子守唄の歴史|江戸の子守唄の意味と子守奉公、五木・竹田の歌に残る少女たちの暮らし

明治期に乳幼児を背負う少女たち

「ねんねんころりよ」の柔らかな節回しは、今も日本の子守唄の代表として親しまれています。一方、熊本の「五木の子守唄」や京都の「竹田の子守唄」には、家を離れて幼い子どもの世話をした少女たちの苦労が歌い込まれています。歌は、眠る子どものそばにいた人々の暮らしとともに伝わってきました。

子守唄には「寝させ唄」と「守り子唄」がある

子守唄は、赤ん坊を眠らせる「寝させ唄」と、子守をする人の生活や感情が表れた「守り子唄もりこうた」などに分けられます。あやしたり遊ばせたりする歌も、育児に関わる歌の大きな仲間です。

寝させ唄は「ねんね」と繰り返して眠りを誘い、守り子唄には仕事のつらさ、故郷の家族への思い、雇い主との関係が現れます。母親や祖母が歌う場面もあれば、奉公先で赤ん坊を背負う少女が歌う場面もありました。同じ「子守唄」という名前でも、歌の相手と歌う理由が異なります。

江戸時代より前から続く子守りの習慣

乳幼児の世話を家族や周囲の人が担う習慣は、古くから続いています。中世から近世にかけては、幼い弟妹や親類の子を背負う年長の子どももいました。子守の行為そのものと、他家へ雇われる子守奉公の歴史は、分けて考える必要があります。

1772年刊行の歌謡集『山家鳥虫歌さんかちょうちゅうか』には、子守の苦労を歌う詞章が収められました。江戸時代後期には、子守の仕事への不満や雇い主との関係が歌の題材になっていたことがわかります。また、釈行智しゃくぎょうちの『童謡集』に残された1820年頃の詞章は、今日の「江戸の子守唄」につながる資料として知られています。

「江戸の子守唄」の歌詞に描かれた里帰り

「ねんねんころりよ」で始まる江戸の子守唄は、眠る子への呼びかけに続き、子守り役が山を越えて里へ行ったこと、その土産が何であったかを問いかけます。子守り役を「お守り」と呼ぶ言い方には、幼い子を世話する人の身近さが感じられます。

「里」は故郷や実家を思わせる場所です。山を越えるという短い言葉には、奉公先から離れた故郷との距離も重なります。江戸時代の奉公人には、正月や盆に休みをもらう「藪入り(やぶいり)」という慣習がありました。歌詞の里帰りをこうした暮らしと重ねて味わうことができます。

江戸の子守唄は各地で異なる歌詞を伴って伝えられました。現在広く知られる詞章も、長い伝承のなかで整えられた形です。『童謡集』の古い記録と現行の歌詞を比べると、呼びかけの言葉にも違いが見られます。

でんでん太鼓、笙の笛、起き上がり小法師

子守唄に登場する土産は、子どもが音や動きを楽しむ玩具です。でんでん太鼓は柄を手のひらで回し、両側のひもについた玉で太鼓を鳴らします。小さな子でも音を楽しめる仕組みです。

日本の伝統玩具でんでん太鼓。柄を回して左右の玉で太鼓を鳴らす
でんでん太鼓。撮影:Ebiebi2/Wikimedia Commons(パブリックドメイン)。

「笙(しょう)の笛」は、雅楽で用いる笙の姿を思わせる玩具の笛です。江戸時代には伊勢の土産物として知られ、古い随筆や風俗資料にも名が残ります。宮中の雅楽器そのものと、子ども向けの小さな笛とは区別されます。

起き上がり小法師(おきあがりこぼし)は、倒しても底の重りによって起き上がる人形です。歌詞に挙がる振り鼓(ふりつづみ)も、振って音を出す玩具の一種です。動き、音、形を楽しむ身近な品々が、里帰りの土産として並んでいます。

石川県の伝統工芸資料館に展示された加賀八幡起き上がり
起き上がり小法師の仲間、加賀八幡起き上がり。撮影:Daderot/Wikimedia Commons(CC0)。現代に伝わる郷土玩具の参考例です。

子守奉公――幼い少女が働きに出た理由

農村では、家族の多くが農作業に携わっていました。小さな子どもの世話に手が回らない家は、よその家の少女を子守として雇いました。貧しい家にとっても、娘を奉公に出すことは、食費を減らし、衣服やわずかな給金を得る手段となりました。この事情は「口減らし」と呼ばれます。

子守の少女は、自分より幼い子を背負い、泣けばあやし、眠れば家事や畑仕事も手伝いました。住み込みの仕事では、親やきょうだいと離れて過ごすこともありました。子守奉公の条件は地域や家ごとに異なりますが、働いていたのが子ども自身だった点は共通しています。

明治時代に幼児を背負う少女たちを撮影した古写真
明治期、幼児を背負う少女たち。撮影:日下部金兵衛/Wikimedia Commons(パブリックドメイン)。

10歳ほどの子守娘――柳谷村に残る記録

愛媛県の『柳谷村誌』は、昭和10年(1935年)頃まで子守奉公が多く見られたと伝えています。子守は「モリサン」と呼ばれ、10歳から12、13歳ほどの女の子が中心でした。村内で雇われるほか、土佐の梼原(ゆすはら)方面から来る子もいました。

報酬は主に食事と、盆・正月頃に与えられる着物や足袋でした。少額の給金を出す場合には、親が遠方から取りに来ることもありました。子どもを背負ったまま学校へ行く例もありましたが、多くは通学できませんでした。赤ん坊の世話をしていた少女自身が、学ぶ機会を失っていたのです。

仕事には農家の手伝いも含まれました。雇い主の家の子が大きくなって弟妹を見られるようになると、雇われた子守が農作業に回ることもありました。農家に必要とされたのは、育児と農作業を支える働き手でした。

子守奉公は奴隷制度だったのか

子守奉公は、家と家との間で期間や給金を決める奉公の一種でした。人を所有物として扱う典型的な奴隷制度とは、法的な仕組みが異なります。一方で、幼い少女が自分で働く場所を決められず、親が給金を受け取り、教育や移動の自由を制約された事例には、強い労働拘束がありました。

日本の近世・近代には、借金を前提に働く年季奉公(ねんきぼうこう)や、前借金を伴う身売り奉公も存在しました。こうした契約では、働く本人が簡単に奉公先を離れられない場合がありました。子守奉公の一部にも、現代の視点から強制労働や債務による拘束と比較すべき条件が見られます。

子守奉公には、食事や衣服を受ける近隣の雇用から、前借金を伴う長期の住み込みまで幅がありました。実態を知るには、誰が契約し、報酬を誰が受け取り、本人が辞められたのかという条件が重要です。少女の労働が家計と農家の生産を支えた一方、少女自身の選択肢は狭いものでした。

五木の子守唄――熊本に伝わる奉公の歌

熊本県五木村に伝わる「五木の子守唄」は、守り子唄の代表として知られています。故郷へ帰ることへの願い、雇い主との関係、貧しい暮らし、死後の埋葬への思いなど、さまざまな詞章が採集されました。土地や歌い手によって歌詞が異なり、現在よく歌われる形は、多くの伝承から知られるようになったものです。

その歌に登場する「おどま」は「私たち」を意味する地域の言葉です。奉公する少女が自分の立場を語る詞章に、眠る赤ん坊よりも歌い手自身の姿が前面に出てきます。仕事の途中に口ずさんだ言葉が、地域の記憶として残りました。

竹田の子守唄――京都で歌い継がれた声

「竹田の子守唄」は、京都市伏見区竹田の地域に伝わる歌です。盆が来ても着るものがなく、守り子の仕事をつらく感じる詞章が知られています。歌の背景には、地域の貧困や社会的な差別の歴史もあります。

この歌は各地の伝承や採集を経て、昭和後期にフォーク音楽を通じて広まりました。地域で口伝えに歌われていたものと、録音や編曲を経て全国へ届いた歌とでは、歌詞や旋律に違いがあります。全国で知られるようになった過程も、竹田の子守唄の歴史の一部です。

明治から昭和へ――学校と児童労働の変化

明治時代に学校制度が整えられると、学齢期の子どもが奉公に出て授業に出られないことが問題となりました。1907年には義務教育が6年へ延長されました。それでも地方では、昭和初期まで子守奉公が残りました。

1947年には新しい学校教育法によって小学校6年・中学校3年の9年間の義務教育制度が始まり、労働基準法でも年少者の就労に制限が設けられました。戦後の教育の普及、雇用の変化、家計や育児環境の変化が重なり、幼い少女が他家で子守をする奉公は次第に姿を消していきました。

「赤とんぼ」の姐やにも残る子守の記憶

大正時代の童謡「赤とんぼ」に登場する「姐や(ねえや)」も、幼い子を世話した子守娘を思わせる存在です。三木露風(みきろふう)が幼少時を振り返って1921年に書いた詩に、世話をしてくれた女性の記憶が残りました。山田耕筰(やまだこうさく)の作曲によって広く歌われるようになりました。

江戸の伝承歌、各地の守り子唄、大正の創作童謡は、それぞれ異なる経路で現代に伝わりました。「赤とんぼ」は、近代になっても子守り役の存在が子どもの成長と記憶に深く関わっていたことを伝える一曲です。

子守唄が伝える日本の暮らし

江戸の子守唄には、山の向こうの里と土産の玩具が登場します。五木や竹田の歌には、貧しい奉公生活と故郷への思いが残りました。明治期の写真には、赤ん坊を背負うまだ幼い少女たちが写っています。穏やかな寝させ唄と切実な守り子唄は、子どもを育てる仕事を誰が担ってきたのかという、日本の生活史にもつながっています。

江戸時代の子育てを担った人々については、乳母の役割と歴史も詳しく紹介しています。江戸の庶民文化と伊勢への旅については、『東海道中膝栗毛』と江戸の旅文化が関連します。

参考文献・資料