嘉永5年(1852)の「本所絵図」は、隅田川東岸の本所、両国、横網、石原、亀沢周辺を描いた切絵図です。明暦の大火後に本格開発された新しい市街地で、直線的な道路と運河、武家屋敷、寺社が広がります。赤穂事件の吉良邸、両国橋、回向院など、江戸史の著名な舞台を一枚でつなげられます。
本所絵図の基本情報
尾張屋清七が刊行した江戸切絵図の一枚で、国立国会図書館所蔵本は1852年の資料です。現在の墨田区南西部を中心に、隅田川と多数の堀割、その間に整備された武家地・町人地を描きます。

本所は明暦の大火後に大きく開発された
明暦3年(1657)の大火は江戸市中を広範囲に焼き、幕府は防火と人口分散のため都市を隅田川東岸へ拡張しました。墨田区の歴史資料では、本所の市街地整備、運河開削、両国橋の架橋が大火後の都市再編と結びついています。
地図に直線道路と水路が多いのは、新しく計画的に開発された地域だったためです。古くからの町が積み重なった日本橋側とは街区の表情が異なります。
両国橋――江戸を東へ広げた橋
両国橋は明暦の大火後、万治元年(1658)ごろに架けられました。隅田川西岸と本所を結び、人と物の流れを大きく変えます。橋のたもとには広小路が設けられ、火除地でありながら見世物や飲食店が集まる盛り場になりました。
両国の花火も水辺の行楽文化から発展します。現在の両国駅周辺が相撲や観光の街として人を集める背景には、江戸時代から続く橋詰のにぎわいがあります。
吉良邸――赤穂浪士討ち入りの現場
元禄15年12月14日(1703年1月30日)、赤穂浪士47人が吉良義央の本所屋敷へ討ち入りました。現在の墨田区両国三丁目付近には吉良邸跡の一部が公園として残っています。
切絵図上で吉良家屋敷の位置と隅田川、両国橋を確認すると、浪士たちが江戸市中から本所へ入り、討ち入り後に泉岳寺へ向かった長い移動を都市空間として理解できます。事件を一地点の逸話ではなく江戸全体の地理として追える場所です。
回向院――大火の犠牲者を弔う寺
回向院は明暦の大火の犠牲者を弔うために建立されました。大火後に開発された本所で、災害の記憶を担う寺院として出発します。境内では勧進相撲も開催され、後の両国国技館へつながる相撲文化の中心となりました。
防災都市として生まれた広小路と追悼寺院が、やがて娯楽と興行の中心へ育ったことは、両国の歴史を象徴します。
運河と武家屋敷がつくった本所
本所には竪川、横川など人工的な水路が開かれ、物資輸送と排水を担いました。その間に武家屋敷と町人地が整備されます。水路は材木や生活物資を市中へ運ぶ交通路であり、低湿地を都市化するための排水施設でもありました。
現在は埋め立てられた堀も多いものの、道路、公園、橋名に旧水路の形が残ります。碁盤目状の街区は江戸の開発計画を今に伝えています。
明治から現在へ――相撲の街・両国へ
明治以降、本所は工業地・住宅地として発展し、両国には鉄道駅が開業します。1909年には旧両国国技館が建てられ、相撲興行の中心としての性格が強まりました。現在の両国国技館、江戸東京博物館周辺は、江戸の回向院・広小路のにぎわいを別の形で引き継いでいます。
関連する古地図:日本橋北神田浜町絵図では両国橋西側を、深川絵図では本所の南に続く運河と埋立地を読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から全地域へ移動できます。
