加賀前田家下屋敷跡の歴史|1679年の拝領から21万8千坪の庭園と火薬製造所へ

板橋区の加賀一・二丁目と板橋一・三・四丁目の一部には、江戸時代に加賀藩前田家の大きな下屋敷がありました。延宝7年(1679)に前田綱紀が幕府から約6万坪の土地を拝領したことに始まり、屋敷地は最終的に約21万8千坪まで拡張されました。現在の区立加賀公園には、屋敷内の庭園にあった築山の一部が残っています。

延宝7年(1679)の拝領と下屋敷の拡張

江戸幕府の大名は、江戸城周辺の上屋敷に加えて、別邸や蔵などの役割を持つ中屋敷・下屋敷を構えました。加賀藩前田家も複数の江戸屋敷を持ち、板橋宿平尾の下屋敷は「平尾邸」と呼ばれました。

前田綱紀が延宝7年に拝領した土地は約6万坪でしたが、その後の敷地拡張によって約21万8千坪になりました。広さは当時の江戸と周辺にあった大名屋敷の中でも最大規模でした。旧中山道の板橋宿と隣接する場所にあり、旅の途中の藩主や家族が立ち寄る場所としても利用されました。

池泉回遊式庭園と別荘での暮らし

下屋敷には、池の周囲を歩いて景色を楽しむ池泉回遊式庭園が設けられました。加賀藩の金沢にある兼六園と同じく、庭を散策しながら景観を味わう造りです。藩主や家族はこの屋敷で狩猟や散策、保養を行いました。

庭園ではタンチョウヅルや珍しい鳥が飼育され、植物の栽培にも取り組みました。武家の別邸であるとともに、動植物の観察や実験に取り組む場としても使われていたことが、前田家の学問への関心を伝えています。

参勤交代と前田家の学術活動

加賀藩主は金沢と江戸を往来する参勤交代の際、板橋の下屋敷に立ち寄りました。江戸城へ登城するために装束を改め、江戸に住む家族と対面する場所にもなりました。宿場と大名屋敷が接する立地は、長距離移動と江戸での生活を結ぶ役割を果たしました。

前田綱紀は学問や書籍の収集にも力を入れ、前田家は博物学、植物学、洋学に関わる活動を支えました。平尾邸での植物栽培や動物の飼育は、こうした学術活動を支える実際の場所にもなりました。

幕末の軍事利用と明治の火薬工場

幕末には下屋敷の一部で軍事訓練や大砲製造が行われました。明治維新後、広大な屋敷地の利用は大きく変わり、明治9年(1876)には官営の板橋火薬製造所が設けられました。庭園にあった築山は射撃試験の施設に利用されるなど、江戸時代の庭園の地形が近代産業の設備へ転用されました。

火薬工場は昭和20年(1945)の終戦まで稼働し、製造・貯蔵・試験・研究に関わる施設を備えました。工場の歴史と現存遺構は陸軍板橋火薬製造所跡の歴史で詳しく扱っています。

加賀公園に残る下屋敷の築山

区立加賀公園は板橋区加賀1丁目8番にあり、下屋敷の庭園に由来する築山が残されています。昭和63年度(1988年度)、築山を含む公園の区域は「加賀前田家下屋敷跡」として区の記念物(史跡)に登録されました。屋敷の建物や広い庭園は失われていますが、地形の一部が現地に残ります。

加賀公園から周辺を歩くと、加賀前田家の下屋敷が明治の火薬工場へ姿を変えた歴史を、現存する遺構と土地の配置から追えます。地域全体の史跡については加賀・板橋本町周辺の歴史と文化財でも紹介しています。

参考資料

板橋区「加賀藩江戸下屋敷平尾邸の拝領と前田綱紀」、板橋区「加賀公園」、板橋区『令和7年度版 板橋区文化財マップ』。