錦糸町はなぜ東京東部を代表する歓楽街になったのか|鉄道・工場・楽天地・闇市・キャバレーの歴史

2008年の錦糸町駅南口と駅前の街並み

1937年、錦糸町駅の南側に大きな劇場と映画館が誕生しました。やがて同じ界隈には場外馬券売場、天然温泉、キャバレー、飲食店が集まります。工場と鉄道の街だった錦糸町きんしちょうは、どのようにして東京東部を代表する歓楽街になったのでしょうか。

錦糸町の歓楽街ができるまでの年表

  • 1894年 総武鉄道の本所駅が開業。東京東部と千葉方面を結ぶ鉄道拠点になります。
  • 1915年 本所駅が錦糸町駅に改称されます。
  • 1937年 汽車製造工場跡地に江東楽天地が開業。江東劇場と本所映画館が営業を始めます。
  • 1945年 東京大空襲で一帯が甚大な被害を受け、戦後は駅周辺に露店や市場が生まれます。
  • 1950年 楽天地構内に国営競馬の場外馬券発売所を誘致します。
  • 1956年 楽天地天然温泉会館が開場。映画以外の娯楽も充実します。
  • 1960年代 キャバレーや飲食店、ボウリングなどの娯楽施設が広がります。1967年には楽天地ダービービルが完成します。
  • 1986年 楽天地ビルの再開発が完成します。
  • 1997年 錦糸町駅北口の再開発が完成。業務・文化施設が集まる街並みになります。
  • 2006年 旧精工舎工場跡地にオリナスが開業します。

1894年、本所駅と工場が錦糸町の土台をつくった

江戸時代の本所ほんじょは、隅田川東岸の水路や堀を利用する町でした。明治期には工場や倉庫が増え、製造業の集積が進みます。隅田川の東側に広がる城東じょうとう地域は、東京の工業地帯として成長しました。

1894年12月9日、総武鉄道そうぶてつどうが本所駅を開業します。現在の錦糸町駅です。1904年には両国橋駅(現在の両国駅)まで線路が延び、1915年に駅名が錦糸町へ変わりました。鉄道は工場への原材料や製品の輸送を担い、駅周辺に働く人、買い物客、商店が集まる条件をつくりました。

1930年刊『大東京写真帖』には、府立第三中学校付近から見た本所の工場地帯が写っています。煙突の立つ市街地と高架の錦糸町駅が同じ画面に収まり、鉄道と工業が隣り合っていたことが分かります。

1930年の本所・江東橋工場地帯と高架の錦糸町駅
本所・江東橋付近の工場地帯と錦糸町駅、1930年。『大東京写真帖』/Wikimedia Commons/Public Domain。

駅前の飲食店と娯楽施設にとって、工場で働く人々は身近な客層でした。

1937年、工場跡地に江東楽天地が誕生した

錦糸町駅南側の汽車製造きしゃせいぞう工場跡地に、1937年、江東楽天地が開業しました。事業を率いたのは、阪急電鉄や宝塚歌劇、東宝に関わった実業家、小林一三こばやしいちぞうです。鉄道沿線に娯楽施設を整備し、広い地域から客を集めるという発想が東京東部にも持ち込まれました。

同年12月には江東劇場と本所映画館が開場します。翌1938年には江東花月劇場なども加わり、映画、演劇、食事、買い物を楽しめる娯楽拠点へと育ちました。駅から歩いて訪れられる大規模施設の誕生は、錦糸町を工場への通勤だけで訪れる場所から、休日や夜間にも出掛ける街へ変えていきました。

1937年の江東楽天地に開館した江東劇場
江東楽天地の江東劇場、1937年。江東楽天地/『江東楽天地二十年史』/Wikimedia Commons/Public Domain。

1945年の空襲と、戦後の露店から生まれた商店街

1945年3月10日の東京大空襲で、本所・深川一帯は大きな被害を受けました。建物や商店が失われた駅周辺では、戦後の物資不足のなかで露店や市場が営業を始めます。錦糸堀きんしぼり付近も、その一つでした。

1949年、連合国軍総司令部(GHQ)は交通や防災、衛生上の問題から東京都内の公道上にある露店の撤去を指示しました。翌1950年には東京都建設局に臨時露店対策部が置かれ、営業を続ける露店商には建設資金の融資のあっせんや都有地の提供が行われました。錦糸町では都電錦糸堀車庫の裏に共同店舗が建てられ、1952年ごろの写真には、長屋形式の店が連なる姿が残っています。

ニュー錦糸町ビル――露店商が残した店舗と住まい

共同店舗があった場所は、現在の墨田区江東橋3丁目9番21号です。建物は1960年代に建て替えられ、5階建てのニュー錦糸町ビルとなりました。1階には飲食店などの店舗が並び、上階は共同住宅です。三井住友トラスト不動産の歴史写真資料には、共同店舗の時代から同じ屋号で営業を続けてきた店も記録されています。

1970年4月29日に撮影された都電錦糸堀車庫の写真には、ニュー錦糸町ビルの裏側が写っています。横に長く奥行きの浅い建物で、表通りの1階には小さな飲食店が並んでいました。撮影記録には、近くの場外馬券売場の建物も登場します。ビル前の通りは「ダービー通り」と呼ばれ、競馬と飲食が隣り合う錦糸町の街並みが続きました。

都電錦糸堀車庫の跡には、1983年に丸井錦糸町店が開業しました。戦後には錦糸町のほか、上野や新宿などの駅前にも闇市が形成されました。

1950~60年代、映画・競馬・温泉・キャバレーが集まった

映画館の街に場外馬券売場が加わる

1950年、江東楽天地は構内に国営競馬の場外馬券発売所を誘致しました。競馬の発売日には馬券を買う人が訪れ、映画を見に来る人とは異なる目的の客が駅前を利用するようになります。1958年ごろの楽天地には、直営館と別経営の館を合わせて10館の映画館がありました。

1967年には場外馬券発売施設を収めた楽天地ダービービルが竣工します。

天然温泉とスポーツ施設も集客の柱に

楽天地では子ども向け遊戯施設やスポーツランドも営業し、1956年には楽天地天然温泉会館が開場しました。1964年には楽天地ボーリングが開場します。映画や演劇に加え、入浴、スポーツ、食事まで楽しめる施設の広がりが、家族連れから会社員まで幅広い客層を集めました。

噴水キャバレー「グランド・フォンテン」

昭和の錦糸町に実在した大規模な社交施設の一つが、噴水キャバレー「グランド・フォンテン」です。東京楽天地の関連事業では、1960年に浴場事業を担う泉興業が設立され、キャバレーの営業にも関わりました。

キャバレーでは、飲食や接客に音楽・ショーが組み合わされ、会社の宴会や団体客にも利用されました。

花壇街と個人商店が伝える昭和の錦糸町

楽天地の周辺には、飲食店や社交の店が集まる「花壇街」が形成されました。現在の錦糸町ハイタウン周辺にも、その歴史を引き継ぐ店があります。大きなキャバレーの外側では、料理店、喫茶店、小さな酒場が日常の商売を続けていました。

1966年には喫茶ニットが開業しました。本所法人会の聞き取りによると、店主の父親はもともとメリヤス工場を営んでいましたが、繊維業から飲食業へ転じ、花壇街のにぎわいを背景に喫茶店を開きました。当時の営業時間は午前9時から午後11時まで。競馬中継を見ながらビールを飲む客もいたといいます。

蒲田の映画・工場・飲食街の歴史では、1920年に松竹キネマ蒲田撮影所が開業しました。錦糸町では1937年に江東楽天地が開業し、映画館と劇場を備える駅前の娯楽拠点となりました。

南口が歓楽街となり、北口は再開発された理由

錦糸町駅の南側には、1937年に開業した楽天地と、戦後に成長した商店街があります。映画館、場外馬券売場、飲食店、ホテルが近い範囲に立地し、人が昼から夜まで行き交う地域になりました。とりわけ駅から京葉道路にかけての市街地には、娯楽と飲食の施設が集まりました。

1981年に楽天地地区の再開発工事が始まり、1983年に楽天地ビル第一期が竣工。1986年には全館が完成しました。戦前の娯楽拠点は、大型の複合商業施設として姿を変えています。

2009年の錦糸町楽天地ビル外観
錦糸町楽天地ビル、2009年。撮影:Kamemaru2000/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

北口では別の土地の変化が進みます。旧国鉄の貨物関連用地を含む駅北側は、鉄道施設の再編後、約4.4ヘクタールの市街地再開発事業の対象となりました。1997年に完成した再開発によって、アルカタワーズ、文化施設、ホテルなどを備える業務・文化の拠点が形成されました。

さらに2006年、旧精工舎工場跡地にオリナスが開業します。北口では、かつての鉄道・工場用地が大型商業施設やオフィス、住宅へと転換しました。南の汽車製造工場跡地が1930年代に娯楽施設になり、北の工場・貨物用地が1990~2000年代に再開発されたという時間差が、現在の南北の街並みの違いを生んでいます。

2010年のオリナス錦糸町の建物
オリナス錦糸町、2010年。撮影:Sasasasawnaunda/Wikimedia Commons/Public Domain。

現在の錦糸町に残る歴史

錦糸町駅南口には、1937年の江東楽天地開業地に建つ楽天地ビルがあります。京葉道路沿いには旧都電錦糸堀車庫跡の丸井錦糸町店があり、その近くのニュー錦糸町ビルは戦後の露店商が建てた共同店舗を前身とします。北口には、旧国鉄の貨物関連用地を含む地区に建てられたアルカタワーズと、旧精工舎工場跡地のオリナスがあります。

よくある疑問

錦糸町はいつから歓楽街として知られるようになったのですか?

1937年の江東楽天地開業が大きな転機です。戦後は映画館が復興し、1950年に場外馬券発売所、1956年に天然温泉会館が加わりました。キャバレーや飲食店が発展した昭和30~40年代に、娯楽と夜間商業の集積が厚くなりました。

錦糸町の闇市は現在のどこにつながっていますか?

錦糸堀周辺の露店商の一部は、戦後の露店整理で都電錦糸堀車庫裏の共同店舗へ移りました。その建物は後にニュー錦糸町ビルとなり、商業利用が続いています。

なぜ南口の方が夜の街という印象が強いのですか?

映画館や劇場が集まる江東楽天地が南口に開業し、戦後の商店街や競馬・飲食施設がその周囲で成長したためです。北口側では、鉄道・工場用地を利用した大規模再開発が進み、業務・文化・住宅機能が充実しました。

参考資料