渋谷駅から道玄坂を上り、百軒店の入口を抜けると、大通りの喧騒から細い坂道と路地の街並みへ移ります。映画館や音楽喫茶、飲食店が集まった百軒店の先には、かつて芸妓の宴席で栄えた円山町の花街が広がっていました。
円山の花街は明治期の神泉の湧水と料理旅館を起点に発展し、1913年には三業地に指定されました。隣接する百軒店は関東大震災の翌1924年に開発され、映画館や劇場を備えた娯楽街となります。戦災後には料亭や旅館が営業を再開する一方、短時間利用の連れ込み旅館は渋谷駅周辺の各地に存在していました。
1970~80年代には駅周辺の土地利用が変わり、道玄坂一丁目などで旅館が減少したのに対して、円山町と道玄坂二丁目ではホテルが増加しました。三橋順子による住宅地図の分析では、1982年頃、円山町の旧花街中心部で旅館・ホテル数が料亭・料理屋数を上回っています。現在のホテル街は、花街の歴史に戦後の宿泊業と都市の変化が重なって形成されました。
明治・大正期|神泉の湧水から円山花街が生まれた
花街とは、芸妓、料理屋、待合茶屋、置屋などが集まる遊興と芸能の地域です。
円山町の花街は、明治以後に発展した近代の花街です。
円山花街の出発点は、坂の下にあった神泉の湧水です。渋谷区の地名解説は、江戸時代の地誌『江戸砂子』に、神泉の水を霊水とする伝承が記されたことを紹介しています。湧水を利用した弘法湯には弘法大師にまつわる伝説があり、明治期には料理旅館「神泉館」が併設されました。渋谷区立郷土博物館の写真資料にも、弘法湯と神泉館が花街の形成を促した経緯が記されています。
鳥越けい子の研究によると、弘法湯の経営を担った佐藤豊蔵とその家族は、神泉周辺の地域社会と関わりながら事業を発展させました。湯屋、料理旅館、芸妓を招く宴席が結びつき、谷底の神泉から道玄坂上の高台へ料理屋や置屋が広がりました。花街を生んだのは、湧水の利用と明治期の交通・接客業の発展でした。
1913年、円山周辺は三業地に指定されました。三業とは、料理を提供する料理屋、宴席の場所を設ける待合茶屋、芸妓が所属する置屋の三つです。1919年には渋谷三業株式会社が設立され、営業を支える組織が整えられました。三橋順子の研究は、1921年の芸妓置屋137戸、芸妓402人、待合96軒という数値を伝えています。渋谷文化プロジェクトが『新修渋谷区史』に基づき紹介する同年の料理屋は36軒です。料理屋・待合・置屋は役割が異なり、軒数の意味も異なります。
芸妓は踊りや三味線、唄などの芸を披露し、料理屋や待合の宴席に招かれました。芸妓を抱える置屋と客を迎える施設の分業が、円山花街の営業を支えていました。
1924年|百軒店が誕生し、映画館と商店が集まった
1923年の関東大震災は、東京東部の商業地や娯楽街に大きな被害を与えました。
翌1924年、箱根土地の堤康次郎は、旧中川伯爵邸の土地を分譲し、被災した下町の商店を誘致して百軒店を開発しました。百軒店商店街の公式史では、117店舗を誘致したと説明されています。

開発当初の百軒店には、東京の中心市街地にあった商店だけでなく、劇場や映画館が設けられました。鳥越けい子「円山町を歩く・聴く」(2024年)は、1924年開館の聚楽座と1925年開館の渋谷キネマを取り上げています。百軒店にはその後も映画館が集まり、戦後にはテアトル渋谷、テアトルSS、テアトルハイツなどが娯楽街を支えました。百軒店商店街の公式アーカイブには、1967年のテアトルSS入口をはじめ、往時の写真が残っています。
百軒店には天賞堂、資生堂、山野楽器、精養軒などの名店も誘致されましたが、銀座・浅草などの復興とともに撤退した店もあり、飲食・映画・演芸を中心とする盛り場へ変わりました。道玄坂を通る玉川電車や渋谷駅の鉄道網は、当時の郊外に客を運ぶ交通基盤でした。戦後の百軒店にはテアトル系の映画館が並びましたが、1967年の東急百貨店本店、1968年の西武百貨店渋谷店の開業を経て、買い物客の動線や渋谷の繁華街の中心が変化していきます。百軒店商店街の公式史は、この二つの百貨店の開業を街の転機として記録しています。
百軒店に残る千代田稲荷神社は、商店街の開発に伴って宮益坂側から遷座した神社です。旧中川伯爵家に由来する中川稲荷も境内に祀られています。映画館や商店が入れ替わる中でも、土地の旧所有者と新しい街づくりの歴史を伝える場所です。
百軒店を開発した堤康次郎と、渋谷を拠点にした東急の都市開発については、西武と東急が渋谷の商業地をどう変えたかもあわせて読むと、企業と街の関係が見えやすくなります。
百軒店の旧町名も、この地区の成り立ちを伝えています。現在の百軒店商店街は主に道玄坂二丁目にあり、円山町と隣接します。鳥越けい子「円山町を歩く・聴く」(2024年)によれば、1928年に「円山」の呼称が公式化した当時、百軒店も円山の一部に含まれていました。現在の町境になったのは1970年の住居表示以降です。
呼び方にも変化があり、鳥越は1960年代までの「ひゃっけんてん」から、1970年代以降「ひゃっけんだな」が広まったと記録しています。
1945年以降|戦災で焼けた花街と百軒店の復興
1945年の空襲で、円山町の花柳界と百軒店の多くが焼失しました。
戦後の渋谷駅周辺では闇市や露店から飲食業が再開し、映画館やダンスホールなども営業を始めました。円山町では料亭と旅館が再建され、百軒店では映画・音楽の娯楽が復活しました。
円山花街は戦災後に営業を再開しました。渋谷区史年表には1962年に「円山花街が衰退を示す」と記されていますが、三橋順子の論考によると1965年時点でも料亭84軒、芸妓170人を数えました。花街の営業は戦後も続き、やがて料亭数が減少していきます。
渋谷区円山町6番1号には、旧花街の歴史を伝える料亭「三長」があります。三代目・髙橋千善氏が語る家業の始まりは、祖母が1912年に開いた芝居小屋「豊澤亭」です。大正から昭和初期には芝居小屋兼映画館「渋谷劇場」となり、その隣に「三長料理店」が生まれました。「三長」の屋号は、祖母・三枝と祖父・長吉の名に由来します。戦災後、現在の木造の料亭建物が1951年に完成し、2013年9月に新しい営業形態で再開しました。花街、芝居小屋、映画館、戦後建築が一つの家業の歴史に重なっています。これらの経緯は髙橋氏の2022年のインタビューと三長の公式案内で確認できます。
三長は建物を活用しながら伝統芸能の催しも開いています。2024年の西武信用金庫の取材では、円山町の芸妓4人が小唄・三味線・踊りを披露した様子が記録されています。芸妓の人数は取材時点の数字ですが、花街の営業規模が縮小した後も、芸と建物を受け継ぐ活動が続いてきたことを伝えています。鳥越けい子監修『渋谷 円山町に生きる 料亭三長』(2024年)には高橋家の年表が収録されています。
戦後の円山町では企業接待に利用される料亭の営業が続く一方、住宅地図に記された料理屋・料亭は1962年頃の76軒から1982年頃の11軒へ減少しました。同じ区域では1960~80年代に旅館・ホテルが増加します。料亭三長と芸妓による催しは、建物の用途が変わり続ける街に残された花街の歴史を伝えています。
渋谷を含む駅前商業地の再編については、戦後東京の駅前闇市と商業地の再出発でも詳しく解説しています。
1950年代|連れ込み旅館は渋谷各地に分散していた
連れ込み旅館とは、戦後にカップルの短時間利用を受け入れた旅館・貸間を指す歴史的な通称です。
現在の「ラブホテル」という呼称と建築形式が一般化する前、待合、貸間、旅館、連れ込み宿など、男女が個室を利用する施設には複数の名称がありました。
ラブホテル史を研究した金益見は、住宅事情、性意識、宿泊業、建築設備の変化を通じて、連れ込み宿からラブホテルへ至る過程を整理しています。
円山町では料亭や住宅の旅館への転用が語られることがありますが、個々の建物については地図・登記・営業資料による確認が必要です。少なくとも、戦後の連れ込み旅館の分布は円山町だけに収まりませんでした。
歴史地理を研究する三橋順子が、1953~1957年の広告などをもとに整理した調査では、当時の渋谷地域で32軒の連れ込み旅館が確認され、八つほどの集積に分かれていたとされます。
広告や住宅地図に登場するのは、宮益坂の途中の「たきや」、桜丘町の「平安楼」「東洋荘」、道玄坂一丁目の「あたり荘」「一楽」「永吉」などです。例えば「あたり荘」は1969年頃まで旅館として地図に現れ、その後、跡地は1974年竣工のマンション「プリメーラ道玄坂」へ変わりました。同じ坂にあった「一楽」「永吉」も1970年代に廃業し、マンションやオフィスビルに土地が転用されました。旅館の集積が消えた地域と、ホテルが増え続けた円山町・道玄坂二丁目を比較すると、1970~80年代の都市再編が具体的に分かります。
三橋の集計対象は1953~1957年の広告で確認できた旅館です。論考には総数31軒と32軒の記載があり、地域別内訳を合計すると32軒となります。この数値は広告資料に現れる施設数です。
1970~80年代|料亭街が縮小し、円山町にホテルが集中した
1960年代以降、渋谷駅周辺に点在した旅館は減少しました。美竹町、桜丘町、公園通りなどの旅館街は商業ビルやマンションに置き換わっていきます。一方、円山町の旧三業地と道玄坂二丁目の坂の途中では、旅館・ホテルの増加が続きました。
渋谷区の「ラブホテル建築規制条例」が施行されたのは2006年12月です。1970~80年代のホテル街形成と、形成後の新規建築を対象とした規制は年代が異なります。個々の旅館の閉業原因を、一つの制度や経済条件だけから説明することは避ける必要があります。
1970~80年代には、従来の旅館から、短時間利用を前提とする料金体系や専用設備を備えたホテルへの転換も進みました。同じ時期に円山町・道玄坂二丁目の施設数は増え、渋谷駅周辺のほかの地域との差が広がっています。
三橋順子が1962年頃から1995年頃までの住宅地図を比較したところ、道玄坂二丁目の旅館・ホテルは、1962年頃17軒、1969年頃17軒、1976年頃21軒、1982年頃26軒、1995年頃33軒へと増加しました。一方、円山町の旧三業地中心部では、1962年頃に料亭・料理屋76軒と旅館13軒、1976年頃には24軒と19軒、1982年頃には11軒と20軒、1995年頃には9軒と27軒となっています。1982年頃には旧花街の中心部でも旅館・ホテルが料亭・料理屋を数で上回りました。
数値は三橋順子による年代別住宅地図の集計です。円山町と道玄坂二丁目では調査範囲が異なり、1976年頃の地図には施設名の記載漏れがある可能性も指摘されています。地区ごとの増減を比較するための資料として扱います。
道玄坂二丁目では、施設の名前そのものにも変化が残ります。三橋順子が広告と住宅地図から追った「高田旅館」は、百軒店の映画館街を入口の目印として案内しており、本館と別館を構えていました。1987年頃に旅館営業を終えたとみられ、別館跡地には後に「ホテルR25」がありました。同じ一帯の「風久呂」は1976年頃まで地図に現れ、1982年頃には「ホテルガラスの城」、1995年頃には「ホテルプリンスキャッスル」の名称が確認できます。また「二幸」の敷地には1995年頃「ホテルアランド」が記載されますが、経営の継承関係は明らかではありません。これらの実例から、旅館の廃業、建て替え、屋号の変更、業態転換を区別して追跡できます。
なぜ円山町・道玄坂二丁目にホテルが集まったのか
円山町へのホテル集積には、花街の歴史に加えて、地形、交通、土地利用が影響しました。
渋谷駅に近い
円山町・百軒店は、鉄道各線が乗り入れる渋谷駅から道玄坂を上った場所にあります。駅と娯楽街を徒歩で行き来できる距離にあり、戦前の映画館街や花街、戦後の飲食街へ客が訪れる交通上の条件を備えていました。ホテル街への集積を考える際には、この交通条件と周辺地区の土地利用の変化を併せてみる必要があります。
大通りから一本奥に入る
道玄坂の表通りから百軒店や円山町の路地へ入ると、道が曲がり、建物が幹線道路からの視線を遮ります。渋谷駅から徒歩で行き来できる距離に、表通りとは見通しの異なる街区が広がっています。こうした街路の形は、駅への近さとともに当地の立地上の特徴です。
坂・階段・細街路がある
道玄坂の高台から円山町を経て神泉方面へ向かう道には高低差があり、短い階段や曲がった路地が続きます。神泉の湧水を起点に発展した花街は、こうした谷と高台の地形に沿って広がりました。

丘陵と谷の位置関係を現地で確かめるなら、隣接する南平台・青葉台の坂と住宅地を歩く記事も参考になります。
旅館・料理屋・夜間営業の蓄積があった
花街、旅館、料理屋、待合、百軒店の飲食・娯楽が集まり、夜間に客を迎える営業、外来者が利用する土地、宿泊・飲食に適した建物が蓄積しました。
映画・飲食・音楽の客がいた
百軒店では映画館と音楽喫茶が営業を続け、隣接する円山町・道玄坂二丁目では旅館やホテルが増えました。映画・音楽施設と宿泊施設は、同じ地域でそれぞれ異なる歴史を歩んできました。
花街からラブホテル街への変化で混同されやすいこと
円山町は遊郭・赤線だったのか
円山町は、吉原や新宿遊廓のような公認遊郭ではなく、料理屋、待合、置屋、芸妓の営業を中心とする花街・三業地として発展しました。
- 戦前:花街・三業地
- 戦後:料亭、旅館、飲食、キャバレー、ダンスホールなどが混在
- 1950年代:連れ込み旅館は渋谷の複数地域に分散
- 1970~80年代:円山町・道玄坂側へホテル集積が進む
料亭や住宅がそのままホテルになったのか
円山町のホテル街には「花街の妾宅や料亭がそのまま連れ込み宿になった」という説明があります。個々の敷地で用途転換があったかを確かめるには、戦前・戦後の住宅地図だけでなく、建物の竣工年や営業主体も照合する必要があります。施設名が同じ敷地で入れ替わったことは確認できても、元の建物が転用されたのか、取り壊されて新築されたのかは別の問題です。
三橋順子の研究から確かめられるのは、戦後の旅館・ホテルが道玄坂一丁目や宮益坂などにも点在し、1970~80年代には円山町・道玄坂二丁目で増加したという分布の変化です。街全体の成り立ちは、個別の転用伝承と住宅地図に示された施設の増減を区別して考える必要があります。
連れ込み旅館とラブホテルは何が違うのか
「ラブホテル」は一般名称です。一定の構造・設備を備える施設は、風営法上の店舗型性風俗特殊営業として規制されます。旅館業法上のホテル・旅館営業に当たる施設もあります。
歴史的にも呼び方は変わりました。
- 待合
- 貸間
- 連れ込み宿
- 連れ込み旅館
- モーテル
- ラブホテル
- ブティックホテル
- レジャーホテル
これらは完全な同義語ではなく、時代、設備、営業方法、広告表現を反映しています。
昭和の百軒店|映画館から名曲喫茶・ロック喫茶へ
百軒店には、戦前から映画館、劇場、喫茶店、飲食店が集まりました。
音楽文化の象徴が、1926年創業の「名曲喫茶ライオン」です。1945年の戦災で建物が失われましたが、1950年に創業時の意匠を受け継いで再建されました。大型スピーカーを正面に置き、客がレコードの演奏を聴くために集う店として親しまれました。家庭で高価な音響機器を持つことが難しかった時代、音楽喫茶は鑑賞のための公共的な空間でもありました。
1969年にはロック喫茶「B.Y.G.」が開店しました。同店の公式記録には、開店当初にはっぴいえんど、はちみつぱい、頭脳警察などが出演したとあります。百軒店周辺には「DIG」「ありんこ」「ブラック・ホーク」などのジャズ・ロック喫茶もあり、映画館街に続いて若い音楽愛好家の集まる地区になりました。映画館、喫茶店、ライブハウスが同じ路地に存在したことは、ホテル街と並行して発展した文化史です。
百軒店から渋谷のライブ文化へ続く流れは、東京の音楽文化と街の関係をたどる記事でも紹介しています。
再開発が進む渋谷で、円山町・百軒店は、大型ビルだけではつくれない小規模な文化と夜間営業の集積を残しています。
一方で、建て替え、賃料、ホテルやライブハウスの閉業、住宅との摩擦などにより、その構成は常に変化しています。
いま街に残る歴史|道玄坂・百軒店・神泉の痕跡
円山町と百軒店には、花街の建物や映画館の多くが姿を消した後も、古い道筋、社寺、商店、階段が残っています。現在の所在地と戦前の町域を区別すると、地域の変遷をたどれます。
1.道玄坂
道玄坂は江戸から相模国の大山へ向かう大山街道の道筋にあたります。坂の名の由来には、大和田太郎道玄という人物の伝承や道玄庵にちなむ説があり、史実と伝承を分けて伝えられています。江戸時代の往来があった坂は、近代には玉川電車が走り、渋谷駅と百軒店・円山花街を結ぶ街路になりました。
2.しぶや百軒店の入口
道玄坂から百軒店の入口を見上げる場所は、1924年の開発で生まれた商業街区への玄関です。百軒店の内部には映画館が集まり、旧中川伯爵邸の土地の一画には千代田稲荷神社が遷座しました。現在の住所は道玄坂二丁目ですが、開発当時の旧町域と現在の町境は一致しません。
3.映画・音楽の施設
1920年代の聚楽座・渋谷キネマから、戦後のテアトル系映画館へと続いた百軒店には、名曲喫茶ライオンやロック喫茶B.Y.G.も生まれました。かつて映画館の入口があった街路と、現在も営業を続ける音楽喫茶を比較すると、娯楽施設の移り変わりを同じ街区の中で確認できます。
4.階段状の路地
道玄坂から円山町・神泉へ向かう道には、台地の縁に沿って階段と坂道が設けられています。芸者階段の通称で知られる階段は、かつて高台の花街と神泉側の低地を行き来した道の一つとして語られています。ただし、名称の由来や整備年代を裏づける史料は引き続き確認が必要です。
5.神泉駅方面
京王井の頭線の神泉駅は、円山町の台地を抜けるトンネルに挟まれた谷間にあります。近くに残る「弘法大師 右神泉湯道」と刻まれた1886年建立の道標は、花街の成立以前から湧水と浴場が人を集めていたことを伝えています。
地形をさらに歩いて確かめるには、渋谷の坂と暗渠をたどった歴史散歩レポートと、東京の歴史散歩コース集も参考になります。
よくある疑問
円山町は昔、遊郭だったのですか?
円山町は、明治・大正期に芸妓、料理屋、待合、置屋が集まる花街・三業地として発展しました。
百軒店は円山町にありますか?
百軒店商店街は主に道玄坂二丁目にあります。
円山町と隣接しており、通りと路地が連続するため、一つの繁華街として認識されることがあります。
記事や地図を見る際も、町境を混同しないことが大切です。
花街の建物が、そのままラブホテルになったのですか?
料亭、旅館、住宅などの用途転換に加え、戦災、戦後の旅館営業、連れ込み宿の分散、1970~80年代の集中、建て替えを経てホテル街が形成されました。
なぜ坂の上にラブホテルが多いのですか?
渋谷駅に近く、大通りから一本入り、地形と曲がった街路で視線が切れること、小規模な土地と夜間営業の蓄積が宿泊施設の集中を促しました。
現在、円山町には何軒のラブホテルがありますか?
現在の営業施設数を確定するには、調査日、町域、旅館業法と風営法上の扱い、休業中の施設の数え方を揃える必要があります。本文に示した1962~1995年頃の数字は、住宅地図に基づく過去の施設数であり、現在の営業軒数を表していません。
ラブホテルは風俗営業なのですか?
一定の構造・設備・利用形態に該当する施設は、風営法上の店舗型性風俗特殊営業として規制されます。施設ごとの法的区分は、旅館業法、風営法、建築・用途規制によって決まります。
百軒店や円山町を歩いてもよいですか?
公道や一般利用できる店舗は歩けます。
日中に地図を見ながら、坂、町境、街路構成を確認します。
参考文献・資料
- 渋谷区立図書館「渋谷区史への扉」
- 渋谷区立図書館「新修渋谷区史目次の下巻」
- 渋谷区立図書館「渋谷区史年表(昭和から平成まで)」
- 渋谷区立図書館「渋谷区の町名・地番変遷」
- 渋谷区立図書館「渋谷と文学 No.20 しぶや百軒店」
- 百軒店商店街「百軒店商店街とは」
- 渋谷区「町会・自治会」
- 渋谷文化プロジェクト「円山町の歴史」
- 渋谷文化プロジェクト「弘法湯と円山町の記憶」
- 青山学院大学 シビックエンゲージメントセンター「渋谷円山町の地域史」
- 金益見『ラブホテル進化論』文春新書、2008年
- 金益見『性愛空間の文化史―「連れ込み宿」から「ラブホ」まで』ミネルヴァ書房、2012年
- 三橋順子「坂の途中・渋谷の『性なる場』の変遷―『連れ込み旅館』から『ラブホテル街』の形成へ―」
- 鳥越けい子「円山町を歩く・聴く」『青山総合文化政策学』第23号、2024年、45~72頁
- 鳥越けい子監修・執筆『渋谷 円山町に生きる 料亭三長』料亭三長、2024年(書誌情報・本文未照合)
- 料亭三長公式「ご挨拶」(創業年と営業再開について)
- 渋谷新聞「古き美しき木造屋敷は100年後まで『料亭三長』三代目高橋千善さん」(2022年、家業と建物の聞き取り)
- 西武信用金庫「渋谷の料亭、三長」(2024年、芝居小屋の前史と芸妓の取材)
- B.Y.G.公式サイト(1969年創業と出演者について)
- 100BANCH「渋谷・100年ランドマーク物語 第2回 名曲喫茶ライオン」
- 渋谷区「ラブホテル建築規制条例・ホテル等建築同意申請制度のあらまし」
- e-Gov法令検索「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」
- e-Gov法令検索「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行規則」
- 国立国会図書館典拠データ「ラブホテル」
- Connie「Snap shot on Love hotel street, Shibuya Hyakken-dana」Wikimedia Commons/CC BY 2.0
- Zachary Smith「しぶや百軒店 渋谷区道玄坂2丁目」Wikimedia Commons/CC BY-SA 2.0
- Joi「Maruyama-cho Shibuya」Wikimedia Commons/CC BY 2.0

