証券会社とは何か|野村・大和・日興・山一からたどる日本の証券業界史

2018年の東京証券取引所メインルームと円形の電光掲示板 日本史・社会制度
東京証券取引所のメインルーム(2018年)。撮影:Kakidai/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。

証券会社とは何か。ひと言でいえば、株式や債券の売買を取り次ぐだけでなく、企業が市場から資金を集めるのを支え、投資家へ情報と取引の経路を提供する会社です。取引所の立会場たちあいじょうが消え、個人がスマートフォンから注文できる現在も、その間には審査、本人確認、注文処理、決済、資産管理という仕事が残っています。

日本の証券業界は東京だけで生まれたわけではありません。明治の東京・兜町かぶとちょうと大阪・北浜きたはまに市場が形成され、その周辺から野村、大和、日興、山一へつながる証券業者が育ちました。本記事では、会社の仕事、四大証券の成立、1965年の証券不況、バブル期の損失補塡、山一證券の自主廃業、日本版金融ビッグバン、ネット証券、顧客資産保護までを一続きの歴史としてたどります。

まず30秒でわかる証券会社

証券会社は、株式や債券などの有価証券ゆうかしょうけんの売買を仲介し、企業や国・自治体の資金調達を支え、会社自身の資金による売買やM&Aなどの金融助言も行う事業者です。現在の法制度では、多くの証券会社が金融商品取引法に基づく「金融商品取引業者」として登録されています。「証券会社」は今も広く使われる一般名称ですが、法令上の登録区分や実際に営む業務は会社ごとに異なります。

主体主な役割つなぐ相手典型的な収益
証券会社売買執行、販売、引受け、助言投資家と市場、発行体と投資家手数料、売買益、引受・助言報酬など
証券取引所売買市場とルール、システムを運営取引参加者同士取引・上場関連料金など
銀行預金、決済、融資預金者と借り手貸出金利と調達金利の差、手数料など
資産運用会社投資信託や年金資産などの運用判断資金の委託者と投資対象運用報酬など

証券取引所は、市場のルールと売買システムを提供します。証券会社は顧客口座を開き、注文を受け、市場へ接続し、成立した取引を決済へつなぎます。銀行が預金を集めて企業へ融資する「間接金融」を中心とするのに対し、証券会社は株式や債券を通じて投資家から発行体へ資金が流れる「直接金融」を支えます。資産運用会社は何へ投資するかを判断し、証券会社は売買執行や販売、引受けを担うのが基本です。ただし、金融グループの中に銀行、証券、運用会社が併存することはあります。

証券会社はどのように仕事をし、利益を得るのか

委託売買と自己売買

最も身近なのがブローカー業務です。証券会社は顧客から株式などの注文を受け、取引所や私設取引システムへ取り次ぎます。かつては委託手数料が大きな収益源でした。現在は一部の取引で「手数料無料」を掲げるサービスもありますが、すべての業務が無料になるわけではありません。信用取引に伴う金利、外国為替、投資信託関連の報酬、貸株、その他のサービスなど、収益源は複数あります。

ディーラー業務は、証券会社が会社自身の資金で証券を売買する仕事です。顧客の資産を勝手に使うことではありません。売りたい人と買いたい人の注文がいつも同時に同量あるとは限らないため、自己売買は市場の流動性を補うことがあります。一方、価格変動による損失を会社自身が負うため、ポジション管理とリスク管理が欠かせません。

引受け、募集・売出し、投資銀行業務

引受けひきうけは、企業や国・自治体などが発行する株式・債券を証券会社が引き受け、投資家へ販売する仕事です。新規株式公開(IPO)や公募増資では、発行体の事業や財務を調べ、開示資料を整え、需要を探り、価格条件を決め、販売するまでを支えます。単なる販売代理ではなく、審査、価格形成、販売責任を伴います。

「募集」は新たに発行される証券を投資家へ取得してもらう手続きで、「売出し」は既存株主などが保有する証券を広く投資家へ売る手続きです。また、総合証券会社の投資銀行部門は、M&A、事業再編、株式・債券による資金調達などについて企業へ助言します。「投資銀行」は独立した会社だけを指すのではなく、証券会社内の部門や機能を指すこともあります。

営業だけではない専門職

証券会社には、企業・業界・経済を分析する証券アナリスト、市場全体を分析するストラテジスト、機関投資家の注文を扱うセールスやトレーダー、引受審査、商品開発、法務、内部管理、資産管理、サイバーセキュリティ、取引システムの担当者がいます。日本証券業協会の業務紹介も、リテール、リサーチ、ブローカー、ディーラー、アンダーライティング、M&A、コンプライアンス、システムなどを幅広く挙げています。

すべての証券会社が同じ機能を同じ規模で持つわけではありません。個人・法人・機関投資家を広く扱う総合証券、オンライン取引を中心とするネット証券、特定地域の顧客基盤を持つ地域証券、法人や機関投資家向けに特化する会社では、人員構成も収益構造も異なります。

証券会社がなければ、企業と投資家は出会いにくい

企業が工場、研究開発、店舗、デジタル設備などへ投資するには長期の資金が必要です。一方、家計や年金、運用会社などは、手元の資金を将来へ向けて運用する先を探します。株式や債券は、その二つを結ぶ手段です。しかし発行体と投資家が個別に相手を探し、条件を交渉し、情報を調べ、契約と決済を完了させるのは簡単ではありません。

株式や債券が新たに発行され、資金が発行体へ入る場を「発行市場」といいます。発行後の証券が投資家同士で売買される場が「流通市場」です。証券会社は発行市場で引受け、審査、価格決定、販売、助言を担い、流通市場で売買仲介、自己売買、情報提供、決済への接続を担います。投資家があとで売却できる流通市場があるからこそ、発行市場で新しい証券を買いやすくなるという循環があります。

取引所の電子システムだけでは、本人確認、顧客ごとの口座管理、発行体の審査、販売、適合性の確認、決済、顧客資産管理まで自動的に完結しません。証券会社は市場を使いやすくする仲介者ですが、同時に利益相反を抱え得ます。売り手である発行体と買い手である投資家の間に立ち、自社の商品や収益も考えるためです。この利便性と危うさの両方が、後に見る規制、不祥事、利用者保護の歴史につながります。

明治の取引所と証券業者の誕生

1878(明治11)年、東京株式取引所と大阪株式取引所が開設されました。明治政府は公債を発行し、株式会社制度を整えつつありました。公債や株式を継続的に売買し、価格をつける場が必要になったのです。当初の制度や仲買人を、現在の金融商品取引法下の証券会社とそのまま同一視はできません。それでも、取引所周辺に注文、資金、情報を仲介する業者が集まり、後の証券業界の土台になりました。

東京では日本橋の兜町かぶとちょう、大阪では北浜きたはまが市場の拠点になります。兜町には東京株式取引所だけでなく銀行、仲買人、情報が集まりました。大阪は商業都市として手形、公債、米穀などの取引蓄積を持ち、独自の金融文化を育てました。後に野村と大和へつながる系譜が大阪から伸びたことは、日本の証券史を東京だけの物語にしないために重要です。

渋沢栄一は東京株式取引所と株式会社制度の形成を考えるうえで重要な人物ですが、証券会社の創業者とみなすのは不正確です。彼の役割は、多数の出資者から資金を集める会社制度や市場を広げることにありました。明治の金融街と株式会社の関係は、渋沢栄一と日本橋・兜町の近代都市史でも現地の街並みとともにたどれます。

大阪から伸びた野村と大和

野村證券――調査を武器にした大阪の証券会社

野村の証券事業は、大阪の野村商店と大阪野村銀行の証券部を母体とします。1925(大正14)年12月25日、大阪野村銀行証券部を分離して野村證券株式会社が設立され、1926年1月に公社債を中心とする会社として営業を始めました。初代社長は片岡音吾です。創業時から情報収集と調査を重視したことは、後に「調査の野村」と呼ばれる企業文化につながりました。

1938年に株式業務の認可を受け、取扱領域を広げます。戦後の1946年には本店を東京へ移し、1949年には再開した証券取引所の正会員になりました。これは大阪発の会社が東京へ移ったという所在地の変更だけではありません。戦後再編された全国市場で、債券、株式、引受け、個人・法人営業を組み合わせる総合証券へ成長する転換でした。1965年には調査部を分離して野村総合研究所を設立し、調査機能を独立した事業へ展開しました。

東京都中央区の日本橋野村ビルと野村證券本社
日本橋野村ビルと野村證券本社(2006年)。撮影:Lombroso/Wikimedia Commons/CC BY 2.5。

この写真は2006年の日本橋野村ビルで、1925年の創業時、1930年の建物完成時、1946年の本店移転時を撮影したものではありません。また、現在の野村グループは持株会社、証券会社、資産運用などを含む構造であり、創業時の野村證券と事業構造がそのまま同じではありません。

大和証券――藤本ビルブローカーから総合証券へ

大和の起点は、1902(明治35)年に大阪で開業した藤本ビルブローカーです。「ビル」は手形を意味し、株式だけでなく手形や債券を扱う大阪金融市場の系譜を示します。会社は藤本ビルブローカー証券、藤本證券へと名称を変え、1943年に日本信託銀行と合併して大和證券が成立しました。戦時下の統合は、自由な企業成長だけでなく、国家統制と業界再編の中で起きたものです。

戦後は1948年に証券業者として登録し、1949年に東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ加入しました。大和の歩みは野村の模倣ではありません。手形・債券・証券を横断してきた藤本系の事業と信託銀行の機能が、戦時再編と戦後市場の再開を経て総合証券へつながった歴史です。歴史上の会社名には「大和證券」、現在の会社名には「大和証券」を用いる必要があります。

日興と山一――四大証券がそろうまで

日興證券の源流

日興證券の一つの源流は、遠山元一とおやまげんいちが1918(大正7)年に創業した川島屋商店です。川島屋は小規模な商店から出発し、社債や株式などへ取扱いを広げました。一方、1920年には旧日興證券が設立されています。戦時期の企業統合を経て、1944年に川島屋證券と旧日興證券が合併し、日興證券となりました。

現在のSMBC日興証券は、その後の合併、持株会社化、シティグループとの関係、三井住友フィナンシャルグループによる事業取得などを経た会社です。歴史上の旧日興證券と現在の会社を、組織も事業構造も変わらない一社として描くべきではありません。

山一證券は破綻だけの会社ではない

山一の源流は、小池国三こいけくにぞうが1897(明治30)年に東京で開いた小池国三商店にさかのぼります。その事業の再編から山一合資会社が生まれ、1926年に山一證券へ改組されました。さらに1943年、戦時統制下で小池系と山一系が統合され、新たな山一證券が成立します。

山一は1997年の自主廃業時に突然現れた会社ではありません。戦前から公社債や株式を扱い、戦後には引受け、法人・個人取引、投資信託販売などで大きな地位を占めました。長く市場を支えた大手だったからこそ、後の経営危機が顧客、社員、金融市場へ大きな衝撃を与えました。ただし、その長い歴史を理由に経営責任を美化することも、1997年だけから会社全体を評価することも適切ではありません。

1930年代に掲載された山一證券の広告
1930年代の山一證券広告。制作者不詳/Wikimedia Commons/Public Domain。

この画像は1930年代の企業広告であり、1997年の自主廃業時の広告や告知ではありません。原画像の解像度には限界があるため、細かな文言を推測して読み解くことは避けます。

なぜ「四大証券」と呼ばれたのか

戦後、野村、大和、日興、山一は、支店網、個人営業、法人取引、株式・債券の引受け、投資信託販売などで大きな存在になり、「四大証券」と呼ばれました。これは歴史上の呼称であり、現在の証券会社を単純に規模順で四社へ並べた名称ではありません。四社は成立経路も企業文化も強みも異なり、同じ戦略を採った一枚岩ではありませんでした。

戦争と戦後改革で証券業界は作り直された

1943(昭和18)年、全国11の株式取引所は日本証券取引所へ統合されました。戦時下では資金と物資が国家統制へ組み込まれ、取引所や証券会社は自由市場の仲介者だけではいられませんでした。1945年8月には売買立会が停止され、日本証券取引所は1947年に解散します。

市場は戦前の姿へそのまま戻ったわけではありません。占領下で財閥解体と保有株式の処分が進み、新しい証券取引法と取引所制度が整えられました。1949年、東京、大阪、名古屋で取引所が再開します。証券会社は、財閥関係者などから放出された株式を広く販売する「証券民主化運動」に関わり、株式所有の裾野を広げました。ただし、戦後の国民すべてが株主になったわけではなく、制度の理念と実際の普及を区別する必要があります。

財閥解体は企業集団を一夜で消した出来事ではなく、持株会社、家族支配、株式所有を組み替える長い過程でした。証券市場との関係を含む全体像は、財閥と戦後企業グループの違いで詳しく解説しています。

高度成長と四大証券の時代

戦後復興から高度成長へ進むと、企業は設備投資のために多額の資金を必要としました。日本の企業金融は銀行融資の比重が大きかった一方、株式や社債の発行、投資信託の拡大も証券会社の成長を支えました。四大証券は全国へ支店網を広げ、個人投資家の注文を集め、投資信託を販売し、企業の引受けを競いました。

インターネットのない時代、支店と営業担当者は注文の受付窓口であると同時に、相場情報や企業情報を顧客へ届ける経路でした。対面営業は、市場参加の入口を広げる一方、販売目標が強くなれば顧客に合わない商品や短期売買を勧める危険もあります。証券会社が「情報を持つ専門家」として信頼されるほど、その情報格差をどう扱うかが問われました。

高度成長期を「株価が上がり続け、証券会社も安定していた時代」と単純化はできません。1960年代前半には株式市場が低迷し、投資信託の解約や証券会社の在庫負担が経営を圧迫します。成長のために広げた支店、人員、販売網が、不況期には固定費と経営リスクへ変わりました。

1965年の証券不況は何を変えたのか

1960年代前半の証券不況では、株式市場の低迷、投資信託の不振、証券会社が抱えた証券在庫、拡大した営業網の費用が重なりました。特に山一證券は1965年に深刻な経営危機へ陥ります。ここで重要なのは、山一が1965年に倒産したわけではないことです。大蔵省、日本銀行、主要銀行などの支援の下で、銀行管理による再建が進められました。

危機は一社の放漫経営だけでは説明できません。証券会社が投資信託販売や市場上昇へ依存しながら店舗と人員を増やしたこと、銀行中心の企業金融の中で証券会社が銀行との関係に依存したこと、業界全体の競争と監督の仕組みが経営の安全性に十分対応していなかったことが重なりました。日本証券経済研究所の研究は、銀行管理下の再建が経営を立て直した一方、組織や雇用慣行を含む問題の一部を後へ残したと論じています。

制度面では証券取引法の改正と監督強化が進み、1968年4月1日に証券会社は登録制から免許制へ全面移行しました。自由に参入させるより、財務基盤、業務運営、経営者の適格性を行政が事前に審査する方向へ進んだのです。これは投資者保護を強める一方、既存会社を中心とする業界構造を固定し、後の自由化で見直されることになります。

バブル時代――熱狂の裏で失われた公平感

1980年代には株式市場が拡大し、企業の資金調達も国際化しました。証券会社は個人営業だけでなく、法人取引、株式・債券の大型引受け、新しい金融商品、海外業務、取引システムへの投資を広げます。バブルだけが成長の原因ではありませんが、株価上昇と大量の取引は営業競争を過熱させました。

バブル崩壊後の1991年、大手証券会社などによる損失補塡そんしつほてんが大きな問題になりました。損失補塡とは、取引で損失を受けた特定顧客へ証券会社が金銭などを提供し、損失を穴埋めする行為です。相場下落の損失を一部の大口顧客だけが埋めてもらえるなら、一般投資家と同じ条件で市場に参加しているとはいえません。

問題は証券会社の費用負担だけではありません。損失を負わない顧客は過大なリスクを取りやすくなり、価格形成がゆがみます。証券会社が顧客間で中立・公正に行動するという信頼も失われます。日本証券業協会は損失補塡を法令用語として説明し、金融庁も市場の透明性、公平性、証券会社の中立性への信頼を損なったと整理しています。これらの不祥事を受け、1992年には証券取引等監視委員会が発足しました。

すべての証券会社や社員が同じ行為をしたわけではありません。しかし、業界の中核企業で問題が起きたため、市場全体への信頼が揺らぎました。バブル形成と崩壊のより広い背景は、日本のバブル経済と戦後型システムの関係で整理しています。

山一證券はなぜ消えたのか

1997(平成9)年11月24日、山一證券の取締役会は営業を休止し、会社の解散へ向けた処理を進める方針を決定しました。これは「破産宣告の日」ではありません。当時は「自主廃業」という言葉が広く使われましたが、営業休止、解散、破産は法的にも時系列的にも異なる手続きです。東京地方裁判所が山一へ破産宣告をしたのは1999年6月2日でした。

直接の引き金は、巨額の簿外債務ぼがいさいむが疑われ、市場の信用を失ったことです。損失を海外関連会社などへ移し、帳簿上見えにくくする処理が長く続いたことで、正確な財務状態を外部から判断できなくなりました。資金調達が難しくなれば、証券会社は顧客との決済や市場取引を続けられません。信用が事業そのものを支える金融会社では、情報隠蔽は資金繰り危機へ直結します。

ただし、原因を簿外債務だけに縮めると、なぜ問題が長く続いたかを見落とします。手数料と営業量へ依存した収益構造、バブル期の顧客対応、損失を認識して処理するガバナンスの弱さ、1965年の再建後も残った組織慣行、市場環境の悪化、危機発覚後の対応が複合しました。経営者の記者会見だけで説明できる事件ではありません。

日本銀行は、顧客資産の返還、決済、海外拠点の撤退などを円滑に進めるため、富士銀行を経由して必要最小限の資金を供給する措置を取りました。これは山一の株主や経営者を救済するためではなく、市場と顧客への連鎖的な混乱を抑えるための対応です。1965年には銀行管理下で再建された山一が、1997年には存続できなかった違いには、行政による護送船団的な救済を続けにくくなったこと、市場規律と情報開示への要求が強まったこと、金融自由化が進んでいたことが表れています。

日本版金融ビッグバンとネット証券

1996年11月、政府は日本版金融ビッグバンを打ち出しました。掲げた原則は「Free, Fair, Global」、すなわち市場原理が働く自由な市場、透明で信頼できる市場、国際的で時代を先取りする市場です。山一の自主廃業は改革の必要性を印象づけましたが、改革構想そのものは山一事件だけから生まれたのではありません。金融自由化の遅れ、国際競争、縦割り規制、商品・業務・手数料の制約など、複数の課題への対応でした。

改革では、証券会社の免許制から登録制への移行、業務・商品の自由化、取引所集中義務の撤廃、委託手数料の自由化などが段階的に進みます。1998年12月には登録制へ移り、取引所集中義務が撤廃されました。1999年10月1日には株式委託手数料が完全自由化され、会社が料金体系を競えるようになります。

この時期、インターネットを前提にする証券会社が成長しました。マネックスは1999年に設立され、オンライン証券として事業を開始します。SBI証券へつながるイー・トレード証券も1999年10月にインターネット取引を始めました。店舗と担当者を中心に注文を受け、固定的な手数料を得るモデルから、オンライン注文、低コスト運営、画面上の情報提供を組み合わせるモデルへの転換です。

ネット証券が対面証券をすべて置き換えたわけではありません。個人の定型的な売買はオンライン化しやすい一方、富裕層の複雑な資産承継、企業の大型資金調達、IPO、M&A、機関投資家との取引では、人の判断と交渉が大きな役割を持ちます。大手対面証券は、店舗網だけで競う会社から、法人金融、ウェルスマネジメント、国際業務などを組み合わせる会社へ役割を変えていきました。

立会場が消えても証券会社が必要な理由

東京証券取引所の株券売買立会場たちあいじょうは、1999年4月30日に閉場しました。JPXは閉場の背景として、売買執行の迅速化、コスト削減、市場効率化を挙げています。翌2000年5月9日には東証Arrowsが開設されました。人が場内で注文を取り次ぐ空間は、電子システムで市場情報を表示し、見学や情報発信も担う空間へ変わりました。

立会場の消滅は、取引所や証券会社の消滅ではありません。投資家の注文は、まず証券会社の口座とシステムで本人・残高・取引条件などを確認され、取引所などの市場へ送られます。約定後には代金と証券を受け渡す決済が必要です。証券会社のシステムと取引所のシステムは別々の役割を持ち、接続されて初めて取引が成立します。

電子化しても、発行体の審査、価格条件の検討、顧客確認、マネーロンダリング対策、リスク管理、顧客資産の管理、障害時の対応、調査と助言は残ります。高速化と低コスト化の一方で、システム障害、サイバー攻撃、誤発注、アルゴリズム取引による急激な変動など、新しい課題も生まれました。市場が無人に見えるほど、背後の人員、ルール、冗長化されたシステムの重要性は増しています。

現代の証券会社は「株を売る店」ではない

現代の証券会社の業務は、顧客と機能によって大きく分けられます。

  1. 個人向けの株式・債券・投資信託などの売買と資産形成支援
  2. 富裕層向けのウェルスマネジメント、相続・事業承継を含む助言
  3. 企業による株式・債券発行の引受けと販売
  4. IPO、M&A、事業再編、企業価値評価
  5. 機関投資家向けの売買執行、リサーチ、市場情報
  6. 取引システム、決済、リスク管理、法令遵守、内部監査

総合証券、ネット証券、地域証券、外国証券、ホールセール特化会社では、対象顧客と収益源が違います。「手数料無料」と表示される取引があっても、会社全体が無収益になるわけではありません。信用取引に関する金利、外貨取引、投資信託関連収益、証券貸借、引受け、M&A助言、機関投資家向け取引などが組み合わさります。どの収益が中心かは会社と時期で変わるため、一律に断定はできません。

証券会社を利用する個人の目には、口座画面と注文ボタンだけが見えます。しかし法人側から見ると、上場準備、資本政策、社債発行、株主との対話、買収・売却などを支える専門家集団です。市場が発達するほど、単純な売買の手数料は低下しやすくなりますが、審査、複雑な助言、リスクの引受け、責任ある執行の価値は消えません。

証券会社が破綻したら、預けた資産はどうなるか

証券会社は、顧客から預かった金銭や有価証券を会社自身の資産と分ける分別管理ぶんべつかんりを行うことが義務づけられています。したがって、証券会社が破綻したからといって、顧客名義で保有され、適切に分別管理されている株式が直ちに会社の借金返済へ使われ、ゼロになるわけではありません。原則は顧客へ返還することです。

ただし、分別管理に違反があり、破綻した会社から顧客資産を十分返還できない場合があります。その安全網として日本投資者保護基金があり、補償対象となる一般顧客について、一人当たり上限1,000万円まで補償します。基金は1998年12月1日に設立されました。山一などの破綻を経験し、登録制による競争を進める一方で、退出する会社が出ても顧客を守れる仕組みを整える必要があったためです。

この制度は株価下落、投資判断の失敗、投資信託の元本割れを補償するものではありません。証券会社が預かった資産を返せない場合の制度であり、預金保険制度とも同じではありません。投資対象そのものの値下がりリスクは投資家が負います。「証券会社の破綻」と「保有商品の価格下落」を分けて理解することが重要です。

証券アナリストとCFAは証券会社のどこで働くか

証券アナリストは、企業の決算、事業、業界、経済、株式・債券の価値やリスクを調べます。証券会社ではリサーチ部門や機関投資家向け業務に所属し、レポートや説明を通じて投資判断を支えることがあります。ほかにも資産運用会社、銀行、保険会社、年金、コンサルティング会社などで働きます。

CFAは投資分析と資産運用分野の国際的な専門資格・称号ですが、証券会社の全職種に必須ではありません。また、金融商品の販売・勧誘を行う外務員の資格・登録とも別物です。日本証券業協会によれば、外務員として職務を行うには外務員資格試験に合格し、所属会社を通じて登録を受ける必要があります。CFAや日本のCMAは分析・運用の専門性を示す資格であり、法令上の販売登録を自動的に与えません。制度の成立と違いは、CFAと証券アナリスト資格の歴史で詳しく解説しています。

よくある質問

証券会社と証券取引所は何が違いますか?

証券取引所は売買市場のルールとシステムを運営します。証券会社は顧客口座を管理し、注文を取引所などへつなぎ、決済や資産管理を担います。

証券会社と銀行は何が違いますか?

銀行は預金と融資を中心に資金を仲介します。証券会社は株式や債券の発行・売買を通じ、市場から資金を調達する直接金融を支えます。金融グループ内に両方がある場合も、法的な会社と役割は別です。

証券会社はどこから利益を得ていますか?

売買手数料だけでなく、自己売買、信用取引関連の金利、投資信託などの販売・保有に関する収益、株式・債券の引受け、M&A助言、機関投資家向け取引などがあります。会社ごとに構成は異なります。

四大証券とはどの会社ですか?

歴史上は野村證券、大和證券、日興證券、山一證券を指します。戦後に営業網、引受け、個人・法人取引で大きな存在になった四社の呼称で、現在の業界順位を示す言葉ではありません。

山一證券は1997年に倒産したのですか?

1997年11月24日に決めたのは、営業を休止し、解散へ向けた処理を進める方針です。一般に自主廃業と呼ばれました。東京地方裁判所による破産宣告は1999年6月2日であり、同じ日ではありません。

証券会社が破綻すると、預けた株式や現金は失われますか?

適切に分別管理されていれば、顧客資産は証券会社自身の資産と区別され、原則として返還されます。返還できない場合には日本投資者保護基金の補償制度がありますが、一般顧客一人当たり上限1,000万円です。相場下落による損失は補償されません。

ネット証券も証券会社ですか?

はい。店舗や対面担当者よりオンライン取引を中心にする証券会社です。顧客口座、本人確認、注文処理、資産管理、法令遵守などの基本的責任は、ネット上でも必要です。

証券会社で働くにはCFAが必要ですか?

すべての職種に必要ではありません。リサーチや資産運用関連では役立つ場合がありますが、販売・勧誘には外務員資格と登録が関係します。採用や配属では職種に応じた知識、経験、法令上の資格が別々に問われます。

まとめ――証券会社は「信頼を仲介する会社」である

証券会社は、売買注文を市場へ送るだけの会社ではありません。企業の資金調達を審査し、投資家を探し、価格形成を助け、情報を分析し、取引を決済し、顧客資産を管理します。言い換えれば、企業と投資家の間で資金だけでなく「この手続きと情報を信頼できる」という条件を仲介する会社です。

野村、大和、日興、山一の歴史は、日本の市場が明治に生まれ、戦時統制と戦後改革を経て、高度成長で拡大し、1965年の危機、バブル期の不祥事、1997年の大手破綻を通じて規制と競争を作り直してきた歴史でもあります。立会場が消え、注文が画面上の数字になっても、審査、責任、資産管理、信頼の機能は消えていません。

現在の兜町かぶとちょう茅場町かやばちょうを歩くと、取引所、旧銀行・証券会社の跡、再開発された建物が近接しています。金融史を街の変化として見るなら、日本橋・茅場町・人形町を巡る街歩きや、日本橋・兜町・八重洲の街並みを巡る記事も参考になります。

参考文献・公式資料

  1. 日本取引所グループ「日本取引所グループ発足以前」
  2. 日本取引所グループ「立会場の歴史」
  3. 日本証券業協会「証券会社の仕事って?」
  4. 日本証券業協会「証券会社等の分別管理について」
  5. 日本証券業協会「損失補塡」
  6. 金融庁・旧大蔵省「日本版ビッグバンとは」
  7. 金融庁「市場行政をめぐる講演」
  8. 日本銀行「山一證券への資金融通のための富士銀行に対する貸出措置に関する件」
  9. 日本銀行「山一證券について」
  10. 日本投資者保護基金「基金について」
  11. 野村ホールディングス「沿革」
  12. 大和証券グループ本社「大和証券グループのあゆみ」
  13. SMBC日興証券「沿革」
  14. 渋沢社史データベース
  15. 日本証券経済研究所「証券会社の経営破綻と間接金融・長期雇用システム」
  16. 日本証券経済研究所「山一證券の経営破綻と銀行管理下の再建」
  17. マネックスグループ「沿革」
  18. SBIグループ「沿革」
  19. 日本証券業協会「外務員」
  20. CFA Institute「CFA Program」