夜の造成地を、重機のライトが横切ります。山肌は削られ、土の道が谷の奥へ延び、その変化を狸たちが高台から見つめています。
『平成狸合戦ぽんぽこ』の舞台として、スタジオジブリが公式に挙げている場所が多摩ニュータウンです。現在の多摩センターや永山には、団地、駅、学校、公園、遊歩道が広がり、約22万人が暮らしています。その街の下には、谷戸田、雑木林、畑、集落が連なる多摩丘陵の風景がありました。
ニュータウンは、東京へ流入した人々の住まいを確保するために造られました。同時に、農地を手放した人、移転した集落、分断された水辺や雑木林も生みました。狸たちの物語に重なるのは、自然と都市の対立だけではなく、住宅を必要とする人々と、土地で暮らしてきた人々の生活が交差した戦後史です。
多摩ニュータウンは何のために造られたのか
東京都西南部の多摩丘陵に広がる多摩ニュータウンは、八王子市、町田市、多摩市、稲城市の4市にまたがります。総面積は2,853ヘクタール、東西約14キロ、南北約2〜3キロです。[1]
計画の出発点は、1950年代後半から1960年代に深刻化した東京の住宅不足でした。高度経済成長に伴って人口が都市へ集まり、郊外では道路、下水道、学校、公園が整う前に小規模な宅地化が進みました。東京都は、大量の住宅供給と無秩序な市街化の抑制を同時に進めるため、1965年に多摩ニュータウンの都市計画を決定しました。[1]
事業には東京都、日本住宅公団、東京都住宅供給公社、地元自治体が関わりました。最初の入居は1971年3月、諏訪・永山地区で始まります。住宅だけを並べる計画ではなく、鉄道、幹線道路、上下水道、学校、公園、商業施設までを広域で組み立てる都市建設でした。[2]

| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1965年 | 多摩ニュータウンの都市計画決定 |
| 1966年 | 開発事業が本格的に始動 |
| 1971年 | 諏訪・永山地区で最初の入居開始 |
| 1974年 | 京王相模原線が京王多摩センターへ到達 |
| 1975年 | 小田急多摩線が小田急多摩センターへ到達 |
| 1994年 | 『平成狸合戦ぽんぽこ』公開 |
計画決定から現在の再生事業までの通史は、内部リンク「多摩ニュータウンの歴史|なぜ造られ、なぜ再生が必要なのかを徹底解説」で詳しくたどれます。
多摩丘陵の里山はどんな場所だったか
開発前の多摩丘陵には、尾根と谷戸が細かく入り組んでいました。谷戸は、丘陵の谷筋にできた細長い低地です。谷底には水田や水路、斜面には雑木林、尾根寄りの土地には畑や道が置かれ、集落は水と農地を使いやすい場所に形成されました。
雑木林では、薪や炭の材料となる木を切り、落ち葉を堆肥に使いました。水田、畑、林は別々の風景ではなく、農家の仕事によって循環する一つの生活圏でした。里山は、人が継続的に手を入れて成り立つ自然と生活の境界です。

写真の場所は、稲城市坂浜の上谷戸地区です。谷底の水辺と斜面の緑が近接し、かつての多摩丘陵で広く見られた地形の組み合わせを残しています。
『平成狸合戦ぽんぽこ』の狸たちは、森の奥だけで暮らしているのではなく、田畑、寺社、道、人家の近くまで行き来します。作品が描く「狸の里」は、多摩丘陵の里山が持っていた、人と野生動物の生活圏が接する構造と重なります。
丘を削り、谷を埋めて住宅地を造る
初期の多摩ニュータウンでは、住宅建設の効率を優先した大規模造成が進みました。多摩丘陵の起伏をならし、道路、住宅用地、学校、公園を配置できる地盤へ変える工事です。高い場所を削る切土と、低い場所へ土を入れる盛土によって、尾根と谷戸の高低差が組み替えられました。[3]
UR都市機構の計画資料では、鉄道2路線と広域幹線道路が川沿いの谷戸部や尾根沿いに配置され、各住区には学校、保育所、商業施設などが徒歩圏に置かれたと説明されています。初期の諏訪・永山では大造成が行われ、開発が進むにつれて、貝取・豊ヶ丘などで自然地形を残す計画も試みられました。[3]
| 開発前の土地利用 | ニュータウンで置かれた主な機能 |
|---|---|
| 谷戸の水田・水路 | 幹線道路、河川、鉄道、公園など |
| 斜面の雑木林 | 住宅地、学校、公園、緑地など |
| 尾根の畑・山道 | 住宅地、公共施設、歩行者道路など |
| 集落と農家の作業空間 | 住区、商業施設、都市センターなど |
すべての地区が同じ方法で造成されたわけではなく、開発時期と事業手法によって地形の残り方は変わります。初期には平坦で施工しやすい宅地が優先され、後期には原地形と緑の連続性を活用する設計が増えました。造成技術と都市計画の考え方も、数十年の事業期間の中で変化しています。
土地を手放した農家と移転した集落
計画区域には、農地、山林、家屋を所有し、そこで生計を立てる人々が暮らしていました。1965年秋に個別の買収交渉が始まると、全面買収の内容を初めて具体的に知り、驚いた農家もありました。多摩市史には、農業を続ける予定だった専業農家や、牛30頭まで経営を広げた酪農家が、土地取得と転業の問題に直面した経緯が記録されています。[5]
開発区域の一部では、全面買収による集落移転を避けるため、土地区画整理事業が導入されました。地権者が土地の一部を出し合い、道路や公園を整えた後に宅地を割り当て直す方法です。既存集落を残す道が広がる一方、農地の縮小や土地の配置換えによって、従来の営農を続ける条件は変わりました。[5]
多摩センター開発地区となった落合楢原では、谷戸にあった7戸の集落が全面移転しました。ある専業農家は代替農地を求め、規模を縮小しても農業を続ける希望を伝えました。7戸は貝取や落合山王下などへ分かれて移り、集落のまとまりは解かれました。[6]
補償、宅地の優先分譲、店舗への転業支援は生活再建の手段となりました。土地代を元に別の農地を取得した人、新しい商売へ移った人、農業から離れた人がいます。ニュータウン開発は、地形を変える工事であると同時に、土地所有、仕事、近隣関係を組み替える事業でした。
鉄道・団地・道路が新しい生活を支えた
1971年に諏訪・永山で入居が始まると、2DKや3DKを中心とする集合住宅へ若い家族が移り住みました。水洗トイレ、ダイニングキッチン、学校、公園が近接する住環境は、戦後の住宅不足の中で求められた新しい暮らしでした。[4]

最初の入居時点では、鉄道がニュータウン中心部まで届いていませんでした。京王相模原線は1974年10月に京王よみうりランド駅から京王多摩センター駅まで開通しました。小田急多摩線は同年6月に新百合ヶ丘駅から小田急永山駅まで、1975年4月に小田急多摩センター駅まで延びました。[7][8]
鉄道と道路は都心への通勤を支え、駅前には商業・文化・業務機能が集まりました。団地と公団住宅の仕組みは内部リンク「団地まるわかりガイド|公団住宅・2DK・スターハウスから見る戦後日本の暮らし」、私鉄と沿線開発の関係は「東京圏を形づくった私鉄六社|鉄道会社はなぜ街まで作ったのか」で詳しく整理しています。
多摩ニュータウンの特徴の一つが、歩車分離です。住宅、学校、公園、商店、駅を歩行者専用道路で結び、車道と交差する場所には橋や地下道を設けました。子どもが車道を横切る機会を減らし、生活の動線を街全体で設計する考え方です。[3]

開発は何を失い、何を生んだのか
造成によって、多摩丘陵の谷戸田、農業用水、雑木林、畑、集落を結ぶ生活圏は縮小しました。林を定期的に伐り、落ち葉を集め、田畑へ戻す循環も途切れました。緑地が残っていても、薪炭や堆肥を生み出した旧来の里山とは管理目的と利用方法が変わっています。
同じ開発は、深刻な住宅不足へ大量の住まいを供給し、上下水道、学校、公園、商店、鉄道を備えた都市を生みました。歩車分離の遊歩道や計画的な緑地は、現在も日常生活を支えています。UR都市機構によれば、公園緑地、歩行者専用道路、住宅内緑地などを含むオープンスペースは、地区全体の30%以上を占めます。[3]
初期・中期の大造成を経て、後期の地区では地形を尊重する設計が増えました。ライブ長池では、公園緑地に原地形を残し、宅地部分を地形に沿って造成する方法が採られています。開発の歴史には、里山を大きく改変した段階と、残された地形や緑を都市計画へ組み込む段階が重なっています。

現在の多摩センターには、住宅、鉄道、商業施設、文化施設、公園、業務施設が集まります。狸たちが見つめた造成地の先に、何世代もの生活が積み重なる都市が形成されました。
『平成狸合戦ぽんぽこ』は現実をどう描いたか
スタジオジブリは、『平成狸合戦ぽんぽこ』の舞台を多摩ニュータウンと公式に明記しています。作品は1994年7月16日に公開され、原作・脚本・監督を高畑勲が担当しました。[9][10]
物語は、昭和40年代の多摩丘陵でニュータウン造成が進み、狸たちの暮らす山が削られていくところから始まります。重機、切り開かれた斜面、道路、団地、鉄道、人工的に残された緑地が、開発の進行とともに現れます。
現実の多摩ニュータウンは、4市にまたがり、複数の事業者と制度によって数十年かけて造られました。作品は、その広い地域と長い時間を、狸たちが経験する一つの土地の物語へ圧縮しています。化け学、妖怪大作戦、狸の会議は民俗と創作を組み合わせた作品表現です。造成地の拡大、餌場の縮小、交通事故、都市へ適応する個体という展開は、開発が野生動物の生息環境を変える過程を物語へ置き換えています。
公式画集『男鹿和雄画集II』では、『平成狸合戦ぽんぽこ』の背景美術が「里山の四季」「狸たちの暮らし」「開発された自然」という構成で紹介されています。[12] 季節ごとの田畑と雑木林、削られた地形、新しい住宅地の対比が、物語の土台として設計されていました。
作品では、開発側の人間は重機、工事、車、新住民の群れとして見える場面が中心です。現実の歴史には、住まいを待つ人々、都市基盤を設計する人々、土地を手放した農家、移転した集落、新しい街で暮らし始めた住民がいました。狸の視点から描いた喪失と、人間側の住宅史を重ねることで、多摩ニュータウン開発の輪郭が立体的になります。
いま歩ける多摩丘陵の里山とニュータウン
多摩ニュータウンの南縁を通る「多摩よこやまの道」では、尾根からニュータウンを見渡しながら、旧道、雑木林、農村景観の痕跡をたどれます。多摩市の公式ページでは、コース図と現在の通行情報が案内されています。[15]
町田市の小山田緑地には、雑木林、谷戸、水辺、田園風景が残ります。ニュータウンの市街地と近接しながら、造成前の多摩丘陵を想像しやすい場所です。[16]
東京都の図師小野路歴史環境保全地域では、雑木林、谷戸田、湧水、農地が一体となった景観が保全されています。保全区域には立入り範囲が定められ、公開情報で散策路が示されています。[17]
稲城市の上谷戸親水公園は、上谷戸川の水辺と周辺の緑を活用して整備された公園です。里山の地形をそのまま保存した場所と、都市計画の中で自然環境を再構成した場所の違いも読み取れます。[18]
多摩センター、諏訪・永山の団地、歩行者橋、残された谷戸や尾根道を続けて歩くと、造成前の地形、1970年代の住宅供給、現在の都市生活が近い範囲に重なっていることが分かります。
まとめ
多摩ニュータウンは、戦後東京の住宅不足と郊外の無秩序な市街化へ対応するため、多摩丘陵に造られました。谷戸、雑木林、農地、集落は大きく組み替えられ、土地を手放した農家や移転した住民の生活も変わりました。その土地に、団地、学校、公園、鉄道、歩車分離の道が整い、新しい都市生活が始まりました。
『平成狸合戦ぽんぽこ』は、その変化を狸たちの側から描きました。造成地の向こうに現在の街を見て、現在の街の中に残る谷戸や尾根を歩くと、作品の風景と戦後の都市史が同じ地面の上でつながります。
日本初の本格的なニュータウンとの比較は、内部リンク「千里ニュータウンの歴史|日本初の本格ニュータウンはどう生まれ、再生しているのか」で読めます。
参考文献・参考資料
- 東京都都市整備局「多摩ニュータウンについて」
- UR都市機構「多摩ニュータウンの概要」
- UR都市機構「多摩ニュータウンの計画」
- UR都市機構「多摩ニュータウンの住宅」
- 多摩市立図書館・多摩市デジタルアーカイブ『多摩市史 通史編2』「用地買収への農家の抵抗感」「土地区画整理事業の導入とその波紋」 関連資料
- 多摩市立図書館・多摩市デジタルアーカイブ『多摩市史 通史編2』「落合楢原地区の全面買収」
- 京王電鉄「京王電鉄50年史 第2部」
- 小田急電鉄「小田急の歴史」
- スタジオジブリ「平成狸合戦ぽんぽこ」
- スタジオジブリ「Q&A 作品の舞台はどこですか?」
- スタジオジブリ「作品の著作権表示」
- スタジオジブリ「男鹿和雄画集II」
- 林浩一郎「多摩ニュータウン開発の情景」『年報社会学論集』20号、2008年
- 林浩一郎「多摩ニュータウン『農住都市』の構想と現実」『日本都市社会学会年報』28号、2010年
- 多摩市「よこやまの道」
- 東京都公園協会「小山田緑地」
- 東京都環境局「図師小野路歴史環境保全地域」
- 稲城市「上谷戸親水公園」
- 萩原由加里「多摩丘陵のニュータウン化―『平成狸合戦ぽんぽこ』における狸が意味するもの」『アニメーション研究』21巻1号、2020年

