銀座、京橋、八丁堀、築地、佃島。現在は性格の異なる街として認識される地域が、尾張屋版の『築地八町堀日本橋南絵図』では一枚の地図に収まっています。江戸の東南部では、東海道沿いの町人地、町奉行所配下の与力・同心の組屋敷、巨大寺院、武家屋敷、船手の役所、港、漁師町が、堀と川によって結ばれていました。
この図には町名、橋、寺社、武家屋敷、水路、番所など400件を超える地名・施設名が採録されています。地図を細かく読むと、銀座の名前がまだ「新両替町」だった時代、八丁堀が与力・同心の町だった理由、築地が海を埋め立てて生まれた土地であること、佃島と江戸の魚食を支えた漁師たち、そして江戸湾の船を統制した御船手まで、一続きの都市史として見えてきます。

- 築地八町堀日本橋南絵図の基本情報
- 最初に水路を見ると、江戸の街が読みやすい
- 日本橋南から京橋へ――東海道沿いに町人地が続く
- 銀座は「新両替町」――町名より先に銀座役所があった
- 木挽町と采女ヶ原――芝居町と広場が銀座の東側にあった
- 八丁堀は与力・同心の町だった
- 鉄砲洲と湊――江戸湾から荷物が入る玄関口
- 築地本願寺は「海を築いた土地」に建てられた
- 築地・明石町の武家地は、明治に外国人居留地へ変わった
- 地図に見える大名屋敷――幕末政治の人物もいる
- 御船手屋敷と向井将監――江戸湾の船を統制した幕府の役所
- 霊岸島と新川――灘の酒が江戸へ集まる物流地区
- 佃島――徳川家康が呼び寄せた漁師たちの町
- 石川島と番所――佃島の隣には幕府の管理空間があった
- 永代橋には「長サ百二十間余」と書かれている
- 浜御殿――海水を取り込む将軍家の庭園
- 地図に記された主要な地名と施設を整理する
- 幕末から明治へ――水辺の都市が近代東京へ組み替えられる
- 現在の街で確認できる江戸の痕跡
- 築地八町堀日本橋南絵図が残した「水の都・江戸」
- 参考資料
築地八町堀日本橋南絵図の基本情報
『築地八町堀日本橋南絵図』は、金鱗堂・尾張屋清七が刊行した江戸切絵図の一枚です。国立国会図書館では景山致恭・戸松昌訓・井山能知編として所蔵され、同系統には嘉永2年(1849)、安政4年(1857)改、万延元年(1860)改正など複数の版が確認されています。屋敷主や町の表示は改訂されるため、人物を特定するときは刊年だけでなく、実際の画像に書かれた官途名を読む必要があります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 図名 | 築地八町堀日本橋南絵図 |
| 版元 | 金鱗堂・尾張屋清七 |
| 確認できる版 | 嘉永2年(1849)、安政4年(1857)改、万延元年(1860)改正など |
| 主な範囲 | 日本橋南部、京橋、銀座、木挽町、八丁堀、築地、霊岸島、新川、佃島、石川島、浜御殿周辺 |
| 特徴 | 町人地・武家地・寺社・水路・港湾施設が一枚に密集する |
東京都立図書館は、この図の地域を日本橋から築地にかけて広がる大きな町人地として紹介しています。幕末には情報量が増え、のちに「京橋南築地絵図」「霊岸島八町堀日本橋南絵図」など、より細かく分割した図も刊行されました。江戸の中心商業地と湾岸部が急速に変化していたことが、地図出版の変化にも表れています。
最初に水路を見ると、江戸の街が読みやすい
現代の地図と大きく異なるのは、水面の多さです。京橋川、三十間堀、亀島川、新川、八丁堀の堀、隅田川につながる水路が町を細かく区切り、橋がそれらを結んでいます。CODHの翻刻には京橋、新橋、木挽橋、汐留橋、弾正橋、松幡橋、越中橋、海賊橋、永代橋など、多数の橋名が並びます。
江戸の中心部では、道路と同じくらい水路が重要な交通路でした。米、酒、材木、魚、野菜など大量の荷物は船で運ばれ、河岸で荷揚げされます。銀座・京橋の商業地、八丁堀の武家地、新川の酒問屋、築地の寺院、佃島の漁師町が同じ地図に収まるのは、それらが水運で結ばれていたためです。
日本橋南から京橋へ――東海道沿いに町人地が続く
地図の北西側には、通町一丁目から四丁目、南伝馬町一丁目から三丁目など、東海道筋の町が南北に並びます。日本橋を出て京橋へ向かうこの通りは、江戸を代表する商業軸でした。
京橋は、江戸初期に開削された京橋川に架けられた橋で、日本橋、新橋とともに擬宝珠を備えた格式の高い橋でした。橋の東側には竹を扱う竹河岸、西側には野菜を扱う大根河岸があり、橋そのものが物流拠点の中央に位置していました。

広重が安政4年(1857)に描いた『京橋竹がし』では、月夜の京橋川と竹河岸が主役になっています。切絵図の平面図と錦絵を重ねると、地図上の青い水路が、夜まで荷を扱う河岸と商業の風景だったことが具体的にわかります。
銀座は「新両替町」――町名より先に銀座役所があった
現在の銀座中心部にあたる場所には、新両替町一丁目から四丁目が記されています。中央区によると、慶長17年(1612)ごろ、駿府から銀貨の鋳造・管理を担う銀座役所が現在の銀座二丁目付近へ移されました。銀座という呼び名は役所名に由来します。
地図には三十間堀町一丁目から八丁目が並び、その一角に「銀座町ト云」という注記も確認できます。行政上の町名は新両替町でも、「銀座」という地域名がすでに定着していたことをうかがわせる記載です。明治2年(1869)になると、新両替町などをまとめる正式な町名として「銀座」が採用されました。
三十間堀は銀座の東側を南北に走った堀です。現在は埋め立てられていますが、江戸時代には舟運と防火の両面で重要な水路でした。地図上では銀座の町並みが水路に囲まれ、現在の連続した市街地とは異なる輪郭を見せています。
木挽町と采女ヶ原――芝居町と広場が銀座の東側にあった
銀座の東側には木挽町一丁目から七丁目が並びます。木挽町は江戸の芝居町として知られ、歌舞伎の森田座などが置かれた時期がありました。現在の歌舞伎座が銀座四丁目の東側に建つ背景には、この地域に長く続いた芝居文化があります。
木挽町の南側には采女ヶ原の名も見えます。武家屋敷と町人地の間に広がった空地で、江戸後期には人が集まる場所として知られました。明治以降の銀座煉瓦街によって街路と景観は大きく変わりましたが、銀座東側に芝居・商業・水辺が重なる性格は江戸から続いています。
八丁堀は与力・同心の町だった
地図中央から東側には、本八丁堀、南八丁堀、片与力町、中与力町、そして多数の「組屋敷」が並びます。中央区の地域史によると、明暦3年(1657)の大火以前、この一帯には寺院が多くありました。大火後に寺院が移転すると、南北町奉行所配下の与力・同心の屋敷が集められました。
与力と同心は町奉行所の実務を担う役人です。犯罪捜査、治安維持、裁判実務、町の監督などに携わりました。時代劇で「八丁堀の旦那」と呼ばれるのは、この地域に町方の役人が集中して住んでいた歴史に由来します。
八丁堀という地名は、町の北側を流れた堀がおよそ八町、約900メートルあったことに由来するとされます。地図では武家地だけでなく町人地も混在し、幕末までに役人の屋敷地と商工業の町が入り組んだ地域へ変化していたことがわかります。
鉄砲洲と湊――江戸湾から荷物が入る玄関口
八丁堀の南東、海に近い区域には「磯辺大神宮」と書かれた寺社地や湊の町が見えます。この周辺は鉄砲洲と呼ばれ、江戸湾を往来する船が出入りする水運の要地でした。
現在の鐵砲洲稲荷神社の旧地は、江戸時代には現在地より北東寄りの水際にありました。中央区の解説では、江戸名所図会に諸国の商船が荷物を陸揚げする場所として描かれ、船乗りや廻船問屋から信仰を集めたとされています。地図に見える寺社地と水路の近さは、信仰と海運が密接だったことを伝えています。
築地本願寺は「海を築いた土地」に建てられた
地図の南西側には「西本願寺」と大きく記されています。現在の築地本願寺です。築地本願寺の寺史によると、寺は元和3年(1617)に浅草近くで創建されましたが、明暦3年(1657)の大火で焼失しました。
幕府から与えられた代替地は海上でした。門徒たちは海を埋め立てて土地を築き、翌年には仮御堂を建てます。「築地」という地名は、こうして築かれた土地に由来します。現在の築地市場跡周辺まで陸地が広がる以前、この地域は海岸線そのものでした。
埋め立てには佃島の門徒も関わりました。西本願寺と佃島が同じ切絵図に描かれていることは偶然ではなく、信仰と漁業・海運に結ばれた人的なつながりも読み取れます。
築地・明石町の武家地は、明治に外国人居留地へ変わった
西本願寺の東側から明石町にかけて、地図には大名屋敷や武家地が広がります。江戸時代には海岸に近い武家地だった場所が、明治元年(1868)以降、築地外国人居留地へ転換されました。
中央区によると、外国人居留地は現在の明石町一帯に設けられ、明治32年(1899)の条約改正まで存続しました。宣教師や外交官が暮らし、教会、学校、病院などがつくられます。のちの立教学院、明治学院、女子学院、雙葉学園などにつながる教育活動も、この築地・明石町周辺から始まりました。
江戸切絵図の武家屋敷地と、明治の外国人居留地を重ねると、開国が土地利用をどれほど大きく変えたかがわかります。海に面した防御・居住の空間が、国際交流と近代教育の拠点へ置き換わりました。
地図に見える大名屋敷――幕末政治の人物もいる
この図は町人地の印象が強い一方、築地・木挽町周辺には大名屋敷もまとまっています。原図に見える官途名を人物に置き換えると、幕末政治につながる顔ぶれが含まれていることがわかります。
| 地図表記 | 人物・家 | 歴史上の位置づけ |
|---|---|---|
| 一橋殿 | 徳川慶喜につながる一橋徳川家 | 慶喜は弘化4年(1847)に一橋家を継ぎ、のち15代将軍となりました。 |
| 松平越前守 | 松平慶永(春嶽) | 福井藩主。幕末四賢侯の一人で、幕政改革と公議政体論に関わりました。 |
| 松平土佐守 | 山内豊信(容堂) | 土佐藩主。大政奉還の建白に深く関わった幕末四賢侯の一人です。 |
| 松平阿波守 | 蜂須賀斉裕 | 徳島藩主。11代将軍徳川家斉の子で、蜂須賀家を継ぎました。 |
| 細川越中守 | 細川斉護 | 熊本藩主。幕末には藩内で横井小楠らの改革派が台頭します。 |
| 久世大和守 | 久世広周 | 関宿藩主。のち老中となり、公武合体と和宮降嫁を進めました。 |
| 井伊掃部頭 | 井伊直弼 | 彦根藩主、のち大老。嘉永3年(1850)に家督を継いだため、この表示は地図が刊行後に改訂された時期を考える手掛かりになります。 |
| 田沼玄蕃頭 | 田沼意尊 | 相良藩主。老中田沼意次の家系にあたり、幕末まで田沼家が大名として続いていたことがわかります。 |
「嘉永2年刊」という刊記と、井伊直弼のように1850年以後の官途名が同じ図に現れる点は、尾張屋版が繰り返し改訂されたことを示す重要な手掛かりです。切絵図は一度作った図をそのまま売り続けた資料ではなく、屋敷替えや藩主交代に合わせて情報を書き換える実用地図でした。
御船手屋敷と向井将監――江戸湾の船を統制した幕府の役所
霊岸島側には「御船手屋敷 向井将監」と記されています。御船手は幕府の船舶を管理し、水上交通や海上警備に関わる役職です。向井家は徳川家康の時代から船手を担った家で、「向井将監」の名は江戸の水軍・海運行政を象徴する存在でした。
中央区の水辺史料では、向井将監の屋敷周辺に複数の船手頭の屋敷が置かれ、幕府船の管理や江戸湾の警戒にあたったとされています。日本橋・京橋の商業地だけを見ると陸上都市に見えますが、この地図の東側には幕府の海事行政の拠点が置かれていました。
霊岸島と新川――灘の酒が江戸へ集まる物流地区
霊岸島は、寛永元年(1624)ごろに霊巌雄誉が埋め立て、霊巌寺を建立したことに名が由来します。寺は明暦の大火後に深川へ移りましたが、島の名は地域名として残りました。
その南側の新川は、17世紀後半に開削された運河です。中央区の地域史では、河村瑞賢による開削とされ、当初は材木商、その後は酒問屋が集中しました。灘など上方から樽廻船で運ばれた酒は新川周辺で荷揚げされ、江戸市中へ流通しました。
地図上の町割りを見ると、新川・霊岸島は水路に囲まれた島状の商業地です。大量の商品を扱う問屋にとって、船が店先近くまで入れること自体が重要な立地条件でした。現在は新川の水路の大半が埋め立てられていますが、「新川」の町名が物流都市だった記憶を残しています。
佃島――徳川家康が呼び寄せた漁師たちの町
地図の東南部には佃島、漁師町屋、住吉社がまとまって描かれています。中央区の解説では、佃島の人々は摂津国西成郡佃村などから江戸へ移住した漁師で、幕府から百間四方の干潟を与えられました。正保元年(1644)ごろに埋め立てが完成し、およそ30戸の漁師が住み始めたとされます。
佃の漁師は江戸湾での漁業を担い、白魚などを幕府へ献上しました。漁業権と引き換えに江戸の魚食文化を支えた集団です。佃煮で知られる現在の佃の地域史は、江戸初期に始まったこの漁師町へつながります。

住吉神社は佃島の鎮守で、漁師だけでなく江戸湾を行き交う船乗りや廻船問屋からも信仰を集めました。広重の『佃しま住吉の祭』では、大幟と祭礼船、水面が一体になった水辺の祭礼が描かれています。切絵図の「林住吉社」という小さな表示の背後に、島の共同体と海上交通を結ぶ大きな信仰世界がありました。
石川島と番所――佃島の隣には幕府の管理空間があった
佃島の北側には石川島、御用地、御舟手屋敷、番所などの表示が見えます。漁師町のすぐ隣に幕府の施設が置かれ、江戸湾へ出入りする船と水上交通を監督していました。
石川島はのちに水戸藩の造船所、さらに石川島造船所へとつながり、近代工業史の舞台にもなります。江戸期の水上交通管理、幕末の造船、明治以降の近代産業が同じ湾岸地域に積み重なっています。
永代橋には「長サ百二十間余」と書かれている
地図の東端に描かれた永代橋には、「永代ばし長サ百二十間余」と長さまで記されています。一間を約1.818メートルで換算すると、120間は約218メートルです。橋名だけでなく実用的な寸法情報まで載せる点に、切絵図が都市案内図として使われた性格が表れています。
永代橋は隅田川を越えて深川へ向かう重要な橋でした。橋を東へ渡ると、別の尾張屋版深川絵図の世界につながります。日本橋・京橋から新川、永代橋、深川へ続く道と水運を一続きに見ると、江戸東部の物流圏が理解しやすくなります。
浜御殿――海水を取り込む将軍家の庭園
地図の南西端には「浜御殿」と大きな区画があります。現在の浜離宮恩賜庭園です。東京都公園協会によると、承応3年(1654)、4代将軍徳川家綱の弟・松平綱重が海を埋め立てて甲府浜屋敷を造営したことに始まります。
綱重の子・綱豊が6代将軍徳川家宣になると、屋敷は将軍家の別邸「浜御殿」となりました。庭園の池には海水を引き入れ、潮の満ち引きで景観が変わる潮入の池が設けられています。町家と武家屋敷が密集する切絵図の端に、広大な水辺庭園が置かれていること自体が江戸湾岸の多様な土地利用を示します。
地図に記された主要な地名と施設を整理する
この図は町名が非常に多いため、地域の性格を理解するうえで重要な表示を機能別に整理すると、次のようになります。
| 分類 | 地図に見える表示 | 読み取れること |
|---|---|---|
| 東海道・商業 | 通一〜四丁目、南伝馬町一〜三丁目、京橋 | 日本橋から京橋へ続く江戸中心商業軸 |
| 銀座 | 新両替町一〜四丁目、三十間堀町一〜八丁目、「銀座町ト云」 | 銀座役所と町名成立前の銀座地域 |
| 芝居・商業 | 木挽町一〜七丁目、采女ヶ原 | 現在の歌舞伎座周辺へ続く芝居町 |
| 町奉行所配下 | 本八丁堀、南八丁堀、片与力町、中与力町、組屋敷 | 与力・同心が集中した武家地 |
| 寺院・湾岸 | 西本願寺、明石町、磯辺大神宮 | 埋立地に寺社と武家地が展開 |
| 幕府海事 | 御船手屋敷、向井将監、御舟手屋敷、番所、御用地 | 江戸湾の船舶管理と警備 |
| 物流 | 霊岸島、新川、南新堀 | 酒・材木などの問屋と河岸 |
| 漁業 | 佃島、漁師町屋、住吉社 | 江戸湾漁業と漁師共同体 |
| 橋 | 京橋、新橋、木挽橋、弾正橋、永代橋ほか | 陸路と水路を結ぶ交通網 |
| 将軍家 | 浜御殿 | 海辺の御殿と潮入庭園 |
幕末から明治へ――水辺の都市が近代東京へ組み替えられる
幕末から明治にかけて、この地図の範囲は東京でも特に変化の大きい地域になりました。銀座は明治2年(1869)に正式な町名となり、明治5年の大火後には煉瓦街が建設されます。築地・明石町には外国人居留地が置かれ、教会や学校が集まりました。
京橋川、三十間堀、新川などの水路は、近代以降の道路整備や震災復興、戦後の都市改造で多くが埋め立てられました。船を中心に組み立てられた街は、自動車交通を中心とする街へ変わります。一方で京橋、銀座、八丁堀、新川、築地、明石町、佃などの地名は残り、江戸の土地利用を現在まで伝えています。
現在の街で確認できる江戸の痕跡
- 築地本願寺:明暦の大火後に海を埋め立てて移転した寺院の歴史が現在地に続きます。
- 住吉神社:佃島の漁師共同体と海運信仰を現在へ伝えます。
- 浜離宮恩賜庭園:浜御殿の潮入庭園と海辺の地形を体感できます。
- 銀座:新両替町と銀座役所に由来する地名が、東京を代表する商業地名になりました。
- 八丁堀:与力・同心の町の名が駅名・町名として残ります。
- 新川:酒問屋街を支えた運河は失われましたが町名が残ります。
- 明石町:江戸の武家地から明治の外国人居留地へ転換した歴史を記念碑や施設で追えます。
北側の日本橋・神田方面は日本橋北神田浜町絵図、西側の江戸城周辺は御江戸大名小路絵図、永代橋の先は深川絵図へ続きます。尾張屋版29図全体の位置関係は尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内で確認できます。
築地八町堀日本橋南絵図が残した「水の都・江戸」
この一枚には、銀座の貨幣と商業、京橋の河岸、八丁堀の町方行政、築地本願寺の埋立、明石町の武家地、御船手の水上警備、新川の酒問屋、佃島の漁業、浜御殿の庭園が同時に描かれています。それぞれ別の歴史に見える場所が、江戸では堀と川を介して一つの都市機能を構成していました。
現在の銀座中央通りや築地の道路を歩いていると、水面はほとんど見えません。切絵図を重ねると、今の街路の下やビル街の間にかつて船が行き交い、橋と河岸を中心に人と物が動いていた都市の輪郭が戻ってきます。『築地八町堀日本橋南絵図』は、近代東京になる直前の「水の都・江戸」を最も密度高く記録した一枚です。
