れていたことを知ることができます。
正徳4年(1714)の石橋に刻まれた名前
中用水遺構石橋は幅約2.8メートル、長さ約1.35メートルです。橋柱には正徳4年2月15日の年号と、七世住職の和誉、新田徳兵衛らの名が刻まれています。建造年と関係者が石に残されたため、橋の成立を具体的にたどれます。昭和61年(1986)2月14日に板橋区の登録記念物(史跡)となりました。
明治9年(1876)に起きた水争い
明治9年、根村堰の修繕をきっかけに中用水を使う村々と、下流の王子堰から水を引く下用水側の村々が対立しました。堰を直すことで下流の水量が減ることを懸念したためです。中用水側の人々は堰を守ろうとして智清寺に集まり、炊き出しを行いました。
この争いには用水の上流と下流で利害が異なる農村社会の事情が表れています。明治の行政制度へ移行しても、田畑を支える水をどう分けるかは地域にとって大きな問題でした。石橋の遺構は、そうした水利の歴史と同じ場所に残されています。
木下出世稲荷と秀吉伝承
智清寺境内の木下出世稲荷は、元和3年(1617)に最初の社が設けられたと伝わります。豊臣秀吉が木下藤吉郎と名乗った時代に所持していたという伝承から、立身出世を願う人々の信仰を集めました。祀られる神像は、狐に乗る荼枳尼天(だきにてん)の姿です。
江戸時代の旅の案内書にも木下出世稲荷の名が記され、板橋宿周辺の名所として知られていました。祠・神像・手水鉢などは板橋区登録有形民俗文化財に登録されています。神像や関連資料は通常公開されていないため、境内の見学は寺院の案内に従ってください。
所在地と周辺の歴史
所在地は板橋区大和町37-1、都営三田線「板橋本町駅」から徒歩約8分です。旧中山道の板橋宿、日曜寺、縁切榎などが周辺にあります。板橋宿・仲宿周辺の歴史と文化財では寺社と街道の歴史を地域全体から紹介しています。
参考資料
板橋区「智清寺のご案内」、板橋区『令和7年度版 板橋区文化財マップ』。
