吉祥寺について
曹洞宗諏訪山吉祥寺。
1458年(長禄2年)太田持資(もちすけ)(太田道灌)開基、青巌周陽開山(江戸城内)。
参考① Wikipedia
参考② 歴史探訪と温泉
参考④ さいとう氏のノート
旃檀林(せんだんりん)
旃檀林は、1592年に駿河台の吉祥寺内に設けられた学寮(檀林)を指す。檀林(だんりん)は、仏教寺院における僧侶の養成機関、仏教宗派の学問所。
駒澤大学の歴史
1592年 駿河台の吉祥寺に学林創立
1600年 青松寺(獅子窟)が平川から愛宕下に移転
1612年 徳川家康が外桜田に泉岳寺を創建
1641年 寛永の大火で泉岳寺は高輪に移転、学寮九棟を整備
1657年 中国の僧陳道栄が学林を「旃檀林」と命名
1658年 明暦の大火(1657年)、江戸の大火(1658年)の後、吉祥寺は駒込に移転
1875年 獅子窟学寮内に「曹洞宗専門学本校」を開校
1876年 曹洞宗専門学本校を駒込吉祥寺内の旃檀林に移転
1905年 「曹洞宗大学」に改称
1913年 曹洞宗大学を駒沢に移転
1914年 曹洞宗大学の校旗を制定、朝鮮より初の留学生が入学
1923年 関東大震災により講堂・図書館が倒壊
1928年 菅原栄蔵の設計したフランク・ロイド・ライト式建築の図書館(耕雲館、現・禅文化歴史博物館)が完成
1930年 北原白秋作詞・山田耕筰作曲の駒澤大学校歌を制定
1945年 東京大空襲により、旃檀林の伽藍と学寮は経蔵(書庫)を残して焼失
1977年 東急新玉川線(現在の田園都市線)が開通し「駒沢大学駅」開設
2002年 禅文化歴史博物館設置、開校120周年記念事業(キャンパス再整備等)開始
駒込天祖神社
天祖神社(駒込神明宮)
祭神:天照皇大神
境内社:鎮火稲荷神社、榊神社、須賀神社、戸隠熱田神社、御林稲荷神社
兼務社:駒込冨士神社、満足稲荷神社
江戸時代には、駒込神明宮と称され駒込の総鎮守として信仰を集めた社である。社伝によれば、文治五年(1189)源頼朝公が奥州藤原泰衝追討の途次、霊夢に感じ家臣籐九郎盛長に仰せ其所を探させたところ、老松に大麻がかかっており、此を見て神霊の効験を喜び、その松の辺りに神明宮を建立したのが神社の起源と言われる。その後、中絶して宮守もなく神木の老松の下に小祠のみありしを、慶安年中(1648~1659)堀丹後守利直再興ありし、と伝えられている。いちょう並木の参道は、夏には涼やかな緑のトンネルとなり、冬には「黄金色の参道」として訪れる者の目を楽しませる。
駒込名主屋敷
大阪夏の陣後豊臣方の残党としてここに亡命し、当時傳通院領であった駒込の開拓を許され名主を務めた高木家の屋敷。現存のものは享保2年(1717)築と伝えられる。一般の町屋では許されず、武家でも旗本以上の屋敷にしか許されなかった式台付きの玄関がある。町人からの訴えや争いの仲裁をこの玄関で行ったため、名主様玄関の裁きと言われた。現在も居住中につき、見学は外観のみ。
富士神社(ふじじんじゃ)
本郷村の名主が天正元年(1573)、現在の東京大学の地に駿河の富士浅間社を勧請したことにはじまる。寛永5年(1628)加賀前田家が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を現在地に移した。拝殿は富士山に見立てた山の上にあり、江戸期の富士信仰の拠点の一つとなった。6月末から7月はじめの山開きには夜店が出てにぎわいを見せる。
南谷寺(なんこくじ)
天台宗大聖山南谷寺。元和年間(1615~24)万行和尚が伊勢国赤目山で、不動明王像を授けられた。その後、尊像を護持して諸国をめぐり、駒込村の動坂に庵を開き赤目不動と号した。寛永年間(1624~44)三代将軍家光が鷹狩の途中に動坂の庵に寄り、目黒・目白不動に対し目赤と呼ぶべしと命じ、現在地を与えた。江戸の五色不動の一つとなる。
駒込大観音
浄土宗天昌山光源寺(こうげんじ)は、1589年(天正17年)に仙石秀久の開基で元々は神田四軒町(現・神田美土代町)に位置していたが、1648年(慶安元年)に現在地に移転した。本尊おは駒込大観音(こまごめおおがんのん)という十一面観音像。初代の像は江戸時代前期の豪商丸屋吉兵衛の発願により建てられた。丸屋吉兵衛は大和国(現・奈良県)の長谷寺(はせでら)に参詣した。そこで木造十一面観音立像を拝し、「このような尊像を江戸にも勧請したい」という思いで建立したという。1855年(安政2年)の安政大地震や1923年の関東大震災では、観音堂は大破したものの、観音像そのものは無事であった。しかし1945年5月24日夜の空襲で堂宇もろとも焼失した。戦後、大観音像が置かれた石の台座には小さな観音像を安置し、これを事実上の「駒込大観音」として拝していた。1993年、2代目の大観音像が再建された。東京都内にある2つの大観音(駒込大観音と麻布大観音)の一つ。