国立駅南口に立つと、赤い三角屋根の旧駅舎から、幅の広い大学通りが南へ伸びています。並木の先には一橋大学の時計塔とロマネスク風の建物が見え、駅前の大通りから路地へ入ると、1954年創業のロージナ茶房があります。駅、大学、住宅地、老舗の店が歩ける範囲に集まる風景は、約100年前の都市計画から始まりました。
国立は、開発会社が街の器をつくり、一橋大学が人と知を集め、市民と学生が文教地区を選び、ロージナ茶房のような場所が交流と記憶を育てたことで文化の街になりました。整然とした街路だけでも、大学だけでも生まれなかった都市文化です。
国立は四つの力が重なって文化の街になった
| 力 | 街への働き |
|---|---|
| 計画 | 駅、道路、広場、大学敷地を配置した |
| 大学 | 学生、教員、教育施設、知識を集めた |
| 市民運動 | 教育と住環境を重視する地区を選んだ |
| 日常の居場所 | 食事、議論、芸術、交流の記憶を重ねた |
この四つは年代順に現れながら、互いを支えました。1920年代に駅と道路が整い、大学が移ると学生街が生まれます。1952年の文教地区指定は、学園都市としての環境を住民と学生が選び直す動きでした。1954年に開いたロージナ茶房は、その環境の中で人が長く過ごす場所となりました。
大学町ができる前、ここは谷保村の「ヤマ」だった
古くからの谷保村と新しい国立駅周辺
現在の国立駅から谷保駅にかけての地域は、北多摩郡谷保村の一部でした。村の中心は甲州街道沿いと谷保天満宮周辺にあり、水田や畑が広がっていました。南側の低地では多摩川水系の水を使った農業が営まれ、北側の台地には畑や雑木林が続いていました。
雑木林は村人の暮らしと結びついていた
後に国立大学町となる北部は、松やクヌギの林と畑がある土地でした。村人はこの一帯を「ヤマ」と呼び、薪や落ち葉を得る場所として使いました。落ち葉は堆肥になり、木材や薪は炊事や暖房を支えました。蚕を育てる農家にとっても林や畑は生活の基盤でした。
国立大学町は無人の原野へ突然築かれた街ではなく、谷保村の暮らしと結びついた土地の北部に計画されました。新しい駅名の「国立」が広まった後も、南部には古い村の道や集落、用水、信仰の場が残りました。現在の国立市には、計画都市と谷保村以来の地域が併存しています。
関東大震災が東京商科大学を郊外へ動かした
商法講習所から神田一ツ橋へ
一橋大学の前身は、1875年に東京で開かれた商法講習所です。商業教育を担う学校として改組を重ね、1885年に神田一ツ橋へ移りました。「一橋」の名は、この土地で過ごした歴史に由来します。
1920年の大学昇格と1923年の被災
学校は1920年、東京商科大学となりました。商業教育の専門機関から、研究と教育を担う大学へ発展した時期です。しかし1923年9月1日の関東大震災で、神田一ツ橋の校舎は大きな被害を受けました。市街地での再建には用地の制約があり、教育施設をまとめて置ける郊外への移転が急務となりました。
佐野善作が描いた教育都市
学長の佐野善作は、校舎を移すだけでなく、学生と教員が落ち着いて学べる教育都市を構想しました。大学、住宅、道路、緑地を一体として整える考えです。震災は移転を急がせましたが、郊外に新しい学問の環境をつくる構想は大学側にもありました。
東京商科大学と箱根土地が「国立大学町」をつくった
1924年の仮契約と大学側の移転構想
東京商科大学と箱根土地株式会社は1924年10月、国立への移転に関する仮契約を結びました。大学はまとまった校地を求め、箱根土地は大学を核に住宅地を開発しようとしました。1925年9月に国立移転が正式に認可され、計画が具体化します。
佐野善作と堤康次郎の役割
佐野善作は教育環境を整える大学側の構想を進め、箱根土地を率いた堤康次郎は用地取得、鉄道駅の新設、道路整備、宅地分譲を事業として動かしました。大学と開発会社は目的を異にしながら、大学を中心とする街をつくる点で一致しました。
国立の形成を「堤康次郎が大学を誘致した」とだけ説明すると、大学側の移転構想と佐野の役割が抜け落ちます。反対に教育理念だけで見ると、鉄道会社への働きかけや住宅地分譲を担った開発事業が見えません。両者の契約が、理念と事業を一つの都市計画へ結びました。
大学と住宅地を組み合わせた開発事業
箱根土地は大学予定地を確保し、その周囲を住宅地として分譲しました。駅から大学へ向かう大通り、駅前広場、放射状道路、格子状の街路を先に描き、交通と景観を住宅地の価値へつなげる方式です。大学の存在は購入者に教育環境と将来性を印象づけ、住宅地は大学周辺の生活基盤になりました。
駅と大学通りから始まった国立大学町

1926年4月1日、国立駅開業
1925年4月、箱根土地は鉄道省へ新駅設置を願い出ました。新駅は開発会社が建設費を負担する請願駅として整備され、1926年4月1日に開業しました。大学の本格移転より先に駅を開き、資材と人を運び、住宅地の入口をつくる順序でした。
「国分寺」と「立川」から生まれた駅名
駅名の「国立」は、国分寺駅と立川駅の間にできることから、両駅名の一字ずつを取って付けられました。「新しい国が立つ」という願いも重ねられたと伝わります。駅名はやがて大学町の名称となり、1951年の国立町、1967年の国立市へ受け継がれました。
駅前広場、放射状道路、格子状街路
南口の駅前広場から、中央に大学通り、東に旭通り、西に富士見通りが伸びました。大学通りは駅と大学正門を一直線に結び、周辺には格子状の街路が配置されました。駅前で方向を変えながら広がる三本の道路と、大学を中心に置く構図が、街全体の骨格です。

1934年には大学通りへ桜が植えられ、現在の並木景観につながりました。道路は交通のための設備であると同時に、駅から大学へ向かう眺めをつくる都市空間になりました。
旧国立駅舎は大学町の顔だった
開業時の駅舎は、赤い三角屋根と白い壁をもつ小さな木造建築でした。大学通りの軸線上に置かれ、南口から街へ入る人を迎えました。2006年に駅の高架化工事で解体された後、部材を保存し、2020年にほぼ元の位置へ再築されました。現在は街の案内や交流に使われる施設です。
一橋大学の移転が学園都市を現実にした
1927年、専門部と養成所が先に移った
東京商科大学の移転は一度に完了したのではなく、段階的に進みました。1927年4月、商学専門部と商業教員養成所が国立の仮校舎で授業を始めました。駅開業から一年後、学生と教員が日常的に国立へ通うようになり、計画図の大学町が動き始めます。
1930年に本科・図書館・事務部が移転
1930年には本科、事務部、図書館、研究施設などが国立へ移りました。大学の中核機能が集まり、広いキャンパスを使った教育と研究が本格化します。1927年の先行移転と1930年の本格移転を分けて見ると、駅、校舎、組織が数年かけてそろった過程が分かります。
兼松講堂が生んだ「学問の街」の風景
兼松講堂は1927年8月に竣工し、同年11月に開館しました。兼松商店が創業者・兼松房治郎の遺志を継ぐ記念事業として寄贈し、建築家の伊東忠太が設計しました。左右対称の外観、アーチ窓、時計塔をもつロマネスク風の建物です。

時計塔はキャンパス外からも見え、時刻を知らせる存在として市民の暮らしと接しました。講堂は2000年に国の登録有形文化財となり、国立の街路景観と大学建築を結ぶ象徴として残っています。
大学は街に学生の日常を連れてきた
学生、教員、下宿、書店、食堂が集まる
一橋大学の前身が移ると、学生と教員の生活を支える下宿、書店、食堂、喫茶店が必要になりました。大学の時間割に合わせて人が駅とキャンパスを行き来し、周辺の商店や住宅にも日々の需要が生まれます。大学は建物の集合ではなく、街に繰り返し人を呼ぶ仕組みとして働きました。
国立音楽大学も加わった学生街の空気
1926年には東京高等音楽学院が国立で開校し、後の国立音楽大学へ発展しました。商学を学ぶ学生に加えて、音楽を学ぶ若者や教員が集まり、街には異なる専門と文化が交わる環境が生まれました。国立音楽大学は1978年までに立川市の新校舎へ移りましたが、学園都市の初期に果たした役割は大きなものでした。
キャンパスの外に必要だった居場所
授業の前後に食事を取り、友人を待ち、議論を続ける場所はキャンパスの外に生まれました。長く座れる喫茶店や食堂は、学生の時間を街へ広げます。大学で得た知識や人間関係が店へ持ち込まれ、店で生まれた交流が再び大学や地域へ戻る循環ができました。
市民と学生が「文教地区」を選んだ
立川基地周辺の変化が国立へ及んだ
戦後、米軍立川基地の影響を受け、周辺地域にはホテル、旅館、風俗営業に関わる施設が増えました。国立でも、大学通り周辺に旅館や娯楽施設を建てる計画が持ち上がります。学園都市として整えられた住環境と、新たな商業開発の間に緊張が生まれました。
教育・住環境を守る指定運動
住民と学生は、教育環境と住宅地の性格を保つため、文教地区の指定を求めました。署名や陳情が行われ、町議会では指定の必要性と営業・土地利用の自由をめぐって議論が続きました。指定への反対意見もあり、最終的な決定は僅差でした。
1952年の文教地区指定
1952年1月6日、国立は東京都から文教地区の指定を受けました。現在の制度では、第一種文教地区で劇場、映画館、ホテル、旅館、遊技場、風俗営業に関わる施設などを制限し、第二種文教地区でも用途に応じた制限を設けています。
この運動は歓楽施設への反対にとどまらず、1920年代に計画された学園都市の方向を住民と学生が選び直す動きでした。開発会社が描いた都市の器へ、地域社会が土地利用の意思を加えたことで、国立の環境は制度として守られました。
1954年、ロージナ茶房が開いた
画家・ジャーナリスト伊藤接が国立を選んだ理由
ロージナ茶房は1954年5月、国立駅南口近くで開業しました。創業者の伊藤接は画家、ジャーナリストとして海外を訪れ、ヨーロッパのカフェ文化に触れました。学生や教員が集まる国立で、食事と会話を長く楽しめる店を開きました。
創業年を1953年とする紹介もありますが、国立市観光まちづくり協会系の「くにたちNAVI」と近年の関係者取材は1954年5月としています。本稿では関係者の証言を含む両資料に基づき、1954年を採用します。
ヨーロッパのカフェ文化を学生街へ
伊藤が参考にしたヨーロッパのカフェは、飲食だけでなく、人が集まり、新聞や本を読み、議論する場所でした。ロージナ茶房でも、量の多い食事が学生を支え、席に長く滞在できる空間が交流を育てました。大学の外にありながら、学びと生活をつなぐ役割を担います。
一橋大学の教員が関わった店名
「ロージナ」はロシア語で故郷、祖国、大地などを意味します。創業時に一橋大学の教員が命名に関わったと伝えられています。店が路地にあることから「路地」の響きと重ねる逸話もありますが、ロシア語の意味と日本語の語感は別の由来として語り継がれています。
ロージナ茶房は学生街の「居間」になった
大盛りの食事が学生を支えた
ロージナ茶房は喫茶だけでなく、カレーやスパゲティなど量の多い料理を出す食堂の役割をもちました。学生が日常的に利用できる食事と、授業の合間に過ごせる席が同じ場所にありました。名物料理は店の記憶を伝えますが、学生街にとって大きかったのは、食べることと滞在することを一体にした機能です。
ゼミ、議論、読書、待ち合わせの場
一橋大学のゼミが開かれ、学生同士の議論や読書、待ち合わせにも使われました。授業が終わっても話を続けられるため、大学の学びが店内へ延びます。誰かと会う約束がなくても立ち寄れる店は、学生街の「居間」として働きました。
作家・芸術家・音楽家が交わるサロン
店には学生と教員のほか、作家、画家、音楽家らが集まりました。石原慎太郎、忌野清志郎、坂本龍一などの名も関係者取材で語られています。著名人の来店そのものより、異なる世代と分野の人が同じ席を使い、会話や表現を持ち寄った点に文化的な役割がありました。
絵画と音楽が店内に蓄積した
店内には伊藤や交流のあった画家たちの作品が並び、音楽イベントも開かれました。地下と二階は後に増築され、食事、会話、展示、演奏を受け止める空間が広がります。店の内装と作品は、何世代もの客が共有した時間を目に見える形で残しました。
計画された学園都市が、暮らされる文化都市へ変わった
1920年代の都市計画は、駅から大学へ向かう街の形をつくりました。東京商科大学の移転は、学生、教員、研究、書店、下宿、飲食店を集めました。戦後の文教地区運動は、教育と住環境を重視する土地利用を制度へ結びました。ロージナ茶房などの店は、その街で人が食べ、話し、学び、表現する日常を積み重ねました。
1967年に国立市が誕生し、2026年4月1日に国立駅は開業100周年を迎えました。100年の節目は、駅だけの記念日ではなく、街の器、人と知、住民の選択、日常の居場所が重なってきた時間を振り返る機会です。
国立の100年を歩く
国立駅南口からロージナ茶房まで、約100年の都市形成を順にたどれます。旧国立駅舎や大学施設の開館状況、大学構内への立ち入り、店の営業状況は変わるため、訪問前に各施設の公式案内を確認すると歩きやすくなります。
- 旧国立駅舎
赤い三角屋根と大学通りの軸線を確認できます。駅前に再築された位置から、大学町の入口だった役割が伝わります。 - 国立駅南口・駅前広場
大学通り、旭通り、富士見通りが放射状に伸びる起点です。駅前から街全体の計画を見渡せます。 - 大学通り
駅と大学を一直線に結ぶ都市軸です。歩道、並木、車道の幅が、住宅地と学園都市の景観をつくりました。 - 一橋大学東キャンパス
1927年に先行移転した専門部などの歴史につながる区域です。現在の施設利用と入構条件は大学の案内に従います。 - 一橋大学西キャンパス
1930年に大学の中核機能が整った区域です。大学通りを挟む東西の配置から、街と大学が一体で設計されたことが分かります。 - 兼松講堂
1927年竣工の大学建築です。外観と時計塔は大学通りからも見え、学園都市の象徴になりました。 - ブランコ通り
大学通りから駅前の路地へ入り、計画的な大通りと日常の商店街の違いを感じられます。 - ロージナ茶房
学生街の食堂、議論の場、文化人の交流空間として続く店です。営業情報は公式案内で確認できます。
一橋大学構内や国立の近代建築を実際にたどった行程は、一橋大学と国立の近代建築を歩いた散歩企画でも紹介しています。
国立・一橋大学・ロージナ茶房の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1875 | 商法講習所が開かれる |
| 1885 | 前身校が神田一ツ橋へ移る |
| 1920 | 東京商科大学となる |
| 1923 | 関東大震災で一ツ橋校舎が被災 |
| 1924 | 東京商科大学と箱根土地が移転の仮契約 |
| 1925 | 新駅設置を願い出て、国立移転が正式認可 |
| 1926 | 4月1日に国立駅開業。東京高等音楽学院も開校 |
| 1927 | 専門部などが先行移転。兼松講堂竣工・開館 |
| 1930 | 本科、図書館、事務部などが移転 |
| 1934 | 大学通りに桜を植樹 |
| 1949 | 新制大学の一橋大学となる |
| 1951 | 谷保村から国立町となる |
| 1952 | 1月6日に文教地区指定 |
| 1954 | 5月にロージナ茶房開業 |
| 1967 | 国立市が誕生 |
| 2026 | 国立駅が開業100周年 |
よくある質問
国立という名前は国立大学に由来するのですか
国立大学に由来する名称ではなく、国分寺と立川の間にできた新駅の名として、両駅名から一字ずつ取ったものです。駅名が大学町、国立町、国立市の名称へ広がりました。
一橋大学は最初から国立にあったのですか
前身校は1875年に東京で始まり、1885年に神田一ツ橋へ移りました。関東大震災後、1927年に一部組織が国立へ先行し、1930年に本科や図書館などが移りました。
国立駅周辺はどのように計画されたのですか
駅前広場を起点に大学通り、旭通り、富士見通りを放射状に伸ばし、周囲へ格子状の街路を配置しました。大学通りの正面に東京商科大学の校地を置き、大学と住宅地を組み合わせました。
ロージナ茶房はいつ創業したのですか
国立市観光まちづくり協会系の「くにたちNAVI」と関係者取材に基づくと、1954年5月です。1953年とする紹介もありますが、本稿は1954年を採用しています。
なぜ2026年が学園都市100年の節目なのですか
1926年4月1日に国立駅が開業し、駅を起点とする大学町が動き始めたためです。2026年は駅、街路、大学、地域社会が重ねた100年の節目にあたります。
参考文献
- 国立市「くにたちの歴史(まちの成り立ちと発展)」
- 国立市「くにたちのあゆみ(中世から現在まで)」
- 国立市「旧国立駅舎の生い立ち」
- 国立市「特別用途地区」
- 国立市「大学通り学園・住宅地区」
- 国立市「堤康次郎のくにたち大学町開発」
- 一橋大学150周年記念サイト「150年の軌跡」
- 一橋大学「東キャンパスにおける東本館の改修に寄せて」
- 一橋大学「国立駅開業100周年が呼び起こす『街と大学』の絆」
- 一橋大学「令和8年度学部入学式における式辞」
- 一橋大学「施設案内・兼松講堂」
- 一橋大学文書館学園史資料室
- 酒井雅子「箱根土地株式会社と佐野善作」『一橋大学文書館学園史資料室年報』No.4
- くにたちNAVI「ロージナ茶房」
- さんたつ by 散歩の達人「創業70年を超える老舗カフェ、国立『ロージナ茶房』」
- さんたつ by 散歩の達人「立川・国立・国分寺の喫茶の名店4選」
- Wikimedia Commons「Kunitachi-1a.jpg」
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