渋谷駅前のスクランブル交差点から、道玄坂を上ります。
大型ビジョン、飲食店、カラオケ店の明かりを抜け、百軒店の門をくぐると、街の幅が急に縮まります。坂は緩やかに曲がり、短い階段が別の路地へ落ち、ホテル、ライブハウス、映画館、飲食店、マンションが一つの街区に入り込みます。
なぜ、渋谷のラブホテルはこの一角に集まったのでしょうか。
よくある答えは、「円山町は昔、花街だったから」です。
確かに、明治・大正期の円山町には芸妓、料理屋、待合、置屋が集まりました。しかし、花街がそのままホテル街へ変わった、と一本の線で結ぶことはできません。
関東大震災後に開かれた百軒店は、円山町ではなく主に道玄坂二丁目にあります。
戦後の連れ込み旅館は、最初から円山町だけに集中していたわけではありません。
渋谷駅周辺の複数の坂に分散していた宿が衰退し、1970~80年代に道玄坂二丁目と円山町へ集中する動きが進みました。
そこには、坂、細い路地、駅からの距離、既存の旅館と飲食店、映画・音楽・夜間娯楽、土地の区画、規制への対応が重なっています。
この記事では、花街、百軒店、旅館、連れ込み宿、ラブホテル街を区別しながら、「なぜこの場所に集中したのか」を地図と都市史からたどります。
この記事で分かること
- 円山町と百軒店の場所の違い
- 円山町が花街として発展した理由
- 百軒店が関東大震災後につくられた経緯
- 戦後の連れ込み旅館とラブホテルの違い
- ホテルが1970~80年代に円山町・道玄坂側へ集中した理由
- 坂、階段、細街路が街の利用に与えた影響
- 円山町がホテルだけでなく映画・音楽・クラブの街でもある理由
- 歴史散歩で見るべき場所と守るべきマナー
まず結論―花街からホテル街への一本道ではない
円山町がラブホテル街になった理由は、一つではありません。
少なくとも、次の六つの条件が重なりました。
- 明治・大正期から、料理屋、待合、置屋、旅館など夜間の客を迎える営業が集まっていた
- 関東大震災後、隣接する道玄坂二丁目に百軒店が開発され、映画、飲食、娯楽の客が集まった
- 戦後、渋谷駅周辺の複数地域に旅館や連れ込み宿が生まれた
- 1970~80年代、他の小規模な宿泊集積が衰退する一方、円山町・道玄坂二丁目への集中が進んだ
- 渋谷駅から近いが、大通りの裏側に入り、坂と細街路で視線が切り替わる立地だった
- 飲食、映画、音楽、クラブなど、夜間に人を呼ぶ別の産業と宿泊需要が近接していた
花街は重要な前史です。しかし、ホテル街の直接の起源をすべて花街へ還元することはできません。
戦後の宿泊業と短時間利用の需要、ホテル建築の変化、周辺地区からの集中という別の歴史が加わっています。
円山町と百軒店は同じ場所ではない
現在、百軒店と円山町は一続きの繁華街に見えます。
しかし、行政上の町域は同じではありません。
百軒店商店街は主に道玄坂二丁目にあります。円山町はその西側から南西側に隣接し、さらに神泉町へ続きます。渋谷区の町会一覧でも、渋谷百軒店商店会町会と円山町会は別に記載されています。
一方、実際に歩く人にとって、境界は分かりにくいものです。
百軒店の門を入って坂を進む。
横道へ曲がる。
短い階段を下りる。
すると、道玄坂二丁目から円山町へ移っています。
ホテル、飲食店、ライブハウス、映画館は町境をまたいで並ぶため、「円山町のラブホテル街」という呼び方が、道玄坂二丁目側を含む広い地域の通称として使われることがあります。
本記事では、歴史的な地域名としての円山町と、現在のホテル集積の範囲を分けて説明します。
明治・大正期、円山町は花街として栄えた
花街とは、芸妓、料理屋、待合茶屋、置屋などが集まる遊興と芸能の地域です。
円山町の花街は、吉原のような幕府公認遊郭として江戸時代から存在したものではありません。明治以後に発展した近代の花街でした。
神泉には、共同浴場と料理店を兼ねた弘法湯があり、隣接地に料亭神泉館がありました。湯治、料理、宴席、人の往来を背景に、周辺へ料理屋、待合、置屋が増えたと伝えられています。
大正期には、円山町周辺が三業地として営業を認められました。渋谷文化プロジェクトが『新修渋谷区史』を参照して紹介する数字では、1921年の最盛期に料理屋36軒、待合茶屋96軒、芸妓置屋137軒、芸妓約400人を数えたとされます。
この数字は、現在のホテル街の規模を示すものではありません。
また、花街の全施設が後にホテルへ変わったことを意味しません。
花街を支えたのは、渋谷駅へ近づく交通、道玄坂を上る客、宴席を提供する料理屋、芸妓を呼ぶ仕組み、隣接する神泉の施設でした。
芸妓は、踊り、三味線、唄、会話などで宴席を支える職業です。
花街と遊郭には近接や重複が見られる場合がありますが、芸妓の芸能・接客と、娼妓を置く遊郭の制度を同一視してはいけません。
関東大震災後、百軒店が渋谷の娯楽中心をつくった
1923年の関東大震災は、東京東部の商業地や娯楽街に大きな被害を与えました。
翌1924年、箱根土地の堤康次郎は、旧中川伯爵邸の土地を分譲し、被災した下町の商店を誘致して百軒店を開発しました。百軒店商店街の公式史では、117店舗を誘致したと説明されています。

百軒店には、飲食店だけでなく、映画館、劇場、寄席、喫茶店などが集まりました。鉄道路線の発達によって渋谷駅がターミナル化すると、百軒店は渋谷の代表的な盛り場へ成長します。
ここで大切なのは、百軒店が円山花街の中に造られたのではなく、隣接する別の商業・娯楽開発だったことです。
花街の宴席。
百軒店の映画、劇場、飲食。
渋谷駅から道玄坂を上る人の流れ。
異なる目的で生まれた二つの街が近接したことで、円山町周辺は一日を通じて外来者を受け入れる大きな遊興地域になりました。
百軒店を開発した堤康次郎と、渋谷を拠点にした東急の都市開発については、西武と東急が渋谷の商業地をどう変えたかもあわせて読むと、企業と街の関係が見えやすくなります。
1945年、花街と百軒店は焼けた
1945年の空襲で、円山町の花柳界と百軒店の多くが焼失しました。
建物が失われても、渋谷駅、道玄坂、娯楽地としての知名度、人の流れまで消えたわけではありません。
戦後の渋谷駅周辺には闇市や露店が生まれ、飲食、映画、ダンス、キャバレーなど新しい夜間産業が広がりました。円山町周辺でも、料亭、旅館、飲食店、ダンスホールなどが再出発します。
しかし、戦前と同じ花街が完全に復元されたわけではありません。
芸妓を呼ぶ宴席文化は、企業接待、住宅事情、娯楽の多様化、世代交代などの影響を受けます。渋谷区史年表は、1962年に「円山花街が衰退を示す」と記録しています。
花街の衰退とホテル街の形成には時間差があります。
戦災直後に一斉にホテルへ変わったのではなく、戦後の旅館・飲食・娯楽の再編を経て、数十年かけて土地利用が変わりました。
渋谷を含む駅前商業地の再編については、戦後東京の駅前闇市と商業地の再出発でも詳しく解説しています。
戦後の連れ込み旅館は円山町だけにあったのではない
連れ込み旅館とは、戦後にカップルの短時間利用を受け入れた旅館・貸間を指す歴史的な通称です。
現在の「ラブホテル」という呼称と建築形式が一般化する前、待合、貸間、旅館、連れ込み宿など、男女が個室を利用する施設には複数の名称がありました。
ラブホテル史を研究した金益見は、住宅事情、性意識、宿泊業、建築設備の変化を通じて、連れ込み宿からラブホテルへ至る過程を整理しています。
円山町の説明では、花街の料亭や妾宅が連れ込み旅館へ転用された、という逸話が繰り返されます。
個別の建物で、そのような転用があった可能性はあります。
しかし、円山町の全体が同じ経路で変化したと示す包括的な一次資料は確認できません。
歴史地理を研究する三橋順子が、1953~1957年の広告などをもとに整理した調査では、当時の渋谷地域で32軒の連れ込み旅館が確認され、八つほどの集積に分かれていたとされます。
つまり、戦後初期の連れ込み旅館は、円山町だけに集まっていたわけではありません。
道玄坂、桜丘、南平台、宮益坂方面など、駅から延びる複数の坂や街路へ分散していました。
この調査は、特定年代の広告・資料をもとにした歴史的スナップショットです。
未掲載の宿を含む完全な営業統計ではなく、現在のホテル数を示すものでもありません。
1970~80年代、ホテルは円山町・道玄坂側へ集中した
戦後に分散していた宿泊集積は、同じ規模で残り続けませんでした。
道路拡幅、オフィス化、マンション建設、商業地の変化、地価、規制、施設更新などによって、各地の小規模な連れ込み旅館は廃業・転換しました。
一方、道玄坂二丁目と円山町では、1970年代後半から1980年代にホテルの増加が進みます。
この時期には、従来の旅館風の施設から、専用の外観、短時間利用の料金体系、駐車・受付の工夫、浴室や室内設備を強調したラブホテルへ、業態と建築が変化しました。
他地域の集積が縮小する一方、円山町・道玄坂側では新築や建て替えが続いたため、「渋谷のラブホテル街」が現在知られる範囲へ集中したと考えられます。
三橋の2020年時点の調査では、渋谷区内で確認した61施設のうち、円山町28、道玄坂二丁目27とされ、二地域で55施設を占めたと報告されています。
この数字は2020年の研究上の確認値であり、2026年現在の店舗数ではありません。
閉業、改装、用途変更、新規開業を確認せず、現在値へ転用することはできません。
重要なのは、1950年代から一貫して円山町だけが唯一の集積だったのではなく、分散から集中へ変化したことです。
なぜこの場所にホテルが集中したのか
円山町へホテルが集まった背景を、昔の花街だけで説明することはできません。
円山町の地形、交通、土地利用を重ねる必要があります。
渋谷駅に近い
渋谷は鉄道・地下鉄・バスが集中する巨大ターミナルです。
地域外から来る客が利用しやすく、食事、映画、音楽、買い物の後に徒歩で移動できます。宿泊施設にとって、広い商圏から人を集められることは大きな条件です。
大通りから一本奥に入る
道玄坂は人通りの多い幹線です。
しかし、百軒店の門や横道から入ると、視線は建物と曲がった路地に遮られます。
駅から遠すぎず、表通りからは少し隠れる。
この両立が、短時間利用を含む宿泊施設に適した立地になりました。
坂・階段・細街路がある
渋谷は谷の街です。
道玄坂から円山町、神泉へ向かうと、高低差があり、短い階段や曲がった道が連続します。

坂はホテルを生み出す原因そのものではありません。
しかし、土地を小さく分け、見通しを変え、表通りと裏側を近い距離で分離します。
結果として、飲食店、旅館、ホテル、小規模な娯楽施設が隣接しやすい街区になりました。
丘陵と谷の位置関係を現地で確かめるなら、隣接する南平台・青葉台の坂と住宅地を歩く記事も参考になります。
旅館・料理屋・夜間営業の蓄積があった
花街、旅館、料理屋、待合、百軒店の飲食・娯楽は同じ業態ではありません。
それでも、夜間に客を迎える営業、外来者が利用する土地、宿泊・飲食に適した建物が長く存在したことは、後の転換を容易にしました。
映画・飲食・音楽の客がいた
ホテルだけでは街は成立しません。
映画館、劇場、ジャズ喫茶、ライブハウス、クラブ、飲食店が、異なる時間帯に人を呼びます。夜の娯楽と宿泊需要が近接することで、地区全体が維持されました。
円山町は遊郭・赤線だったのか
結論から言えば、円山町を吉原や新宿遊廓と同じ公認遊郭として扱うのは不正確です。
円山町は、花街・三業地として発展しました。
料理屋、待合、置屋、芸妓の営業を中心とする地域です。
花街で性的な関係が全く存在しなかった、と断定することもできません。
芸妓と客、待合、料亭をめぐる実態は、地域や時代によって異なります。
しかし、制度上の区分を消して「花街も遊郭も同じ売春街」と書くことはできません。
また、戦後の円山町を赤線と呼ぶ資料がある場合でも、警察が特殊飲食店を集団指定した旧遊郭地区と同じ意味で使われているかを確認する必要があります。
本記事では、確認できる中心的な歴史を次のように整理します。
- 戦前:花街・三業地
- 戦後:料亭、旅館、飲食、キャバレー、ダンスホールなどが混在
- 1950年代:連れ込み旅館は渋谷の複数地域に分散
- 1970~80年代:円山町・道玄坂側へホテル集積が進む
「妾宅がホテルになった」という説をどう扱うか
円山町のホテル街の起源として、花街の妾宅や芸妓の住居が、戦後に旅館や連れ込み宿へ転用されたという話があります。
読み物として分かりやすいため、多くの雑誌記事や地域紹介で繰り返されてきました。
しかし、この説明を地区全体の確定した起源として扱うには注意が必要です。
- 誰の所有した、どの建物なのか
- いつ旅館営業へ変わったのか
- 旅館業許可、住宅地図、電話帳で確認できるか
- 一例なのか、地域全体の傾向なのか
これらを示さずに、「妾が一斉に自宅をホテルへ変えた」と書くことはできません。
個別事例や地域の口承として紹介する場合は、「そのように語られる」「二次資料で紹介される」と明示する必要があります。
円山町のホテル街を説明する主軸は、逸話ではなく、次の確認可能な変化にあります。
- 花街と宿泊・飲食営業の蓄積
- 戦災後の土地利用転換
- 1950年代の分散した連れ込み旅館
- 1970~80年代の円山町・道玄坂への集中
- 渋谷駅、坂、細街路、娯楽産業との近接
ラブホテルとは何か―旅館との境界
「ラブホテル」は広く使われる一般名称ですが、すべての施設が同じ法的分類に入るわけではありません。
現在の風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律では、異性を同伴する客の宿泊・休憩を主目的とし、一定の構造・設備を備える施設の一部が、店舗型性風俗特殊営業として規制対象になります。
一方、旅館業法上のホテル・旅館営業を行い、施設の構造や運用が風営法上の指定条件に該当しない施設もあります。
したがって、外観、休憩料金、地域の評判だけを見て、個別施設の法的区分を断定してはいけません。
歴史的にも呼び方は変わりました。
- 待合
- 貸間
- 連れ込み宿
- 連れ込み旅館
- モーテル
- ラブホテル
- ブティックホテル
- レジャーホテル
これらは完全な同義語ではなく、時代、設備、営業方法、広告表現を反映しています。
本記事は法的助言や施設利用案内ではありません。
ここでは現行制度の概要にとどめ、個別ホテルの営業区分や適法性は論評しません。
ホテルだけではない―映画・音楽・クラブ文化が重なる街
円山町・百軒店をホテル街だけとして見ると、地域の半分しか見えません。
百軒店には、戦前から映画館、劇場、喫茶店、飲食店が集まりました。
戦後には名曲喫茶、ジャズ喫茶、ライブハウス、ミニシアターなどが、渋谷の音楽・映画文化を支えます。
円山町周辺では、クラブ、ライブハウス、飲食店、ホテル、住宅が近接しています。
この混在は偶然ではありません。
大通りから少し奥に入る立地は、音量、営業時間、客層の異なる小規模な娯楽施設にも利用されました。
渋谷駅から近いため、若者文化と夜間文化が人を呼び続けます。
ホテルの利用者と音楽施設の利用者が同じ目的で街へ来るわけではありません。
それでも、異なる業種が同じ時間帯の人流、飲食需要、交通利便性を共有しています。
百軒店から渋谷のライブ文化へ続く流れは、東京の音楽文化と街の関係をたどる記事でも紹介しています。
再開発が進む渋谷で、円山町・百軒店は、大型ビルだけではつくれない小規模な文化と夜間営業の集積を残しています。
一方で、建て替え、賃料、ホテルやライブハウスの閉業、住宅との摩擦などにより、その構成は常に変化しています。
地図で歩く円山町・百軒店
歴史散歩では、ホテルの派手な看板だけでなく、町境、坂、施設の種類にも目を向けます。
1.道玄坂
渋谷駅から道玄坂を上り、巨大ターミナルと丘の上の娯楽地の距離を体感します。
坂の名前の由来には複数の説があります。
道玄という人物・庵、山賊伝承などがありますが、一つの確定説に絞ることはできません。
2.しぶや百軒店の入口
門をくぐり、道玄坂二丁目に開発された商業・娯楽街であることを確認します。
百軒店自体は道玄坂二丁目側にあり、通りの先や横道が円山町へ続きます。
3.映画・音楽の施設
現存する店舗名を大量に列挙せず、映画館、ジャズ喫茶、ライブハウス、飲食店がホテルと近接する街区構成を見ます。
営業状況は変わるため、本記事では個別店舗のガイドは行いません。
4.階段状の路地
道玄坂小路、百軒店、円山町をつなぐ階段や坂を歩きます。
地図上では近くても、高低差によって視線が切れ、表通りと裏側の雰囲気が変わります。
画像7928は2007年の記録であり、現在景観の案内ではなく、地形を読む資料として扱います。
5.神泉駅方面
神泉駅へ近づくと、渋谷駅前とは異なる住宅、飲食店、旧花街の記憶が重なります。
弘法湯や花街に関する史跡・説明板は現存状況が変わりうるため、現地では最新情報の確認が必要です。
由来を確認できない建物を「花街の遺構」と断定することはできません。
地形をさらに歩いて確かめるには、渋谷の坂と暗渠をたどった歴史散歩レポートと、東京の歴史散歩コース集も参考になります。
歩くときの注意点
円山町・百軒店は、歴史展示のためのテーマパークではありません。
ホテル、飲食店、音楽施設、住宅、事務所が並び、現在も人が暮らし、働き、利用する場所です。
- ホテルや店舗の利用者を無断撮影しない
- ホテルの出入口へカメラを向けない
- 営業中の店舗や住宅をのぞき込まない
- 客引き、酔客、車両、自転車に注意する
- 坂、階段、濡れた路面では足元に注意する
- 夜間に一人で細い路地へ入り込まない
- 花街、旅館、ホテルをすべて性風俗店として扱わない
- 現在の住民を過去の地域イメージで決めつけない
- 個別施設の営業や利用方法を記事のために詮索しない
歴史散歩の目的は、ホテルの内部や利用者を見ることではありません。
町境、坂、街路、建物の規模、駅との距離を見ながら、渋谷の娯楽と宿泊がどのように配置されてきたかを理解することです。
よくある疑問
円山町は昔、遊郭だったのですか?
円山町は、明治・大正期に花街・三業地として発展しました。
吉原や新宿遊廓のような公認遊郭と同じ制度ではありません。
芸妓、料理屋、待合、置屋が集まる花街と、娼妓を置く貸座敷が集まる遊郭は区別する必要があります。
百軒店は円山町にありますか?
百軒店商店街は主に道玄坂二丁目にあります。
円山町と隣接しており、通りと路地が連続するため、一つの繁華街として認識されることがあります。
記事や地図を見る際も、町境を混同しないことが大切です。
花街の建物が、そのままラブホテルになったのですか?
個別に料亭、旅館、住宅などが別の用途へ転換した例は考えられますが、花街の全施設が一斉にホテルになったわけではありません。
戦災、戦後の旅館営業、連れ込み宿の分散、1970~80年代の集中、建て替えを経ています。
なぜ坂の上にラブホテルが多いのですか?
坂自体がホテルを生むわけではありません。
渋谷駅に近い一方、大通りから一本入り、地形と曲がった街路で視線が切れること、小規模な土地と夜間営業の蓄積があったことが、宿泊施設の集中に適していました。
現在、円山町には何軒のラブホテルがありますか?
営業状況、町域、法的分類、数え方によって変わるため、本記事では2026年現在の正確な軒数を断定しません。
2020年の歴史地理調査に基づく数字は、調査時点と方法を伴う歴史資料であり、現在値ではありません。
ラブホテルは風俗営業なのですか?
一定の構造・設備・利用形態に該当する施設は、風営法上の店舗型性風俗特殊営業として規制されます。
ただし、「ラブホテル」と呼ばれるすべての施設の法的区分が同じとは限りません。
個別施設は旅館業法、風営法、建築・用途規制などを確認しなければ判断できません。
百軒店や円山町を歩いてもよいですか?
公道や一般利用できる店舗は歩けます。
ただし、ホテル利用者、店舗客、住民を撮影・観察の対象にしてはいけません。
日中に地図を見ながら、坂、町境、街路構成を確認する歩き方が適しています。
まとめ―渋谷の坂に複数の夜の歴史が重なった
渋谷・円山町のホテル街は、花街がそのまま姿を変えたものではありません。
明治・大正期、神泉と円山町には花街が発展しました。
1924年、隣接する道玄坂二丁目に百軒店が開かれ、映画、飲食、娯楽の客が集まりました。
1945年の空襲で街は焼け、戦後は旅館、飲食、ダンス、キャバレーなどが再出発します。
1950年代の連れ込み旅館は渋谷の複数の坂に分散していました。
その後、他地域の宿泊集積が縮小し、1970~80年代に円山町・道玄坂二丁目へホテルが集中しました。
集中を支えたのは、次の条件です。
- 巨大ターミナル渋谷駅から歩ける
- 道玄坂の表通りから少し奥に入る
- 坂、階段、曲がった細街路がある
- 花街、旅館、料理屋など夜間営業の蓄積がある
- 映画、音楽、飲食、クラブの客が集まる
- 小規模な土地で建物の更新が続いた
「花街だったから」という答えは、間違いではありません。
しかし、それだけでは不十分です。
百軒店の門をくぐり、坂を曲がり、階段を下りる短い移動の中に、花街、娯楽街、戦後の旅館、ホテル街、音楽文化という別々の時代が重なっています。
円山町の本当の特徴は、ホテルの数だけではありません。
渋谷の中心から数分で、表通りとは異なる用途と記憶が折り重なる、坂の都市構造そのものにあります。
参考文献・資料
- 渋谷区立図書館「渋谷区史への扉」
- 渋谷区立図書館「新修渋谷区史目次の下巻」
- 渋谷区立図書館「渋谷区史年表(昭和から平成まで)」
- 渋谷区立図書館「渋谷区の町名・地番変遷」
- 渋谷区立図書館「渋谷と文学 No.20 しぶや百軒店」
- 百軒店商店街「百軒店商店街とは」
- 渋谷区「町会・自治会」
- 渋谷文化プロジェクト「円山町の歴史」
- 渋谷文化プロジェクト「弘法湯と円山町の記憶」
- 青山学院大学 シビックエンゲージメントセンター「渋谷円山町の地域史」
- 金益見『ラブホテル進化論』文春新書、2008年
- 金益見『性愛空間の文化史―「連れ込み宿」から「ラブホ」まで』ミネルヴァ書房、2012年
- 三橋順子「坂の途中・渋谷の『性なる場』の変遷―『連れ込み旅館』から『ラブホテル街』の形成へ―」
- e-Gov法令検索「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」
- e-Gov法令検索「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行規則」
- 国立国会図書館典拠データ「ラブホテル」
- Connie「Snap shot on Love hotel street, Shibuya Hyakken-dana」Wikimedia Commons/CC BY 2.0
- Zachary Smith「しぶや百軒店 渋谷区道玄坂2丁目」Wikimedia Commons/CC BY-SA 2.0
- Joi「Maruyama-cho Shibuya」Wikimedia Commons/CC BY 2.0

