広い芝生、整った並木、高層住宅、駅直結の商業施設。現在の光が丘を歩くと、計画的につくられた便利な住宅地という印象を受けます。しかし、この風景の下には、水田と集落、陸軍飛行場、米軍家族住宅という、性格のまったく異なる土地の記憶が重なっています。
光が丘は、二十世紀の約半世紀の間に少なくとも三度、大きく造り替えられた街です。農村は首都防衛の軍事空間となり、敗戦後は日本側が自由に使えない米軍住宅地区となり、返還後は公園・住宅・学校・病院・商業・清掃工場・地下鉄を備えた地域拠点へ変わりました。
水田だった土地は、なぜ軍用飛行場となり、米軍住宅を経て、巨大公園と団地の街・光が丘へ変わったのでしょうか。
答えを先に言えば、戦時の国家動員、占領下の基地利用、長い返還運動、戦後東京の住宅不足、そして複数の行政機関による跡地計画が、同じ土地で連続して起きたからです。現在の緑豊かな風景は、過去を消してできたのではありません。各時代の選択と負担の上に築かれています。

30秒で分かる結論――光が丘は「基地跡地の総合都市」です
光が丘は、東京都練馬区光が丘一丁目から七丁目を中心とする街です。練馬区のまちづくり資料では約1.6平方キロメートル、100棟以上の共同住宅がある地区と説明されています。人口は2026年6月1日現在で2万5,969人です。都立光が丘公園、都営大江戸線光が丘駅、商業施設IMA、病院、図書館、体育館、清掃工場などが集まり、周辺地域を支える拠点になっています。
ただし、「現在の光が丘」「返還されたグラントハイツ住宅地区」「光が丘地区地区計画」の範囲は同じではありません。現在の町名は一丁目から七丁目、返還施設は練馬区と板橋区にまたがる約183万平方メートル、地区計画はその一部を対象とします。さらに、光が丘一丁目のむつみ台団地は、旧グラントハイツ区域外で先行して整備されました。数字を比べるときは、何の範囲を示すのかを区別する必要があります。
土地の変化を一枚でつかむ
| 時期 | 土地の役割 |
|---|---|
| 飛行場以前 | 水田・畑・屋敷林・集落が広がり、農業と用水を軸に暮らしが営まれる |
| 1943年 | 首都防衛のため成増陸軍飛行場が建設され、農地買収と住民移転、動員が進む |
| 1945年以後 | 敗戦後に米軍が接収。旧飛行場は米軍家族住宅地区へ転換される |
| 1948年 | グラントハイツが完成。住宅、学校、教会、劇場、商店などを備えた閉鎖的な生活圏が成立 |
| 1971~1973年 | 日米間で全面返還が合意され、1973年9月30日に返還完了 |
| 1978年 | グラントハイツ跡地開発計画がまとまり、住宅・公園・公共施設・交通を一体整備 |
| 1981~1992年 | 光が丘公園開園、住宅建設、1983年入居開始、1992年最終入居 |
| 1991年 | 都営地下鉄12号線の練馬―光が丘間が開業。現在の大江戸線の終着駅となる |
つまり光が丘の特徴は、単なる「団地建設」ではありません。都心近郊に残った広大な返還基地を、住宅だけでなく公園、防災、教育、医療、行政、商業、環境インフラまで含む街へ組み替えたことにあります。
水田と農村から成増陸軍飛行場へ
「何もなかった土地」ではない
飛行場以前の一帯には、田柄、土支田、高松、旭町などにつながる農地と集落がありました。武蔵野台地の畑だけでなく、低い土地には水田や池、用水があり、田柄川や田柄用水が農業を支えていました。現在の秋の陽公園は、その田園の記憶を復元するためにつくられた公園です。
したがって「広い空き地に飛行場ができた」と理解すると、土地の歴史を取り違えます。そこには所有者がいて、田畑を耕す人がいて、墓地や家屋、地域の水利がありました。飛行場建設は、地域の生活基盤そのものを軍事目的へ切り替える事業でした。
1943年、首都防衛のための飛行場が急造される
1942年の東京初空襲以後、陸軍は首都防空の強化を急ぎました。現在の光が丘を中心とする平坦な土地が選ばれ、1943年に成増陸軍飛行場が建設・運用されます。練馬区の公的資料は飛行場の規模を約1.5平方キロメートルとし、滑走路を中心に格納庫や関連施設が配置されたと伝えています。
名称は「成増飛行場」ですが、滑走路が現在の成増駅前にあったわけではありません。中心は現在の光が丘公園・光が丘団地周辺です。今回確認した公的資料には命名の厳密な経緯まで明記されていないため、駅名との位置関係を示す以上の推測は避けるべきでしょう。
農地買収と住民動員が地域を変えた
建設予定地では農地の強制買収や家屋移転が進められました。練馬区の地域資料には、価格や補償への不満、代替地や作物への補償が十分でなかったという証言が残ります。また、工事には軍関係者だけでなく、地域住民、勤労動員の人びと、学生、朝鮮人労働者、受刑者など多様な人びとが動員されたと記録されています。
短期間で平らな飛行場をつくるため、池や水路は埋められ、田畑は均されました。これは単なる施設建設ではなく、農村の地形と人間関係を断ち切る大規模な土地改造でした。
第47戦隊と「特攻」の位置づけ
成増飛行場には飛行第47戦隊が置かれ、東京上空へ来襲する爆撃機への迎撃を担いました。戦争末期には、B-29への体当たりを想定した防空特別攻撃隊「震天制空隊」も編成されています。これは南方の艦船に向かう一方向の攻撃と同一ではなく、首都防空の極端な戦術として理解する必要があります。
成増飛行場を「英雄的な特攻基地」として語るだけでは、空襲の激化、搭乗員の危険、住民の土地喪失と動員を見落とします。重要なのは、戦争末期の国家が首都を守るため、地域の土地と人びとをどこまで組み込んだかを見ることです。
敗戦、接収、グラントハイツとケーシー線
軍用飛行場から米軍管理地へ
1945年8月の敗戦で陸軍飛行場としての役割は終わりました。しかし、土地がすぐ元の農地や住宅地に戻ったわけではありません。旧飛行場は米軍に接収され、日本の所有者や自治体が自由に利用できない区域となりました。
この転換は、軍事施設が消滅したというより、管理する軍隊が日本陸軍から占領軍へ変わったことを意味します。東京では深刻な住宅不足が続いていましたが、広大な土地は米軍関係者の居住地として再編されました。占領期東京の住宅や街の変化については、当サイトの「米軍写真で見る占領期の東京」も参考になります。
1948年に完成した「アメリカの街」
1948年6月、米軍家族宿舎グラントハイツが完成しました。名称は第18代アメリカ大統領ユリシーズ・S・グラントにちなみます。区域内には家族住宅だけでなく、学校、教会、劇場、PX(米軍の売店)、診療施設、クラブ、プール、スポーツ施設、上下水道などが整えられ、一つの生活圏を形成しました。

赤い屋根と白い壁、芝生のある住宅群は、戦後の日本側から見れば豊かさの象徴に映りました。しかし、その印象だけで語ることはできません。もともと接収された土地であり、金網とゲートで区切られ、日本人が自由に出入りできない空間でした。住宅不足や物資不足に苦しむ周辺社会と、米軍向けに計画された住環境の差は、占領が日常空間に現れた姿でもあります。
ここで問うべきなのは、米軍関係者個人への評価ではなく、同じ地域の中に異なる権利・供給・インフラを持つ生活圏が並んだ制度的な隔たりです。
ケーシー線は占領施設を造る物流インフラだった
グラントハイツ建設を支えたのが、東武東上線上板橋駅から延びた通称ケーシー線です。1946年3月、全長約6.3キロメートルの専用線が完成し、建設資材や石炭、生活物資などを運びました。呼称は建設司令官ケーシーの名に由来し、終点側にはケーシー駅が置かれました。
これは地域住民のための一般旅客鉄道ではありません。米軍施設の建設と運営を支える線路であり、占領空間を成立させる物流の動脈でした。線路は1959年に廃止され、現在は連続した線路遺構として残っているわけではありません。ただし、旧線に沿う道路や公園、北町地区区民館で展示されるレールなどから、その経路を読み取れます。
返還運動から跡地開発計画へ
占領終了後も、基地はすぐ返らなかった
1952年に占領が終わっても、グラントハイツは米軍住宅として使われ続けました。地域にとっては、広大な土地が長期間、学校・公園・住宅などに利用できない状態が続いたことになります。返還は自然に訪れたのではなく、自治体、区議会、住民組織が要求を積み重ね、国や東京都、米側との調整を続けた結果でした。
1964年には練馬区長が東京都知事へ開放を要請し、1969年には区議会にグラントハイツ対策特別委員会、区役所に対策室が置かれました。署名提出や集会も行われ、返還後に何をつくるかという議論も並行して進みます。
1971年の合意と1973年の全面返還は別の出来事
1971年8月19日、日米合同委員会で全面返還が合意されました。合意は「返還する方針を決めた日」であり、土地が実際に返った日ではありません。施設の移転や区域の整理を経て、1973年9月30日に全面返還が完了しました。返還時のグラントハイツ住宅地区は、東京都資料で183万1,963平方メートルとされています。
約28年を要した理由は、米軍住宅としての継続利用、日米間の基地再編、国有地・旧民有地の扱い、返還後の公共利用、住宅建設、自治体間の調整が絡んだからです。返還運動は大きな推進力でしたが、一つの交渉や一人の人物だけで実現したのではありません。
「広い土地を何に使うか」が次の難題になった
返還前の1972年、東京都、練馬区、板橋区、日本住宅公団(現在のUR都市機構)、東京都住宅供給公社による「グラントハイツ跡地開発計画会議」が発足しました。住宅不足への対応だけなら、土地の多くを住宅に振り向ける選択もありました。しかし地域は、大規模公園、防災空間、学校、道路、清掃工場、水道、医療、商業、交通も必要としていました。
1978年の跡地開発計画は、約1万2,000戸の住宅と広大な公園、公共施設を組み合わせる方向を示しました。計画は1984年にも一部変更されます。返還の日に現在の街が完成したのではなく、複数の機関が土地の用途と費用を調整し、十年以上かけて街を組み立てたのです。
光が丘公園とパークタウン――基地跡地を総合都市へ
軍事空間の約3分の1を公共の緑地にする
光が丘公園の構想には、1940年の大緑地計画までさかのぼる前史があります。戦争で飛行場へ変更された土地は、返還後、その総面積のおよそ3分の1が公園として確保されました。都立光が丘公園は1981年12月26日に一部開園し、現在の開園面積は約60.8ヘクタールです。

公園は芝生や樹林、野球場、テニスコート、陸上競技場などを備え、災害時の避難空間としても重要です。グラントハイツ時代のイチョウ並木や移植された樹木など、占領期に由来する要素もあります。一方、旧滑走路がそのまま明確な遺構として残ると断定できる場所は限られます。現在の舗装や直線道路を、根拠なく「滑走路跡」と決めつけない注意が必要です。
1983年、団地入居が本格的に始まる
住宅建設は1981年から進み、1983年にゆりの木通り北・南、公園南などで入居が始まりました。光が丘パークタウンは、公団・公社・都営など複数の住宅主体を含み、1992年の最終入居まで段階的に形成されます。
なお、むつみ台団地は1973年に先行して入居が始まりましたが、旧グラントハイツ跡地開発区域の外側です。「光が丘の団地はすべて返還基地の上に同時につくられた」という説明は正確ではありません。
住宅だけでなく、日常生活を一式そろえる
街の中心には学校、保育施設、図書館、体育館、病院、区民施設、光が丘IMA、清掃工場などが配置されました。歩行者の通路と自動車交通を分け、公園や緑道を住区へつなぐ設計も特徴です。1983年からは清掃工場の排熱を利用した地域熱供給も始まり、大規模住宅地のエネルギーを面的に支えました。
この総合性は、光が丘を単なるベッドタウンではなく、周辺からも人が訪れる地域拠点にしました。戦後住宅政策と団地の基本については、当サイトの「団地とは何か――戦後住宅政策と暮らしの変化」もあわせて読むと、光が丘の位置づけが分かりやすくなります。
高島平・多摩・千里との違い
| 地区 | 成り立ちの特徴 |
|---|---|
| 光が丘 | 23区内の返還米軍住宅跡地を、公園・住宅・公共施設・環境インフラへ一体転換 |
| 高島平 | 水田地帯の区画整理と大規模住宅建設を軸に形成。基地返還地ではない |
| 多摩ニュータウン | 複数市にまたがる丘陵部で、広域的な住宅・交通・都市基盤を長期整備 |
| 千里ニュータウン | 大阪北部の丘陵地で、住区と近隣センターを組み合わせた郊外新都市として整備 |
同じ大規模住宅地でも、出発点は異なります。光が丘の固有性は、既成市街地に囲まれた広大な返還基地を、緑地と公共施設を厚く組み込んだ街へ変えた点です。高島平との詳しい比較には、当サイトの「高島平団地の歴史」が参考になります。
1991年の地下鉄開業と、現在の地域拠点
団地入居から8年後に地下鉄が来た
光が丘の入居が始まった1983年当初、地下鉄はまだありませんでした。住民はバスで周辺の鉄道駅へ向かうなど、地上交通への依存が大きい時期を経験します。街を先につくり、鉄道が後から追いついたのです。
1991年12月10日、都営地下鉄12号線の練馬―光が丘間が開業しました。のちの都営大江戸線です。光が丘駅は始発・終着駅となり、都心方面への通勤・通学、駅前商業の利用、公共施設への来訪を大きく支えるようになりました。

東京都交通局によると、光が丘駅の2024年度一日平均乗車人員は2万8,453人です。現在の駅は、団地住民だけの駅というより、周辺からバスや自転車で集まる広域的な交通拠点になっています。
「現在の路線」と「将来の延伸」は分けて考える
大江戸線を大泉学園町方面へ延ばす計画は長年検討されていますが、これは1991年に開業した既存区間とは別の将来計画です。計画・事業化・着工・開業は同じ意味ではありません。光が丘の歴史を書くときも、確定した過去と、進行中の将来構想を混同しないことが大切です。
人口2万5,969人の街を支える複合拠点
2026年6月現在、光が丘一丁目から七丁目には2万5,969人が暮らします。公園、駅、IMA、医療、図書館、体育館、行政窓口、学校が近接する構造は、返還跡地を総合的に配分した計画の成果です。日用品から文化・医療・防災までを徒歩圏にまとめた点が、現在の地域拠点としての強さにつながっています。
秋の陽公園と平和祈念碑――現地で歴史を読む
秋の陽公園は、消えた農村を復元する装置
秋の陽公園には、約500平方メートルの田んぼ、水路、池、長屋門を思わせる入口があります。1988年の開園以来、地域で米作りが続けられています。これは単なる「和風の景観」ではありません。飛行場建設で失われた水田の風景と農作業の記憶を、現在の街の中で体験できるようにした施設です。

高層住宅の間に田んぼがある風景は、開発に反対する象徴でも、昔への単純な回帰でもありません。土地が農村だった時代を、暮らしの技術とともに次世代へ伝える「記憶の装置」と見ることができます。
平和祈念碑は、土地の用途が変わった理由を語る
都立光が丘公園の平和祈念碑には、成増飛行場、敗戦、グラントハイツ、返還という土地の経過と、平和を守る決意が記されています。芝生やスポーツ施設だけを見れば軍事基地の歴史は見えにくいからこそ、碑文は「なぜこの広さの公園がここにあるのか」を説明する入口になります。
ケーシー線跡と公園の樹木をたどる
- 光が丘公園:返還地の約3分の1を公園化した規模と、グラントハイツ由来のイチョウ並木・移植樹を見る
- 平和祈念碑:飛行場から返還までの経過を碑文で確認する
- 秋の陽公園:飛行場以前の水田・用水・農作業の記憶を読む
- 旧ケーシー駅周辺:現在の秋の陽小学校北側付近で、専用線終点の位置関係を想像する
- 北町地区区民館:展示されるケーシー線のレールを確認する
- 光が丘パークタウン:住棟、緑道、学校、公園、商業の配置から計画都市の考え方を読む
- 石神井公園ふるさと文化館:成増飛行場や戦時下の練馬に関する資料・企画展示を確認する
旧線路や飛行場施設は、すべてが現存するわけではありません。現地では、碑文や公的な解説、古地図・航空写真と現在地を照合し、「そこにあった」ことと「遺構が残る」ことを分けて観察しましょう。
光が丘の成果と課題、そして次の世代へ
「成功した再開発」だけでは捉えられない
光が丘は、接収地を住宅・公園・公共施設へ転換し、地下鉄始発駅を持つ地域拠点を実現しました。大規模な緑地を確保し、学校、医療、商業、文化、防災、環境インフラを組み合わせた点は、返還跡地利用の大きな成果です。
一方、入居開始から40年以上が過ぎ、住棟や設備、公共施設、商業施設の更新が避けられません。同じ時期に入居した世代が年齢を重ねれば、医療・移動・見守り・住み替えの需要も変化します。高齢化を住民個人の問題にせず、住宅の改修、バリアフリー、地域交通、公共空間、世代間交流を含む都市の更新課題として考える必要があります。
練馬区の地区計画は、みどり豊かな住環境を守りながら、公共施設の更新や土地利用の変化に対応する枠組みです。建て替えれば解決するわけでも、古いものをすべて保存すればよいわけでもありません。公園と歩行者空間を守り、災害対応力を高め、多様な世代が住み続けられる仕組みをどうつくるかが次の課題です。
よくある質問
光が丘には以前、何がありましたか
飛行場以前は水田・畑・集落が広がる農村でした。1943年に成増陸軍飛行場となり、敗戦後は米軍家族住宅グラントハイツ、1973年の返還後は公園と住宅を中心とする街へ変わりました。
成増飛行場は現在のどこにありましたか
中心は現在の光が丘公園と光が丘パークタウン周辺です。現在の成増駅前に滑走路があったわけではありません。
成増飛行場はなぜ造られたのですか
本土空襲に備え、東京を守る戦闘機基地を確保するためです。1942年の東京初空襲後、首都防空の強化が急がれました。
グラントハイツとは何ですか
成増飛行場跡に1948年に完成した米軍家族宿舎です。住宅だけでなく学校、教会、劇場、商店、スポーツ施設などを備え、金網とゲートで周辺から区切られていました。
グラントハイツはいつ返還されましたか
1971年に全面返還が合意され、1973年9月30日に返還が完了しました。合意日と実際の返還日は異なります。
光が丘公園は飛行場跡ですか
旧成増飛行場とグラントハイツの跡地の一部です。返還地全体が公園になったのではなく、約3分の1が公園として確保され、残りは住宅や公共施設、道路などに使われました。
ケーシー線とは何ですか
1946年に上板橋駅からグラントハイツまで敷かれた約6.3キロメートルの専用線です。建設資材や物資を運ぶための路線で、一般の通勤鉄道ではありません。
光が丘団地の入居はいつ始まりましたか
旧グラントハイツ跡地の本格的な入居は1983年に始まり、1992年に最終入居を迎えました。むつみ台団地は区域外で1973年に先行しています。
光が丘駅はいつ開業しましたか
1991年12月10日、都営地下鉄12号線の練馬―光が丘間の駅として開業しました。現在は都営大江戸線の始発・終着駅です。
光が丘で歴史を確認できる場所はありますか
光が丘公園の平和祈念碑、秋の陽公園、グラントハイツ由来の並木、旧ケーシー駅周辺、北町地区区民館のレール展示、石神井公園ふるさと文化館などが手がかりになります。
まとめ――一つの街で東京の20世紀を読む
光が丘の歴史は、農村、総力戦、占領、基地返還、住宅政策、都市計画、地下鉄整備という東京の二十世紀を、一つの土地でたどる物語です。水田から飛行場へ、飛行場から米軍住宅へ、米軍住宅から公園と団地へという変化は、どれも自然発生したものではありません。国家、軍、自治体、住宅機関、地域住民が、それぞれ異なる立場で土地の使い方を決め、交渉し、負担してきました。
現在の芝生や高層住宅は、過去を覆い隠すだけの風景ではありません。秋の陽公園の田んぼ、平和祈念碑、ケーシー線の痕跡、住棟と緑道の配置を読み解けば、複数の時代が今の街の中に残っていることが分かります。光が丘を歩くことは、東京が戦争と占領を経て、どのように公共の街をつくり直したかを考えることでもあるのです。同じ旧軍用地由来でも、都営住宅として長期建替えを進める桐ケ丘団地とは、返還過程と都市計画の組み立てが異なります。

