上野駅の東側から浅草へ向かうと、繁華街のにぎわいが少しずつ薄れ、神社と寺が連なる町並みに変わります。下谷神社から東上野の寺町を抜け、松が谷の秋葉神社、曹源寺、矢先稲荷神社を経て、西浅草の東本願寺へ。歩く距離は大きくありませんが、江戸の火災、寺院の移転、町名の由来、測量と天文学、庶民の信仰まで、東京の成り立ちが凝縮した道です。
現在はすべて台東区ですが、この一帯は旧下谷区と旧浅草区が接していた地域でもあります。上野と浅草を観光地として別々に見るより、その間を歩くと、江戸から東京へ変わる過程が街路や寺社の配置に残っていることがわかります。

上野・稲荷町から浅草へ歩くコース
上野駅前を出発し、銀座線の稲荷町駅周辺から東上野、松が谷、西浅草へ進みます。主要な立ち寄り先は次の通りです。
下谷・東上野・松が谷に寺が集まった理由
東上野から松が谷を歩くと、短い距離の中に寺院が次々と現れます。現在の町並みの骨格をつくった大きな契機が、明暦3年(1657)の明暦の大火と、その後も続いた江戸の火災です。江戸中心部の再編に伴い、多くの寺院がこの地域へ移され、寺町が形成されました。
浅草通りに仏壇・仏具店が並ぶ景観も、周辺に寺院が集まった歴史と結びついています。真照寺や長龍寺の周辺を通るだけでも、観光地の上野と浅草の間に、江戸以来の寺町が続いていることを実感できます。
下谷神社|稲荷町の地名と寄席発祥
下谷神社は天平2年(730)の創建と伝わり、神社公式では「都内で最も古い『お稲荷様』」と紹介されています。江戸時代には下谷稲荷社と呼ばれ、延宝8年(1680)に現在地に近い広徳寺門前へ移った後、その名から周辺が「稲荷町」と呼ばれるようになりました。明治5年(1872)に下谷神社へ改称しています。
もう一つの重要な歴史が寄席です。寛政10年(1798)、境内で山生亭花楽が有料で落語を聞かせる興行を開き、下谷神社は「寄席発祥の地」とされています。現在の町名と江戸の大衆芸能が、一つの神社からつながります。
下谷神社から秋葉原方面へ歩く別コースは、上野・御徒町・秋葉原の歴史散歩でも紹介しています。
龍谷寺の行智阿闍梨|江戸の梵学者が眠る寺
龍谷寺には、江戸後期の修験者・梵学者だった行智阿闍梨の墓があります。行智は安永7年(1778)生まれ。悉曇と呼ばれる梵字・サンスクリット研究に通じ、多くの著作を残しました。国立国会図書館の典拠・書誌資料でも、天保12年(1841)に没し、墓所を下谷龍谷寺とする記録が確認できます。
江戸では仏教研究を通じてインド由来の文字や音韻が学ばれていました。寺町の一角に残る行智の墓は、江戸の知識人が海外の言語世界へ接近していた痕跡でもあります。
源空寺|伊能忠敬と高橋至時が並んで眠る
源空寺の墓地には、日本地図史を語るうえで欠かせない二人が眠っています。測量家の伊能忠敬と、その師で幕府天文方の高橋至時です。二人の墓はともに国の史跡に指定されています。
忠敬は50歳で江戸へ出て至時に学び、暦学・天文学・測量術を身につけました。寛政12年(1800)に蝦夷地の測量へ出発し、その後17年にわたり全国を測量します。文化15年(1818)に亡くなった後、幕府天文方が作業を引き継ぎ、文政4年(1821)に「大日本沿海輿地全図」を完成させました。江戸の測量が和算や暦とどうつながったかは、和算を実際に解きながら学ぶ解説記事でも紹介しています。
地図をつくった忠敬だけを見ると一人の偉業に見えますが、源空寺では師の至時がすぐ近くに眠っています。学問を授けた天文学者と、全国を歩いた測量家を同じ墓地でたどれることが、この寺の大きな魅力です。
谷文晁・高橋景保・幡随院長兵衛の墓も残る
源空寺には、伊能・高橋師弟のほか、江戸後期を代表する絵師の谷文晁、至時の長男で幕府天文方を務めた高橋景保、江戸初期の町奴として知られる幡随院長兵衛の墓もあります。谷文晁墓と幡随院長兵衛墓は東京都指定旧跡です。科学史、美術史、江戸の都市文化に関わる人物が一つの墓地に集まっています。
秋葉神社|秋葉原の名は火除けの神社から生まれた
秋葉神社は、現在の秋葉原という地名の由来につながる神社です。明治初年、東京で相次いだ火災を受け、現在の秋葉原駅付近に火災鎮護の祈願所が設けられました。周辺は「秋葉の原」「秋葉っ原」などと呼ばれるようになり、のちの「秋葉原」という地名へつながりました。
鉄道用地の整備に伴って神社は松が谷へ移りました。電気街として世界的に知られる秋葉原と、静かな寺町の松が谷が、一つの神社の移転史で結ばれています。
曹源寺|かっぱ寺に残る水害と排水の記憶
曹源寺は「かっぱ寺」の名で親しまれています。寺は天正16年(1588)に創建され、その後湯島を経て、明暦の大火後に現在の松が谷へ移りました。
かっぱの伝承は、この地域がかつて水害に悩まされた土地だったことと結びついています。江戸時代、地元の合羽商・喜八が私財を投じて排水工事を進め、河童たちが工事を手伝ったという話が伝わりました。河童の部分は伝承ですが、低地の排水が町づくりの課題だった背景を伝える物語として残っています。かっぱ橋という地名の記憶と合わせて歩くと、現在の商店街とは違う土地の姿が浮かびます。
矢先稲荷神社|三十三間堂と通し矢の記憶
矢先稲荷神社の由来は、徳川家光の時代までさかのぼります。寛永19年(1642)、浅草に三十三間堂が建てられ、その守護神として稲荷が勧請されました。社が弓の的より先にあったことから「矢先」の名が生まれたと伝わります。
三十三間堂では、長い軒下を射通す「通し矢」が行われ、弓術の名所となりました。現在の拝殿天井には、神武天皇の時代から近代までの騎乗人物を描いた100枚の「日本馬乗史」が並びます。小さな境内に、江戸の弓術と日本の騎馬文化が重なっています。
東本願寺|明暦の大火で浅草へ移った大寺院
散歩の終盤に現れる東本願寺は、現在の西浅草を代表する大寺院です。寺の起源は天正19年(1591)の神田にさかのぼり、明暦の大火後に浅草へ移転しました。江戸時代には朝鮮通信使の宿舎となり、浅草の大きなランドマークとして知られました。

葛飾北斎は「冨嶽三十六景 東都浅草本願寺」で、巨大な屋根越しに富士山を描きました。高い建物が少なかった江戸では、本願寺の大屋根そのものが町の景観を形づくる存在でした。

東本願寺の歴史や北斎の作品、朝鮮通信使との関係は、浅草・東本願寺の歴史と盆踊りガイドで詳しく紹介しています。
火災と移転がつくった上野・浅草の間の町
このコースでは、明暦の大火後に移った寺院、火除けを願って生まれた秋葉神社、排水工事の記憶を伝える曹源寺が続きます。江戸は火災や水害のたびに町割りを変え、寺社や人々も移動しました。その結果として東上野と松が谷に寺町が生まれ、稲荷町や秋葉原といった地名にも信仰の記憶が残りました。
一方、源空寺では伊能忠敬と高橋至時、龍谷寺では行智の墓に出会います。都市の再編によって寺院が集まった場所が、江戸の学問や文化を伝える墓所の集積にもなりました。上野から浅草まで歩くことで、観光名所の間に残る江戸の知識と生活の歴史を一本の道としてたどれます。

