日本のオートレース史|船橋から森且行まで、5つのレース場がつないだ物語

2008年に撮影された川口オートレース場の正門

2020年11月3日、川口オートレース場で行われた第52回日本選手権オートレース優勝戦。6周回で先頭に立った森且行もりかつゆきは、追う金子大輔を抑えてゴールしました。46歳、1997年の選手登録から24年目のSG初制覇でした。

日本選手権は、同じハンデ位置から日本一を争うSGです。アイドルからオートレーサーへ転じた森の一勝は大きな注目を集めました。その背景には、1950年の船橋から始まり、競走場、競走車、選手、運営組織が受け渡してきた70年の歴史がありました。

公営競技を含む日本のスポーツ史を広く知るには、日本のスポーツまるわかり図鑑も参考になります。

川口で結ばれた物語

森且行もりかつゆきは1974年生まれ。芸能活動を離れ、25期生として1997年6月に選手登録されました。デビュー前から名前を知る人が多く、オートレースに新しい観客を連れてきた存在でした。同時に、選手としての評価は走路上の成績によって積み上げる必要がありました。

森は新人王、GⅠ優勝などを重ねながら、SGの頂点には長く届かず、挑戦が続きました。2020年の日本選手権優勝戦では、10周回5100メートルの6周回で展開が動きます。前を走る2選手の接触と落車を避け、開いた進路を進んだ森は、そのまま首位を守りました。事故を避ける判断、直後に速度を保つ操作、追走をしのぐ走りが一つにつながった勝利でした。

46歳での初SG制覇は、24年に及ぶ選手生活の結果として、著名人の話題を競技史へ結びつけました。川口は1965年の第1回日本選手権を開催し、1987年からスーパースター王座決定戦の主要舞台となった競走場です。鋳物の町として発展した川口の歴史を持つ地域で、機械と整備を核にした競技が長く根を張りました。

船橋の土から始まった

出発点は戦後の船橋ふなばしです。1949年11月6日、多摩川スピードウェイで全日本モーターサイクル選手権大会が開かれました。同月、日本小型自動車工業会は小型自動車競走法の推進を決めます。競走を通じて小型自動車工業を振興し、自治体の収入にもつなげる制度づくりが進みました。

小型自動車競走法は1950年5月27日に公布、施行されました。全国小型自動車競走会連合会や各地の競走会が整えられ、同年10月29日、船橋オートレース場で全国初のオートレースが始まります。走路は土で、出場車も現在の姿とは大きく異なりました。

戦後の自治体は、復旧事業や公共施設の整備に多くの財源を必要としていました。公営競技は自治体が開催主体となり、売上から経費と払戻金を差し引いた収益を地域財政へ組み込む仕組みです。小型自動車競走では、売上の一部を機械工業や公益事業の振興にも充てました。自治体財政と産業振興を一つの競走制度で支える構造が、船橋の開催を全国へ広げる土台となりました。

競走の公平を調整するハンデレースは、初開催から間もない11月16日に採用されました。力量の違う選手が異なる位置から発走し、同じゴールを争う仕組みです。速い選手ほど後方から追うため、技量差を競走の展開へ変えられました。この発想は現在のオートレースにも続きます。

1952年には船橋で四輪車レースが始まり、二輪と四輪が同じ制度の中で競いました。1954年に開いた大井オートレース場は全国初の舗装走路を採用します。川口、飯塚、浜松、船橋も1960年代後半までに新しい舗装走路へ移り、速度、整備、審判の基準が変わりました。船橋の土から始まった競技は、各場の改良を通じて近代的な周回競走へ育ちました。

各地が担った転換点

草創期の競走場は、開設と休止、移転を繰り返しました。1951年に園田、長居、柳井が開き、園田は1952年、長居も同年に廃止されました。甲子園は1953年に開設され、1955年に廃止方針が示されます。柳井は1957年に休止し、1965年に山陽オートレース場へ移転しました。競走場の歴史は、開催権や人員、地域の役割が別の土地へ移る歴史でもありました。

1958年には、競馬・競輪・競走場の新設を認めない方針が閣議了解となりました。新しい地域で開催を続けるには、既存場の移転という形が重みを持ちます。柳井から山陽、大井から伊勢崎への移転は、制度上の枠を保ちながら開催地域を組み替えた例です。短期間で姿を消した場も、後の5場体制へつながる開催権の流れに含まれます。

川口

川口は1952年2月1日に開設され、1955年から川口市営開催が始まりました。1965年の第1回日本選手権、1987年に始まったスーパースター王座決定戦など、全国タイトルの舞台を担います。1957年には観客が競走場内で混乱を起こす騒擾そうじょう事件も経験し、公正、安全、警備の仕組みを強める契機となりました。競技の中心地として、栄光と運営課題の双方を全国へ伝えた場です。

浜松

浜松は1956年5月1日に開設されました。二輪車産業が集まる地域にあり、選手が自ら競走車を整備する文化と結びつきます。1973年の日本選手権を開催し、二輪へ集約された競技の技術を磨く舞台となりました。前売発売や通信衛星による中継など、場外へ競走情報を届ける試みも担い、来場者の外へ開催を広げました。

飯塚

飯塚いいづかは1957年2月22日に開設されました。1965年の第1回オールスター、1970年の日本選手権など、早い時期から全国大会を開催します。1993年には山陽とともに電話投票を開始し、2005年には初のナイター、2006年には初のSGナイターを実施しました。2015年11月には初のミッドナイトオートレースを開き、夜間の無観客開催とネット投票を組み合わせる道を開きました。

伊勢崎

伊勢崎いせさきは、大井オートレース場の歴史を受け継いで成立しました。大井は1973年3月に廃止され、翌年に伊勢崎への移転が許可されます。建設を経て1976年10月に開場し、29人の選手が移籍しました。新設という形の内側で、開催権、競走場の機能、選手集団が東京から群馬へ移りました。

1989年6月2日、伊勢崎はオートレース初のナイター開催を始めます。昼間に来場する観客を中心とした時間帯が夜へ伸び、仕事後の観戦という新しい接点が生まれました。ナイターは飯塚、川口へ広がり、短時間のアフター5、アフター6開催にもつながります。

山陽

山陽は1965年4月10日、休止中の柳井から移転して開設されました。西日本の全国発売と大レースを支え、1978年にはトータリゼーターシステム導入の先頭に立ちます。2002年2月には3連単を導入しました。投票方式の拡張は他場へ広がり、競走を見る楽しみと予想する選択肢を増やしました。

四輪から専用車へ

1952年に船橋ふなばしで始まった四輪競走は、二輪競走と並んで初期のオートレースを形づくりました。速度が上がるほど安全設備、部品供給、審判方法の整備が必要となります。1972年に四輪車レース安全研究委員会が発足し、1973年5月31日に四輪車レースが廃止されました。以後、競技は二輪へ集約されます。

現在の競走車は市販バイクと用途が異なります。左回りの500メートル走路を高速で周回するため、左ハンドルが高く、右ハンドルが低い形です。ギアはローとトップの2段。急な減速による追突を避けるためブレーキを備えず、選手はアクセル操作と進路取りで速度を調整します。断面が三角形のタイヤも、車体を傾けた状態で走路を捉えるための専用品です。

オートレースで使われたHKSフジ1級車二気筒HR652型
HKSフジ1級車二気筒HR652型。2007年4月28日、川口オートレース場で撮影。撮影:Krantz/Wikimedia Commons/パブリックドメイン。

1975年には1人1車制が実施され、選手が自分の競走車を管理する体制が明確になりました。部品を交換し、気温や走路状態に合わせて調整し、試走で仕上がりを確かめる作業も競走の一部です。浜松をはじめ二輪技術と縁の深い地域で蓄積された整備知識は、所属場を越えた選手交流によって全国へ共有されました。

競走車の性能差は、公正な競走に直結します。1991年に新型エンジンの開発が決まり、スズキが設計と試作を担当しました。1993年、名称を「セア」と定めた新型エンジンが全選手へ導入されます。基本性能をそろえたことで、選手の整備、調整、操縦が結果へ表れやすくなりました。統一エンジンは部品の品質管理と供給にも共通基準を与えました。

スターがつないだ時代

競技の歴史は、制度と車両に加え、走りを見せた選手によって記憶されました。船橋の片平巧かたひらたくみは1985年登録の19期生です。日本選手権3勝、スーパースター王座決定戦5勝を含むSG15勝、通算80優勝、1137勝を記録しました。公式サイトが「オート界のカリスマ」と呼んだ背景には、最上位戦で追い上げを決める走りと、長期間にわたる実績がありました。

伊勢崎の高橋貢たかはしみつぐは1991年登録の22期生です。1990年代から全国タイトルを重ね、2026年5月にはSG21勝、GⅠ29勝、通算221優勝に到達しました。1989年に始まった伊勢崎ナイターが定着する時代に地元の中心選手となり、昼から夜へ開催時間が広がった競技を長く支えました。

森且行は1997年登録の25期生です。片平が船橋で築いたスター像、高橋が伊勢崎で続けた長期のトップ争いに続き、競技の外から入った観客を走路上の勝負へ結びつけました。2020年の日本選手権制覇は、知名度を入口にしながら、最後は選手としての年月と技術で得た結果でした。

開催改革で広がる

オートレースの年間車券売上は1990年度に3000億円台を突破し、1992年度には約3497億円の水準に達しました。その後、余暇の選択肢の増加や景気の変化が重なり、来場中心の開催から参加経路を広げる必要が生じます。各場は時間と場所の制約を外す改革を重ねました。

1991年9月、船橋、川口、浜松、伊勢崎いせさきで電話投票が始まり、1993年には飯塚いいづかと山陽にも広がりました。2003年4月にはインターネット投票が始まり、車券購入は競走場の窓口から家庭の電話、パソコン、スマートフォンへ移ります。山陽が2002年に先行した3連単も各場へ展開し、遠隔投票と多様な投票方式が結びつきました。

投票だけでなく、情報の届き方も変わりました。1980年代には場間のオンライン化と衛星中継が進み、2000年には公式サイトでオッズや試走タイムのリアルタイム提供が始まります。現地で得ていた情報を全国へ同時に配る基盤が整ったことで、電話投票とネット投票が実用的な参加方法になりました。

開催時間の改革は伊勢崎から進みました。1989年の初ナイターは、夕方以降の観戦を定着させます。飯塚は2005年にナイター、2015年に初のミッドナイトを実施しました。川口では2015年にナイター、2020年にナイトレースが始まり、伊勢崎では2020年にアフター6、浜松では2021年にアーリーレースが始まりました。早朝、昼、夕方、深夜という時間帯が組み合わされ、複数の開催を一日で届ける形へ変わりました。

2011年に撮影された伊勢崎オートレース場の外観
伊勢崎オートレース場、2011年7月10日。撮影:相州太郎/Wikimedia Commons/CC0 1.0。

ミッドナイトや短時間開催では、入場を伴わないネット投票中心の運営が採用されます。競走場へ集まる文化を残しながら、離れた地域と別の生活時間にも競走を届ける仕組みです。ある場で試した開催形態を他場が受け取り、全国発売の日程へ組み込むことで、5場は一つの開催網として動くようになりました。

2026年度からは、デイ開催とナイター開催を8車立て・12レース制に統一し、GⅡミッドナイトも12レース制となりました。開催ごとに違った車立てとレース数を整理し、時間帯が変わっても仕組みを把握しやすい形へそろえています。

船橋閉場と五場継承

発祥地の船橋ふなばしは、売上減少と施設運営費の負担を抱えました。千葉県と船橋市は2014年8月、2016年3月末で事業を廃止する方針を発表します。存続を求める署名は13万人を超えましたが、2016年3月21日の最終開催と閉場式をもって、65年の歴史を閉じました。

閉場時に船橋を所属場とした67人の選手は、川口、伊勢崎、浜松、飯塚、山陽の各支部へ移りました。片平巧らが築いた走法や整備の知識、選手同士の系譜も、移籍した選手を通じて各場へ分かれます。場数は6から5へ減り、発祥地の人材は全国へ広がりました。

競走場の移転と継承は過去にもありました。柳井から山陽、大井から伊勢崎へ、開催の役割が別地域へ移っています。船橋の閉場では建物と走路が消え、選手集団が5場へ分散しました。オートレース史は、人と制度が施設間を移ることで連続しました。

競技を支える組織

オートレースは、開催する自治体、制度を担う法人、競走実務を担う法人、選手側の団体が分担して運営します。実際に開催を施行しこうする自治体などが施行者しこうしゃです。施行者は日程や事業運営を担い、競走実施法人へ検査、審判などの業務を委託します。

公益財団法人JKAは、小型自動車競走法に基づく振興法人です。選手、審判員、競走車の登録、競走方法の制度、選手の出場斡旋あっせん、養成と訓練、級別、補助事業などを担います。東日本・西日本の小型自動車競走会は、施行者から委託を受け、競走前の車両検査、審判、開催実務を行います。全日本オートレース選手会は選手側を支える団体です。

一般財団法人オートレース振興協会は、競走車と部品の開発・品質改善・供給、情報システムの研究開発と運営、情報提供と広報を担います。AutoRace.JPのシステム運営者も同協会です。JKAが登録や制度、公正な競走の基盤を担い、オートレース振興協会が車両部品と情報基盤を支える役割分担です。

組織名は制度改正に合わせて変わりました。1950年に全国小型自動車競走会連合会が設立され、1962年に日本小型自動車振興会が発足します。2008年4月1日、日本小型自動車振興会は解散し、オートレース業務が財団法人JKAへ承継されました。名称が変わっても、登録、養成、公正確保、振興という機能は引き継がれています。

全国五場の現在

2026年7月現在、オートレースは川口、伊勢崎いせさき、浜松、山陽、飯塚いいづかの5場で開催されています。各場は独自の歴史を持ちながら、全国発売、選手の交流、統一エンジン、共通システムによって一つの競技を支えます。

開催の中心となる場と、車券を発売する場は別になることがあります。別の場の競走を場外発売し、ネットでも同時に受け付けるため、一つの改革が全国の開催へ届きます。5場は競争相手であると同時に、日程、選手、発売、情報を融通する共同網です。

レース場所在地開設・移転年歴史上の役割現在へ残したもの
川口埼玉県川口市1952年第1回日本選手権、スーパースター王座決定戦の中心舞台全国タイトルとナイター、森且行の所属場
伊勢崎群馬県伊勢崎市1976年
大井から移転
1989年に初のナイターを開催夜間・短時間開催と高橋貢の長期活躍
浜松静岡県浜松市1956年二輪産業の地域で整備と操縦技術を蓄積専用競走車を扱う選手文化と早朝開催
山陽山口県山陽小野田市1965年
柳井から移転
西日本の全国開催、投票システム改革を先導3連単など多様な投票方式
飯塚福岡県飯塚市1957年初期から全国大会を開催し、ミッドナイトを創設夜間のネット投票型開催

船橋で始まったハンデ競走、大井が先行した舗装走路、伊勢崎のナイター、山陽の投票方式、飯塚のミッドナイト、浜松が支えた整備文化、川口の全国タイトル。その成果は発祥場の閉場後も5場へ組み込まれています。

森且行がつないだ七十年

2020年11月3日の川口へ戻ります。森且行もりかつゆきが走った舗装路、統一エンジン「セア」、SGの制度、全国へ届く中継と投票は、1950年の船橋にはそろっていなかった要素です。各時代の競走場と組織が一つずつ整え、選手が整備と操縦で受け継ぎました。

森の優勝時、川口の走路には船橋から移籍した選手も所属し、5場から集まった選手が日本選手権を争っていました。発祥地の閉場から4年後、船橋で始まった競技は川口のSGとして続きます。森がデビューした1997年には電話投票と統一エンジンが定着し、優勝した2020年にはナイター、ネット投票、無観客型の時間帯開催が競技を支えていました。

アイドルから選手へ転じた森は、24年目に日本選手権を制しました。その一勝は、船橋の土の走路、各場の移転と改革、片平巧と高橋貢らがつないだ選手史、JKAとオートレース振興協会が支えた制度と技術の上に成立しました。現在の5場は、別々の施設でありながら、70年以上の成果を分担して開催を続けています。

参考文献

  1. AutoRace.JP「オートレース70年の歴史」
  2. 公益財団法人JKA「オートレースの沿革」
  3. 公益財団法人JKA「オートレースの運営状況体系図」
  4. 公益財団法人JKA「プロフィール」
  5. AutoRace.JP「オートレース Special入門サイト」
  6. 一般財団法人オートレース振興協会「業務概要」
  7. AutoRace.JP「船橋オート65年の歴史に幕。閉場式」
  8. AutoRace.JP「日本小型自動車振興会の解散及び新体制」
  9. AutoRace.JP「片平巧選手 永眠について」
  10. AutoRace.JP「高橋貢選手プロフィール」
  11. AutoRace.JP「森且行選手プロフィール」
  12. AutoRace.JP「森且行、46歳で悲願のオートSG制覇」
  13. AutoRace.JP「2026年度からのオートレース開催について」