中野坂上の歴史散歩|宝仙寺・吉宗の象・三重塔跡・醤油レンガ塀を歩く

中野区宝仙寺の現在の三重塔

中野坂上駅を出て住宅街へ入ると、学校、寺院、公園、警察署が並ぶ現在の街並みが続きます。その中に、江戸時代の三重塔の跡、将軍徳川吉宗が飼わせた象の小屋跡、明治の醤油醸造所を伝えるレンガ塀が点在しています。

現在の地図では別々の施設に見える場所も、時代を重ねると一つの地域史としてつながります。宝仙寺を中心に発展した土地が、明治に産業の町となり、大正から昭和に学校が増え、1945年の空襲を経て現在の中野坂上へ変わっていきました。

中野坂上・宝仙寺周辺はどんな場所?現在の地図から歴史をたどる

中野坂上駅の南東から東側、現在の中野区中央1・2丁目と本町2丁目には、時代の異なる歴史スポットが徒歩圏に集まっています。

中心にあるのが宝仙寺ほうせんじです。境内から北西へ離れた中央1丁目41付近には、1945年まで江戸時代の三重塔が立っていました。三重塔から生まれた「塔山」の名は、現在も塔山小学校や塔の山公園に残っています。

西へ進むと、本町2丁目の朝日が丘公園付近に江戸時代の象小屋跡があります。南側には明治期の山政醤油醸造所を伝えるレンガ塀、周囲には塔山小学校、堀越高等学校、宝仙学園があります。

宝仙寺はなぜこの地域の中心になったのか

宝仙寺ほうせんじの寺伝では、平安時代後期の寛治年間(1087~1094)に源義家みなもとの よしいえが創建したとされます。後三年の役から帰京する途中、陣中で守っていた不動明王像を安置するため、阿佐ヶ谷の地に寺を建てたという由緒です。

室町時代に現在地へ移り、江戸初期の1636年には三重塔が建立されました。徳川将軍家との関係も深く、将軍がこの一帯で鷹狩りを行った際の休憩所として利用されました。

近代に入っても地域の中心としての役割は続きます。宝仙寺境内には「中野町役場跡」の碑があり、1895(明治28)年から昭和初期にかけて中野町の行政拠点が置かれた時期がありました。

境内の石臼塚も地域史を伝えます。中野では製粉業が盛んで、機械化によって使われなくなった石臼を供養するために集めたものとされています。近くの醤油醸造所跡と合わせると、寺の周囲に暮らしと産業が集まっていたことが分かります。

宝仙寺境内の石臼塚
宝仙寺境内の石臼塚。中野で盛んだった製粉業で使われ、役目を終えた石臼を供養するために集めたものとされています。撮影:ゆる歴史散歩会(2026年)。
宝仙寺境内の石臼塚と現在の三重塔
宝仙寺境内の石臼塚と現在の三重塔。石臼塚は中野の製粉業の記憶を伝え、背後の三重塔は1992年再建です。撮影:ゆる歴史散歩会(2026年)。

1945年の戦災で大伽藍は焼失し、戦後に順次復興しました。現在境内に立つ三重塔は1992年に再建されたもので、江戸時代の旧三重塔とは建物も場所も異なります。

毎年の宝仙寺プロジェクションマッピング|子どもたちが本堂を光と映像で彩る

宝仙寺では、宝仙学園小学校プロジェクションマッピングクラブによるプロジェクションマッピングが毎年行われています。特設サイトによると2018年に始まり、児童がKeynoteやCanvaなどを使って映像を制作し、宝仙寺を舞台に発表してきました。

これまでのテーマは、2018年「HOSEN FANTASIA」、2019年「MUSIC」、2020年「世界」、2021年「夏色」、2022年「冒険」、2023年「未来」、2024年「魔法」、2025年「夏祭り」と続いています。寺院の歴史空間を、地域の子どもたちが現代の映像表現の場として使う催しです。

2026年は「宇宙」|8月25日に宝仙寺で開催

2026年の宝仙寺プロジェクションマッピングのテーマは「宇宙」です。2026年8月25日(火)18時から20時まで宝仙寺で開催されました。第1部は18時から19時まで境内で「こども縁日」、第2部は19時20分から始まり、プログラム3で本堂を舞台にプロジェクションマッピング「宇宙」、プログラム4でエンディングムービー「無限の可能性」が組まれました。

第2部のプログラム1はオープニングイベント、プログラム2はシマオダンスカンパニーによるダンス公演です。下の動画では、このプログラム1・2の様子を続けて見られます。本番のプロジェクションマッピング「宇宙」に入る前の会場の雰囲気も分かります。

プログラム4のエンディングムービー「無限の可能性」は、イベントの締めくくりとして上映されました。下の動画でその映像を見られます。オープニングとダンス公演の動画と合わせると、2026年の第2部が始まってから終演へ向かう流れをたどれます。

開催情報や今後の活動は宝仙学園小学校プロジェクションマッピングクラブ特設サイトで確認できます。

2026年8月25日開催レポート|19時15分ごろに宝仙寺へ

2026年8月25日、ゆる歴史散歩会では8人で宝仙寺を訪れました。イベント日時は2026年8月25日19時。境内に着いたのは19時15分ごろで、第2部開始の5分ほど前です。思っていたより多くの人が集まっていましたが、本堂正面への投影は広い範囲から見えるため、到着が開始直前でも見づらさは感じませんでした。

宝仙寺プロジェクションマッピング2026開催前の境内と三重塔
19時15分ごろの宝仙寺境内。第2部開始5分前、本堂前には多くの来場者が集まっていました。撮影:ゆる歴史散歩会(2026年8月25日)。

本堂前の内側には子どもたちが座り、大人はその周囲に座るか、後方で立って鑑賞する形でした。境内は人が多くても視界が極端に遮られることはなく、プロジェクションマッピングは後方からでも十分に楽しめました。

子どもたちのダンスから本堂いっぱいの映像へ

第2部では、シマオダンスカンパニーによるダンス公演が行われました。光る小道具を手にした子どもたちのパフォーマンスは会場の雰囲気に合い、かわいらしさと元気さのあるステージでした。

宝仙寺プロジェクションマッピング2026で踊る子どもたち
第2部のダンス公演。光る小道具を使った子どもたちのパフォーマンスが本堂前で披露されました。撮影:ゆる歴史散歩会(2026年8月25日)。

その後は本堂そのものをスクリーンにした映像演出へ進みます。エンディングでは、ロボットのような造形や数式、光のラインが建物の柱や扉、屋根の形に沿って投影され、寺院建築と映像が一体になった見え方が印象的でした。

宝仙寺本堂に投影されたプロジェクションマッピング2026宇宙のロボット映像
エンディングで本堂に投影された映像。建物の形を生かした光と映像が境内を包みました。撮影:ゆる歴史散歩会(2026年8月25日)。
宝仙寺本堂に数式が投影されたプロジェクションマッピング2026のエンディング
エンディングのプロジェクションマッピング。数式や光のラインが宝仙寺本堂いっぱいに投影されました。撮影:ゆる歴史散歩会(2026年8月25日)。

こども縁日と境内の設備

境内にはこども縁日の屋台も出ており、かき氷は400円。軽食やドリンクも販売され、開演前後を境内で過ごせる雰囲気でした。

宝仙寺プロジェクションマッピング2026のこども縁日に出店した屋台
こども縁日に出ていた屋台。かき氷は400円で、ほかにも軽食やドリンクが販売されていました。撮影:ゆる歴史散歩会(2026年8月25日)。

境内には清潔なトイレと自動販売機があり、夜のイベントでも比較的快適に過ごせました。開始直前に到着しても鑑賞しやすく、子ども連れから大人まで同じ境内で楽しめる催しでした。

プロジェクションマッピング目的で宝仙寺へ行くアクセス

会場の宝仙寺は東京都中野区中央2丁目33番3号です。東京メトロ丸ノ内線・都営大江戸線「中野坂上」駅から徒歩約5分。新宿駅西口から都営バス王78系統または宿91系統を利用する場合は「宝仙寺前」下車、徒歩約2分です。

プロジェクションマッピングは夜の開催ですが、明るい時間に到着すると、現在の三重塔や石臼塚、中野町役場跡などを先に見てから催しへつなげられます。

消えた24メートルの三重塔|「塔山」という地名の正体

江戸時代の宝仙寺ほうせんじを遠くからでも分かる存在にしていたのが、1636(寛永13)年建立の三重塔でした。

旧三重塔は現在の宝仙寺境内ではなく、中央1丁目41付近に立っていました。中野区観光協会の資料では高さ24メートル、屋根は檜皮葺ひわだぶき。江戸近郊で唯一の三重塔として知られたとされています。

『江戸名所図会』には、塔が周囲の木々の上へ高く伸びる姿が描かれています。中野村の飯塚惣兵衛夫妻が施主となって建立した記録も残り、塔内には夫妻の木像が安置されていました。

江戸名所図会に描かれた中野宝仙寺の三重塔
『江戸名所図会』に描かれた中野の三重塔。国立国会図書館デジタルコレクション/Wikimedia Commons/Public Domain。

この塔から周辺は「塔山」「塔ノ山」と呼ばれるようになりました。1945年5月の空襲で三重塔は焼失しましたが、名前は現在の塔山小学校、塔の山公園、地域の町会名などに残っています。

塔の山公園は1973年6月15日開園です。旧三重塔跡とは別の場所にあり、公園名がかつての地域名を現在へ伝えています。

旧三重塔跡には現在、記念碑や文化財表示があり、塔が宝仙寺境内から離れた場所にあったことを現地で確認できます。

中野区中央にある宝仙寺旧三重塔の記念碑
宝仙寺旧三重塔の記念碑。撮影:Tengusabaki/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。

徳川吉宗の象が中野坂上に住んでいた

1728(享保13)年、8代将軍徳川吉宗とくがわ よしむねの求めに応じ、ベトナムから長崎へ雄と雌の象が運ばれました。雌は長崎で死に、雄が翌1729年に京都を経て江戸へ向かいます。

1728年にベトナムから日本へ渡来した象を描いた1729年刊行の馴象図
1728年に日本へ来た象を描いた『象志』の「馴象図」。1729年/国立国会図書館デジタルコレクション/Wikimedia Commons/Public Domain。

京都では中御門天皇なかみかど てんのうに拝謁し、資料には「広南従四位白象こうなんじゅしいはくぞう」と呼ばれた記録が残ります。「白象」は称号に含まれる表現で、この象はアジアゾウです。

象は東海道を進んで江戸へ入り、吉宗のもとで飼育されました。やがて飼育の負担が大きくなり、1741年、中野村の農民・源助に預けられます。

象小屋があったとされるのが、現在の本町2丁目32、朝日が丘公園付近です。源助は象を飼育し、人々にも見物させました。江戸の中心から離れた中野村に、多くの人が本物の象を見に訪れる場所が生まれました。

象が中野で死ぬと、頭骨や牙が宝仙寺へ納められ、供養されたと伝わります。1884年刊行の『新編武蔵風土記稿』には、宝仙寺に伝わった象の頭骨と牙を記録した図が掲載されています。これらの遺物は戦前まで宝仙寺に保存されていましたが、1945年の戦災で大部分が失われました。

宝仙寺が所蔵していた象の頭骨と牙を描いた明治期の記録
宝仙寺が所蔵していた象の頭骨と牙。『新編武蔵風土記稿』巻124(1884年)/Wikimedia Commons/Public Domain。

明治の中野は醤油を造る町だった|山政醤油醸造所のレンガ塀

現在の中央2丁目32付近には、山政醤油醸造所やままさしょうゆじょうぞうじょ(浅田醤油)のレンガ塀があります。

山政家は当時の中野の資産家で、醤油醸造所は1872(明治5)年創業。中野区の資料によると施設は広大で、現在レンガ塀がある付近から青梅街道を越えた一帯まで続いていたと伝わります。

レンガ塀は1899(明治32)年築とされます。石灰、海藻、砂などを使う日本の漆喰技術と、レンガを交互に積むフランス積みを組み合わせた初期の洋風レンガ構造物です。

明治から大正の中野では、青梅街道の物流を背景に、醤油・味噌などの醸造業や、麦・そば粉の製粉業が発展しました。宝仙寺の石臼塚も同じ産業史につながります。

山政醤油醸造所は昭和まで営業しましたが、東京空襲で建物の大半が焼失しました。現在見られるレンガ塀は中央2丁目の児童公園に移築・復元されたものです。

中野区中央に移築復元された山政醤油醸造所のレンガ塀と案内板
山政醤油醸造所のレンガ塀と案内板。1899(明治32)年築とされるレンガ塀の一部が中野区中央2丁目の児童公園に移築・復元されています。撮影:ゆる歴史散歩会(2026年)。

「塔山」「宮前」――公園名に残った消えた町名

現在の「中央」という町名は、1967年の住居表示で成立しました。それ以前、この周辺には塔の山町、宮前町など複数の町名がありました。

「塔山」は宝仙寺ほうせんじ三重塔に由来します。塔そのものは1945年に失われても、塔山小学校や塔の山公園に名前が残りました。

「宮前」も現在の宮前公園に残る旧町名です。旧宮前町は現在の中央2丁目の一部にあたり、地域の鎮守である中野氷川神社との位置関係から生まれた名称とされています。宮前公園は1979年2月20日開園、所在地は中央2丁目39番です。

大正から中野は「学校の町」へ|塔山小・堀越・宝仙学園

塔山小学校

中野区立塔山小学校は1926(大正15)年、桃園第五尋常小学校として開校しました。学校公式資料では4月22日を開校記念日としています。戦時中には児童の疎開を経験し、校舎も全焼しました。1947(昭和22)年に現在の「塔山小学校」となりました。

堀越高等学校

堀越高等学校ほりこしこうとうがっこうの「堀越」は、創立者堀越千代ほりこし ちよの姓です。千代は1897(明治30)年、東京・麹町区飯田町に和洋裁縫女学院を創設し、和裁・洋裁などの技術を通じて女性が自立して生きるための教育に取り組みました。1923(大正12)年には中野の地に堀越高等女学校を創立し、初代校長に就任しました。

堀越高等女学校は1945年5月25日の空襲で校舎が全焼し、1948年に新制の堀越高等学校として再出発しました。1951年には学校法人堀越学園が発足し、1957年に男女共学となります。

現在よく知られる芸能活動と学業を両立する教育の系譜は戦後に形づくられました。学校公式沿革では、1973年にDコース(芸能活動コース)の第1回生が卒業しています。明治期から女子教育に携わった堀越千代が大正期の中野に学校を開き、戦災と学制改革を経て現在の高校へ続いた歴史があります。

宝仙学園

宝仙学園ほうせんがくえんの教育事業は、1927(昭和2)年の感応幼稚園、1928年の中野高等女学校へ続きました。現在は宝仙寺の周囲に幼稚園、小学校、中学・高等学校、こども教育宝仙大学が集まっています。

東京大空襲でこの一帯は何を失ったのか

1945年の空襲は、現在の中野坂上の景観を考えるうえで大きな境目です。宝仙寺ほうせんじでは大伽藍と江戸時代の三重塔が焼失し、寺に保存されていた象の頭骨や牙も大部分が失われました。

塔山小学校も校舎を焼失し、堀越高等女学校は1945年5月25日の空襲で校舎が全焼しました。戦災資料をさらにたどるなら、東京都復興記念館と横網町公園を歩く記事で、関東大震災と東京大空襲の記録を紹介しています。

成願寺と中野長者・鈴木九郎について

中野坂上の歴史をさらに西へたどると、成願寺と「中野長者」鈴木九郎すずき くろうにつながります。成願寺境内には鈴木九郎の宝篋印塔ほうきょういんとうがあり、東京都指定旧跡となっています。成願寺と中野長者・鈴木九郎は別記事で詳しく紹介します。

中野坂上・宝仙寺周辺の歴史を年表で整理

年代出来事
1087~1094年ごろ宝仙寺の寺伝では、源義家が阿佐ヶ谷に寺を創建
室町時代宝仙寺が現在地へ移る
1636年宝仙寺三重塔が建立される
1728年吉宗が求めた象がベトナムから長崎へ到着
1729年雄の象が京都を経て江戸へ向かう
1741年象が中野村の源助へ預けられる
1872年山政醤油醸造所が創業
1895年宝仙寺境内に中野町役場が置かれる
1899年山政醤油醸造所のレンガ塀が建てられる
1923年堀越高等女学校が創立
1926年桃園第五尋常小学校が開校。後の塔山小学校
1927年感応幼稚園設立
1928年中野高等女学校設立
1945年空襲で宝仙寺の大伽藍・旧三重塔、学校施設などが焼失
1973年塔の山公園開園
1979年宮前公園開園
1992年宝仙寺境内に現在の三重塔が再建される
2018年宝仙寺で宝仙学園小学校のプロジェクションマッピングが始まる
2020年中野警察署が現在地へ移転
2026年宝仙寺プロジェクションマッピング「宇宙」開催

実際に歩くならここを見る|中野坂上歴史散歩

  1. 中野坂上駅:青梅街道と山手通りが交差する現在の地域中心部。
  2. 朝日が丘公園・象小屋跡:本町2丁目32。吉宗ゆかりの象を飼育した場所。
  3. 宝仙寺旧三重塔跡:中央1丁目41付近。江戸時代の三重塔が立っていた地点。
  4. 塔の山公園:中央2丁目7。「塔山」の名を残します。
  5. 宝仙寺:現在の三重塔、石臼塚、中野町役場跡などを見られます。
  6. 山政醤油醸造所レンガ塀:中央2丁目32。1899年築のレンガ塀が移築・復元されています。
  7. 宮前公園:中央2丁目39。旧町名「宮前町」を残します。
  8. 塔山小学校・堀越高等学校・宝仙学園:公道から位置関係を見ると、この一帯が学校街へ変化した過程をたどれます。
  9. 中野警察署:2020年に現在地へ移転した新庁舎。

西新宿から象小屋跡までつなげて歩くなら、西新宿・中野坂上の夜散歩も関連ルートになります。中野区内の別の史跡巡りは、犬屋敷や新井薬師など中野の史跡を巡る散歩で紹介しています。

まとめ

中野坂上の住宅街には、江戸の三重塔、吉宗ゆかりの象、明治の醤油醸造所、大正から昭和に生まれた学校、1945年の戦災と戦後復興が同じ徒歩圏に重なっています。さらに現在の宝仙寺では、宝仙学園小学校の子どもたちによるプロジェクションマッピングが毎年行われ、歴史ある境内が新しい地域活動の舞台にもなっています。

参考文献・確認先