1908年(明治41年)8月1日の朝、東京に集まった自動車は、砂ぼこりの立つ街道へ向かいました。舗装された道、給油所、部品をそろえた修理工場が広がる前の時代です。有栖川宮威仁親王が運転するダラック号を先頭に、輸入車と国産初期のガソリン車が車列を組み、甲州街道を西へ進みました。
一行が目指したのは、東京郊外の谷保天満宮です。梅林で昼食を取り、拝殿に上がって参拝し、故障や事故なく東京へ戻ったと神社の由緒は伝えます。日本最初期の自動車走行は1898年の東京で、谷保の出来事は日本初とされる組織的な自動車の遠乗会でした。
日本で最初に自動車が走ったのはいつか

日本で確認できる最初期の四輪自動車走行は、1898年(明治31年)の東京です。フランス人技師ジャン=マリー・テブネが持ち込んだフランス製パナール・ルヴァッソールが、築地から上野までを走りました。公開走行の日付には資料ごとの差がある一方、テブネが運転し、築地―上野間を走った点は国立科学博物館や自動車史資料で共通しています。
当時の東京では、人力車、馬車、自転車、歩行者が道路を使っていました。エンジン音を立てて馬なしで動く車は、実用品より先に新技術の見本として人々の目を引きます。車両は販売見本として輸入されましたが、価格も維持も日常の交通手段にできる水準から遠く、所有できたのは富裕層や政財界人などに限られました。
この走行から谷保天満宮への遠乗会まで10年あります。1898年は一台の自動車が東京を走った段階、1908年は複数台が郊外へ出かけ、参拝と昼食を組み込んだ旅の段階です。
| 出来事 | 年 | 場所 | 主な人物 | 使用車 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|---|---|---|
| 日本最初期の自動車走行 | 1898年 | 東京・築地―上野 | ジャン=マリー・テブネ | パナール・ルヴァッソール | 日本の道路を四輪ガソリン自動車が走った最初期の記録 |
| 日本初とされる自動車遠乗会 | 1908年 | 日比谷方面―立川―谷保天満宮 | 有栖川宮威仁親王と政財界の参加者 | ダラック号、タクリー号など約11台 | 複数台で郊外へ向かう組織的なドライブ |
自動車登場から10年、遠乗会へ
1898年以後、自動車は輸入商や外国商館を通じて少しずつ増えました。所有者は皇族、華族、富裕な実業家などが中心で、乗用のほか、新技術を示す象徴でもありました。明治の博覧会と新技術が人々に海外の機械を見せた時代に、自動車も蒸気機関や電気機械と同じく、近代化を目に見える形にした存在です。
走行を支える環境の整備は、車の輸入より遅れていました。専用の給油所、規格化された交換部品、広域の修理網はなく、燃料や工具の準備は所有者、輸入商、技師に依存しました。道路の多くは未舗装で、雨天にはぬかるみ、晴天には砂ぼこりが立ちます。馬車、人力車、荷車、歩行者が同じ道を行き交い、速度の違う交通手段が混在していました。
東京では1907年(明治40年)に警視庁の自動車取締規則が施行され、運転許可などの仕組みが整い始めます。全国統一の自動車取締令は1919年で、1908年の遠乗会は地方ごとの規則が先行していた時期に当たります。長距離走行は行楽であると同時に、車体、エンジン、タイヤ、運転技術を試す実地試験でした。
1908年8月1日、日比谷から谷保へ

1908年8月1日午前8時半ごろ、参加者は日比谷公園に集まり、築地の有栖川宮威仁親王邸で親王を迎えて出発しました。車列は親王のダラック号を先頭に、およそ11台です。東京自働車製作所製のタクリー号3台のほか、ハンバー、フォード、マセソン、フィアット、クレメントなどの車名が伝わります。
参加者は政財界、軍人、実業家など当時の自動車愛好者です。国立市の文化財解説は、親王を先導者として名士10人が参加したと記します。新聞記事と後年の資料では車両数や所有者名の数え方に差があるため、車列は「約11台」、参加者は「親王と名士10人」を軸に捉えると経過が整理できます。
一行は甲州街道を西へ走り、約7里、現在の距離で約27キロ先の立川付近へ午前11時ごろ到着しました。多摩川近くで小休止したのち、街道を約1里戻って谷保へ向かいます。谷保天満宮の梅林には食卓が用意され、参加者は清水で汗と砂ぼこりを落とし、親王からの弁当と飲み物で昼食を取りました。
昼食後、一行は拝殿へ上がって参拝し、東京へ帰りました。谷保天満宮は、往復を通じて故障や事故がなく、全車が無事に帰還したと伝えます。未舗装路を約60キロ規模で走る行程は、当時の車と運転者にとって遠征に近い一日でした。
遠乗会を率いた「自動車の宮様」
有栖川宮威仁親王は1862年生まれの皇族で、海軍軍人として歩み、のちに海軍大将となりました。少年期から海軍教育を受け、英国を含む海外経験を重ねています。艦船、機関、通信など新技術と向き合う海軍での経歴は、機械への強い関心と結びつきました。
親王は自動車を所有するだけでなく、自らハンドルを握りました。1908年の遠乗会でもダラック号を運転して先頭に立っています。皇族が新しい乗り物を公の場で使い、長距離走行を奨励した行動は、自動車の実用性と社会的な信用を広げました。
国産ガソリン自動車の製作を吉田真太郎や内山駒之助らに働きかけたことも、親王の自動車史上の役割です。輸入車を楽しむ愛好者から、国産化を後押しする支援者へ踏み込んだため、「自動車の宮様」と呼ばれました。
国産ガソリン車・タクリー号の登場
日本の初期自動車史には、蒸気、電気、ガソリンの三方式があります。1904年の山羽式蒸気自動車は国産自動車の早い例で、1907年に完成したタクリー号は「日本初の国産ガソリン自動車」と紹介される車です。動力方式を示すことで、それぞれの「日本初」を区別できます。
吉田真太郎と内山駒之助らは、東京の双輪商会と東京自働車製作所を基盤に車を製作しました。初期車ではエンジンや変速機などに輸入部品を使い、車体製作と組み立てを国内で進め、後続車ではエンジンの自製にも取り組みました。最初から全部品を国内で作った車という意味より、日本で実用ガソリン車を組み立て、改良し、販売した先駆けです。

写真では、運転席に有栖川宮威仁親王、助手席に徳川昭武が座ります。撮影者は徳川慶喜と推定されています。走行時に「ガタクリ、ガタクリ」と音を立てたことから、タクリー号の愛称が生まれました。
1908年の遠乗会には東京自働車製作所製の車が3台加わり、輸入車と同じ車列で立川まで走りました。製作工場の中だけで終わらず、実際の街道を長距離走った点にタクリー号の価値があります。日本の機械製作が輸入、模倣、改良、国産化へ進んだ流れは、日本の産業技術史にもつながります。
タクリー号の実車は現存せず、トヨタ博物館などに模型や資料が残ります。谷保天満宮旧車祭では実働レプリカが披露され、国立市ではタクリー号を描いたマンホールも設置されています。
なぜ目的地に谷保天満宮が選ばれたのか

目的地に谷保天満宮が選ばれた背景には、距離、街道、休憩場所の三条件が重なります。日比谷から立川方面までは、当時の自動車にとって性能を試せる十分な距離がありました。東京の市街地を離れ、甲州街道を西へ進む行程は、遠乗りと呼ぶにふさわしい郊外走行です。
谷保天満宮は甲州街道沿いの名所で、街道から立ち寄りやすい位置にあります。神社の社殿は立川段丘の縁に建ち、旧来の街道と深く結びついてきました。遠乗会は立川付近まで走ったのち約1里戻って谷保へ入り、梅林を昼食会場としています。木陰、食卓を置ける広さ、境内の清水は、夏の車列を迎える休憩地として実用的でした。
参拝を伴う目的地である点も大きな特徴です。車の試験走行だけで終わらず、神社への参拝、梅林での会食、参加者同士の交流を一日に組み込みました。郊外の名所へ出かけて食事を楽しむ、後世のドライブに近い形がここで生まれています。
公的資料が伝える有栖川宮家と現地の確かな接点は、この遠乗会と台臨記念碑です。目的地選定の全過程より、日比谷からの距離、甲州街道沿いの立地、梅林での昼食、拝殿参拝という実際の行程が、谷保を選んだ理由をよく表しています。
明治の東京から谷保まで、どの道を走ったのか
出発点の日比谷公園から西へ向かうには、皇居南側から半蔵門、新宿方面へ抜け、甲州街道を進む道筋が基本になります。後年の再現走行では、日比谷、桜田門、三宅坂、半蔵門、新宿、府中を経て谷保へ至る旧道がたどられています。1908年当日の全交差点を確定する記録より、甲州街道を通って立川方面へ走った事実が中心です。
現在の国道20号は改良や付け替えを重ね、旧甲州街道と並行する区間があります。府中から谷保周辺では、現道、旧道、バイパスを分けて見る必要があります。江戸・明治の古地図の見方を使い、当時の街道と現在の道路を重ねると、車列が市街地から農村へ移っていく地理がつかめます。
1908年の道は、自動車専用の空間から遠いものでした。馬車、人力車、荷車、自転車、歩行者が同じ路面を使い、舗装区間も限られます。給油所や系列整備工場が並ぶ前で、故障時の対応は、運転者と同乗者、同行した技術者が携行した工具と部品に頼りました。沿道の町や商会から離れるほど、一台の不具合が車列全体の行程を左右しました。
立川付近で折り返し、谷保天満宮へ戻る経路は、多摩川の渡河を避けながら長距離を確保する形です。谷保天満宮、旧甲州街道、立川方面を地図上で結ぶと、遠乗会の移動は東京の中心から郊外へ延びる一本の行程としてたどれます。
交通安全祈願発祥の地へ
谷保天満宮の由緒は、一行が拝殿へ上がる昇殿参拝を行い、故障や事故なく東京へ帰還した出来事を、交通安全祈願発祥の地の由来としています。ここでいう発祥は、自動車による遠乗会と安全祈願の結びつきを指します。古くからの道中安全の信仰全体より、自動車交通安全祈願の由来として位置づけられています。
梅林の西には「有栖川宮威仁親王殿下台臨記念碑」が立ちます。高さ151センチの粘板岩を使った石碑で、正面に碑名、裏面に「明治四十一年八月一日」と刻まれています。
この碑は長く、多摩川河川敷で行われた陸軍演習の指揮所を記念したものと考えられていました。自動車ジャーナリストらの調査により、裏面の日付が遠乗会の日と結びつき、ドライブツアーを記念する碑であることが明らかになりました。国立市は2011年4月1日、市登録有形文化財・歴史資料に登録しています。
現在も谷保天満宮では交通安全祈願と自動車の安全祈願を受け付け、車専用のお祓い場所を設けています。1908年の一日の記憶が、石碑、神社の由緒、現在の祈願へつながっています。
遠乗会と日本の自動車クラブ
梅林の昼食会では、車を所有し運転する参加者が、修理、部品、道路、費用、運転技術などの課題を共有しました。谷保天満宮の由緒資料は、この集まりを契機に日本初の自動車倶楽部「オートモビル・クラブ・ジャパン」が設立されたと伝えます。
当時の自動車愛好者にとって、クラブは趣味の集まりに加え、知識と技術を交換する場でした。車種ごとに部品も操作法も異なり、長距離走行の経験自体が少ない時代です。遠乗会は走行会と会食を一体にし、所有者、運転者、技術者を結ぶ役割を果たしました。
現在の同名団体は、遠乗会100周年の再現活動を経て2011年に再興された組織です。1908年の交流を受け継ぐ活動として谷保天満宮旧車祭などを開きます。歴史上のクラブと現在の団体は、活動の精神と名称を通じて結びついています。
現在の谷保天満宮で見られるもの
境内では、梅林西側の有栖川宮威仁親王殿下台臨記念碑、昼食会場となった梅林、参拝の舞台となった拝殿を一続きに見られます。碑の表面と裏面の日付を確かめると、1908年8月1日の行程が現在の場所に重なります。
谷保天満宮旧車祭ではクラシックカーが境内に集まり、タクリー号の実働レプリカが登場した年もあります。2025年の117周年記念祭には190台が集まりました。次回日程は神社公式サイトで告知されます。
国立市内には、タクリー号、梅林、メジロを描いたデザインマンホールがあります。マンホールカードはくにたち郷土文化館で配布され、常設展示は無料です。開館は9時から17時、入館は16時30分までで、休館日は公式カレンダーで確認できます。
谷保天満宮はJR南武線谷保駅から徒歩圏にあり、参拝時間は10時から16時です。自動車の安全祈願は10時から15時30分まで受け付けています。祭事や臨時変更は公式サイトのお知らせが最新情報です。
1898年から1908年へ、自動車が「見世物」から旅の道具になった
1898年、東京の築地から上野へ走ったパナール・ルヴァッソールは、馬なしで動く新しい機械として人目を集めました。10年後、約11台の自動車が車列を組み、東京の中心から立川へ走り、谷保天満宮で参拝と昼食を楽しみました。
この10年間に、自動車は一台の輸入見本から、国産初期のガソリン車を交えた旅の道具へ変わりました。道路、燃料、修理、制度は発展の途中でも、所有者と技術者は車を街の外へ走らせ、同じ関心を持つ人々の交流を生みました。谷保天満宮の遠乗会は、日本の自動車文化が走行実験から旅と交流へ広がった節目です。
参考文献
- 谷保天満宮「交通安全祈願発祥の地」
- 谷保天満宮「わが国初の自動車『遠乗会』由緒」
- 国立市「有栖川宮威仁親王殿下台臨記念碑」
- 国立市「国立市のマンホールカードについて」
- 国立科学博物館「日本人と車の100年」
- 国立科学博物館「20世紀の国産車」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「タクリー号ガソリンエンジン乗用車」
- トヨタ自動車75年史「自動車国産化」
- GAZOO「交通安全のルーツを訪ねて『谷保天満宮』へ」
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「遠乗会に関する資料」
- 国立国会図書館「徳川昭武|近代日本人の肖像」
- 国立国会図書館「徳川慶喜|近代日本人の肖像」
- 宮内庁書陵部「熾仁親王御画像」解説(威仁親王の読み)
- 国土交通省関東地方整備局「歴史と役割」
- くにたち郷土文化館
- Wikimedia Commons「Panhard et Levassor 1898 Tokyo」
- Wikimedia Commons「Takuri-go No.1 1907」
- Wikimedia Commons「Darracq-go of Arisugawanomiya Takehito 1908」
- Wikimedia Commons「Yaho Tenmangu」

